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大論争3月号を開始します。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月6日(水)00時02分23秒]

掲示板の不調でご迷惑をおかけいたしました。<br>引き続き2月号の復旧作業にかかりますが、ごく一部を除き復旧可能の模様です。


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Re: Title 24国配置問題と採点基準(四国東部説)

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [3月6日(水)06時46分50秒]

元の発言 [ Title 24国配置問題と採点基準 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 3月6日(水)06時42分44秒 ]

上のような採点基準で、自説を採点しました。

総点(G-22) 2*2+4*16+5*1+6*3+7*1+8*1=106点
得点(四国) 77.0点
*72.6%

総点(A-F) 2*1+4*2+6*3=28点
得点(九州北部) 21.2点
*75.7%

2つを比べてみても、なかなか良いと思うのですが。
他にも、この程度の比定案があるかどうか、
ぜひ検討をお願いしたいのです。
#他にあるようなら、自説はこじつけ案といって
#よいと思います。

[内訳](h→F、uOi→エ段)
対馬(tuduma) 津島(tusima)
 6-1(d-s)-0.2(u-i)=4.8
一大(ituda) 石田(isida)
 6-1(t-s)-0.2(u-i)=4.8
末盧(matura) 松浦(matura)
 6-0=6
伊都(ita) 怡土(ito)
 4-0.4(a-o)=3.6
奴(na) 儺(na)
 2-0=2
不彌(FOmi) ×海(umi)
 4-4=0
投馬(doma-duama) 駄場(damba) 補注1
 4-0.4(ua−a)-0.2(m-mb)=3.6
邪馬台(yama**) ×山(yama)
 6-6=0
斯馬(sima) 児島(kosima)
 4-0.3(ko)=3.7
巳百支(zipaki) 塩飽(siwaku)
 6-0.2(z-s)-0.2(h-w)-0.2(i-u)=5.4
伊邪(iya) 五夜(iya)
 4-0=4
都支(taki) 土器(doki) 補注2
 4-0.2(t-d)-0.4(a-o)=3.4
彌奴(mina) 三野(mino)補注3
 4-0.4(a-o)=3.6
好古都(Fokata) 羽方(hakata)
 6-0.4(o-a)=5.6
不呼(FOFa) 法皇(houwau)
 4-0.4(O-ou)-0.2(F-w)-0.4(a-au)=3.0
姐奴(siana) 伊曾乃(isOnO)
 4-0.3(i)-0.2(a-O)=3.5
對蘇(tesa) ×出作(desaku)
 4-4=0
蘇奴(sana) ×杣田(somada)
 4-4=0
呼邑(FayOp) 風早(kasahaya)
 5-0.2(O-a)-1(p)-0.45(kasa)=3.35
華奴蘇奴(wanasana) 温泉(wonasena-wonusenu) 補注4
 8-0.4(o-a)-1(e-a)-0.2(n-m)*2-0.8*2(a-?)=4.6
鬼(ke-kOi) 久味(kumi)
 2-1(Oi-u)=1
為吾(wanga) 吾河(wangaha)
 4-0.3(ha)=3.7
鬼奴(kena) 浮穴(ukena)
 4-0.3(u)=3.7
邪馬(yama) 城山(zyoyama)
 4-0.3(zyo)=3.7
躬臣(kungzinu) 楠目(kunzume) 補注1
 7-0.2(i-u)-0.2(n-m)-0.8(u-e)=5.8
巴利(Fari) 奈半利(nahari)
 4-0.3(na)=3.7
支惟(kiye) 宍喰(sisikuye) 補注5
 4-0.45(sisi)-0.2(i-u)=3.35
烏奴(wona) 宇奈為(unai)
 4-0.4(wo-u)-0.3=3.3
奴(na) 那賀(naga)
 2-0.4(ga)=1.6
狗奴(kona-kuana) 九王野(kuwano) 補注6
 4-0.2(ua-uwa)-0.4(a-o)=3.4

補注1「投馬−駄馬」「躬臣−楠目」
高知における発音は古くは濁音の前に鼻音が入っていたと考えられている。
また現在でも高知の一部では、バ行やダ行の子音が鼻にかかった音として残っている。
「駄馬」の「バ」が鼻音要素が強い「mba」という発音であったとすると、
音訳者が「b」を選ばず「m」を選んだ可能性は高いと推測される。
補注2「都支−土器」
土器川はこの地域の主要河川。讃岐山脈から瀬戸内海まで狭い範囲を北流する土器川は、
全国の一級河川の中でも流路延長が短く、急流河川で有名な黒部川と同様に下流部まで
急勾配で流れる急流河川の特性を持っている。「滝」は古くは急流を意味した。
参考 土器川を取り巻く環境
http://www.skr.mlit.go.jp/kagawa/outline/river/dokigawa.htm
補注3「彌奴−三野」
大水上(おお「みな」かみ)神社(讃岐二宮)ならば一致する。
補注4「華奴蘇奴−温泉」
「をなせな」と発音していた可能性もある。 古い音読みの撥音にはmとnがあり、
それらに母音を付けたもので地名を表記することがある。
元明天皇の和銅六年(713)5月2日の官命において、
「畿内、七道の諸国は、郡、郷の名には好き字をつけよ」とされたことに由来する。
「しなの」の場合は「信」のn撥音にaをつけて「信濃」に、
「なにわ」の場合は「難」にiをつけて「難波」となった。
面白い例として「なましな」が「男信」(上野国利根郡?)は、
mとn両方を適用している。
補注5「支惟−宍喰」 
侵食による崩壊地には、全国的に蛇喰・猿喰・宍喰などの地名が多い。
ここの地名も同様で、「シシ」にはとくに意味はなく、「喰」が「クエ(崩壊地)」
の意であることが重要である。(創拓社 日本地名ルーツ辞典より)
補注6「狗奴−九王野」
徳島県において「九王野」から「桑野」と文字が変化した例がある。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月10日(日)23時03分52秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月10日(日)21時47分59秒 ]

>> こんばんは。

眠いよー

>>  =と言うのではなくそうなのかも知れないと書紀編纂者は思ったくらいのところではないでしょうか。あるいはそう匂わせているとか。

というよりも記紀編纂者は知ってて書かなかったと思われます。
私独自の説ですが、卑弥呼が亡くなったあとはそのまま卑弥呼神社として祭られた。でも後の時代おそらく7世紀以後でしょうか、中国への朝貢はタブーとする風潮があったと思われます。なんせ、聖徳太子以来中国とは対等から対決へと向かった時代ですから。だから、倭の五王の記事も記紀には載せてない。
その風潮のため卑弥呼の九州での事績は史実から神話へと格下げされたものと思ってます。だから、記紀ではそのあとの東遷した勢力の大和での記事からが記録として残っているのです。
そして、卑弥呼神社は別の神社に名前を変えた。しかし地元の参拝風習は根強かった。太宰帥はかならずここを参拝して大宰府入りしたそうです。なにせ、「廟」ですからね。

>>  むしろ、卑弥呼は天照大神ではないだろうかと。伊勢神宮の八咫鏡がなんであるのかが鍵だと思います。

はい。平原の女性が天照大神だと思ってます。八咫鏡も出土してますし。この王の後継者たちが伊勢神宮へ東遷したものかと。「仲哀紀」では伊都国は昔「イソノクニ」といったそうです。イソノクニ=伊勢の国。

>>  不弥国津屋崎説ですね?

違うって。不彌国は宇美でいいんです。
その近辺で神宮皇后とすごくかかわりの深い神社といったらあそこしかないでしょう。夫がその地で亡くなってるんです。
ちなみに宇美八幡宮ではないですよ。




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Re: 焚書説

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月10日(日)23時23分57秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月9日(土)19時16分51秒 ]

 くみさん、三河さん、こんばんは。

 天皇記・国記の焚書説に関してですが、
 まず、書紀の記事を正確に引用しておきます。乙巳の変の際に、
「蘇我臣蝦夷等臨誅、悉焼天皇記・国記・珍宝。
 船史恵尺、即疾取所焼国記、而奉献中大兄。」
 蘇我蝦夷が天皇記と国記を焼こうとしたが、船史恵尺が国記のみを取り出し
中大兄に献じたということで、国記は燃えていませんね。

 推古二十八年に、皇太子と嶋大臣が、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十
部并公民等の本記を録した、と書紀に記されています。
 しかし当時公民という用語は無いはずであり、この記事は疑わしいとする説、
天皇記・国記に関してだけは史実だろうとする説があります。そして船史恵尺
は天皇記・国記編纂に関与していたのではないかとする説があります。

 乙巳の変での天皇記焼失記事の真相は解りませんが、とにかく日本書紀は、
1,天皇記は焼亡した。しかし国記は残った。
2,船史恵尺がこのことに関して功績がある。 と、陳述しています。

 いろんな解釈が可能でしょうね。
 くみさんや三河さんの仰有る、「焚書」の可能性は大きいでしょう。
 「焚書」を「火災」に書き換えた、ということですね。

 それに関して船史恵尺に功績がある。つまり、船史恵尺が編纂に関わったと
ころの「国史」を献上し、それが焚書されたのかも知れませんね。

 一歩進めて、この事件は皇極四年のものではなく、後の時代の事件をここに
持って来たという解釈も成り立つ余地もありますね。事件の年紀を遡らせて記
述する、というのは書紀の常套手段の一つですから。

 恵尺は、中大兄にではなく大海人に「国史」を献上したのかも知れません。

 あるいは焚書は後の時代に起こった事件、書紀編纂に近い時代かも知れませ
ん。それに船史恵尺が関わっているかも知れません。

 国分の松岳山古墳辺りで、船王後墓誌が出土しましたが、そのすぐ南に田辺
廃寺があります。藤原不比等が幼少時代を過ごした土地です。恵尺と不比等に
接点がないとも言えないようです。
 ここまで想像すると小林惠子氏の世界に近くなりそうですね。

 一方、天皇記・国記編纂記事は、いわゆる聖徳太子関連記事です。
 書紀編纂の最終段階に加筆された可能性が極めて大きい記事です。すると天
皇記・国記そのものが虚構である可能性も残ります。
 何か曖昧模糊とした結論になりましたが・・。

 それと、渡来人に関してですが、何を渡来人とするかが問題ですね。
 秦氏、漢氏を渡来人とするなら、三輪氏も物部氏も渡来人でしょう。
 百済・高句麗滅亡時、最後の渡来の波があるのですが、これ以後の渡来人と、
それ以前の渡来人は、少々、性格が異なるようですね。
 また、上の二つの間に、蘇我氏などが入るようですね。
 そしておそらく天皇家も、上のいずれかの時期の渡来人でしょう。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月11日(月)17時29分05秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月8日(金)21時59分05秒 ]


郭公さん、こんにちは。

 いきなり、ですが….
 難升米たちが帯方郡に現れたタイミングの話と、帯方郡から狗邪韓國までの循海岸ルートの里程の話とは、直接的には関係ありません。公孫氏滅亡の報が海岸沿いに伝達されたとか、難升米が海岸沿いに進んで帯方郡にむかったなどとは、主張しておりませんので。


>>  また、釜山から陸路だとしますと、韓は方四千里ですから、釜山から郡までは鹿路で5000余里になります。
>>  海路より2000余里短いのですから、koujiさんがお示しいただいた根拠を適用すれば、約二ヶ月早く到着することになります。

 ここは、現実の移動距離及び時間が問題なのですから、机上で算出されたと推定される「方可四千里」から対角線の長さを算出されても困ります。現実には沙里院から釡山まで、直線で468km程、約1,076里です。道程は二千餘里といったところでしょうか。



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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月11日(月)17時30分58秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月10日(日)15時44分10秒 ]

 どうも!

>> 実は、この密に海岸に沿ってというところが気になるのです。
>> 海岸線を見ながら進むのはわかりますが、別に海岸線から30mとかいう距離ではないでしょう。

 それはそうでしょう。まあ、余裕を持って視認可能であり、いざという時逃げ込むことが可能な距離です。


>> 大阪湾の話は渦潮がらみだと思いますが。

 そうではないようです。悪風に遭うのを心配しています。


>> 前に論議されていたような、まるでフラクタルごときの航海はされなかったと思います。

 フラクタルという話は、現代の航路に比べて古代の航路にはより頻繁な寄港が想定される点を捉えて、その航跡を表現するために用いられたものと思います。具体的には、同じ海岸線沿いを航海しても、寄港回数が多い方が航行距離が大きくなるという話ですから、妥当なものと思います。


>> 点で結んだような航路をとったと考えたほうがいいのではないかな?

 ある寄港地から次の寄港地までのルートについては、海岸線の極細かい凹凸を丸めたような航跡になるものと思います。




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Re: 小林惠子説

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月11日(月)20時23分52秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月10日(日)21時46分32秒 ]

こんばんわ。

聖徳太子については、一つの考えがありまして、
まあトンデモといわれるようなものでしょうが。

彼が百済出身ですが、百済は新羅に滅ぼされて
しまいます。
ところが、その新羅も中国の支配から脱却する
ことはできない。
そこで、中国の官僚制度、仏教などは取り入れ
るが、朝鮮半島のように取り込まれないように
独立を図ったのではないか。

日本は大陸や半島と違い、ほぼ同じ民族がある
程度まとまった状態で国の形をなしている。
新しい王権を作るのではなく、形を確立させる
ことで、まとめようとしたのではないか。

まあ、簡単に書くとそんな感じかな?
嘘も方便というか、天武も新羅系だと思いますが
日本をまとめるために、一系を主張したのだと思
います。
実際は、周りの人たちは知っていたかもしれません。
でも、残るのは書物だけです。後の時代の人々は
残された書物だけからしか、考えることができな
いのです。




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Re: 奈良時代の世界

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月11日(月)21時15分36秒]

元の発言 [ Re: 奈良時代の世界 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月10日(日)21時39分36秒 ]

たかとりさん、こんばんわ。

大山誠一『聖徳太子の誕生』探してみます。
聖徳太子論争、どこ覗けばいいでしょうか?
お教え下さい。

たしかに真相は一つなんだけど、なにせ情報が
少ないのでね。
そこを探るのがおもしろいんですよね。
邪馬臺国論争は、かなり堂々巡りみたいなところ
ありますけどね、もう少し何か出てくるといいのだが
予算の関係か、畿内はよく発掘されるけど他の地方は
それほどないみたいですよね。そこが問題かも。

馬がなくてもインカ帝国はあったけど、普通に考えれ
ば、あの時代に畿内が先進国の九州を制圧できたのだ
ろうか?疑問が残ります。
畿内説の人たちは、移動にとても時間がかかると考え
ておられるようですが、それだとますます難しいので
はないかな?


>>  胡散臭いですね。ですからいろんな説が出るのでしょう。
>>  しかし、それらはいわば煙ではありませんか。真相は一つのはずですよ。
>>  問題は火元ですね。
>>  大山誠一『聖徳太子の誕生』は、それら諸説とは本質的に異なり、
>> 火元にバケツで水をぶちまけたような論です。ほとんど鎮火寸前だと思いますよ。
>>  是非、ご一読をお奨めします。

>>  と申しても、yaohideさんにとっては時代が新し過ぎて食指が動かないかも知れませんね。舞台は奈良時代です。藤原不比等、舎人親王、聖武天皇、元明天皇、長屋王、光明皇后、
>> 僧道慈とかが関わってきます。人間臭い世界です。
>>  三角縁神獣鏡とか箸墓、布留式の世界とはまるで異なります。

>>  私も昔は邪馬臺国ファンでしたが、今は飛鳥時代や日本書紀に関心が集中し、掲示板の
>> 邪馬臺国論争をたまにROMすることがあっても、とてもついて行けなくなっています。
>>  それにしても邪馬臺国論争、長いいくさですねぇ。百年戦争です。
>>  いったい、矢弾が無尽蔵にあるのでしょうか? 疲れませんか?
>>  気分転換に、聖徳太子論争を覗いてみては如何でしょう。



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Re: 小林惠子説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月11日(月)21時35分34秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月11日(月)20時23分52秒 ]

yaohideさん、 くみさん 今日は、
割り込み失礼いたします。

実は、私は、作家の小松左京先生や豊田有恒先生の著作に影響を受けています。
以前の書きこみで、非常に受けた書きこみが、ありましたね。
幾つかの突っ込みを受けた、書きこみの元も其処にあるのですが、

以前に読んだ本で、豊田先生のタイムトラベル系の本に、天武天皇が、天智天皇の異母兄であり其の命で、本が行方不明なので、
よく覚えていないのですが、ヒノクマ王だったかが天智を暗殺する場面がありました。

天智の墓は、正確には、わかっていないのだそうですね。
一書には、行方不明となっていて、其の靴が見つかった場所に墓を作ったと言うのが、あるそうです。

また、聖徳太子についても、豊田先生は、面白い事を書かれていますが、ご存知ですか。
スシュン天皇を暗殺したのは、倭の漢の直駒ですが、
其れが奪った川上の郎女と言うのは、太子の妃の戸自児の郎女だと言うのです。
つまり、山背大兄の母です。
児の事や他でノイローゼになったのでは、と言うのが、先生のご意見でした。

これなんか、非常に面白いので、一度、呼んで見られると良いと思います。
本の名前を忘れてしまっているので、其処は、お許しを。




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Re: 焚書説

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月11日(月)22時50分27秒]

元の発言 [ Re: 焚書説 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月10日(日)23時23分57秒 ]

たかとりさん今晩は。懇切丁寧な御教授ありがとうございました。
私はこの辺りはド素人ですので、大変参考になります。早速、日本書紀(勿論現代語訳ですが)をめくって見ました。
ところで、焼け残ったと言われる「国記」はその後、どうなったのでしょうか?国記を救った船史恵尺の行為を功績として評価しているほどの書物です。それなりに重要な内容だったはずです。
再び歴史の表舞台に現れたことがあるのでしょうか?
それとも、日本書紀に曰く、「一書」の類なのでしょうか?

それにしても、この7世紀後半の半世紀は天智天武非兄弟説などもあって面白いですね。

こんごもよろしく。



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Re: 奈良時代の世界

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月11日(月)23時57分42秒]

元の発言 [ Re: 奈良時代の世界 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月11日(月)21時15分36秒 ]

 yaohideさん、こんばんは。

>> 大山誠一『聖徳太子の誕生』探してみます。
>> 聖徳太子論争、どこ覗けばいいでしょうか?
>> お教え下さい。

 このツリーにも書きましたが『聖徳太子の実像と幻像』が
大山説をめぐる賛否両論を収録していて、論争の概要、焦点
等が手っ取り早く掴めそうです。

>> 邪馬臺国論争は、かなり堂々巡りみたいなところ
>> ありますけどね、もう少し何か出てくるといいのだが
>> 予算の関係か、畿内はよく発掘されるけど他の地方は
>> それほどないみたいですよね。そこが問題かも。

 八女市辺りの発掘は進んでいませんか。
 倭人伝をパッと読めばあの辺りになりそうですが。
 ビギナーの直観ですので、批判ご容赦。


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Re: 焚書説

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月12日(火)00時01分41秒]

元の発言 [ Re: 焚書説 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月11日(月)22時50分27秒 ]

 三河さん、こんばんは。

>> ところで、焼け残ったと言われる「国記」はその後、どうなったのでしょうか?国記を救った船史恵尺の行為を功績として評価しているほどの書物です。それなりに重要な内容だったはずです。
>> 再び歴史の表舞台に現れたことがあるのでしょうか?
>> それとも、日本書紀に曰く、「一書」の類なのでしょうか?

 「一書」とか「或本」のどれにあたるのか解りませんが、何らかの形で利用された可能性はあると思います。

>> それにしても、この7世紀後半の半世紀は天智天武非兄弟説などもあって面白いですね。

 そうですね。昔は、聖徳太子以後はほとんど書紀に書かれた通りの歴史だろうと思っていました。つまり、面白くない世界でした。いろんな説が出だしてから、書紀を信用できなくなりました。真相はどこにあるんだろう、というのが今の関心の中心です。しかし一向に見えて来ませんねぇ。
 
 今後とも宜しく。



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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月12日(火)01時31分59秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月6日(水)18時01分20秒 ]

 koujiさん、こんばんは。
 一日の水行平均距離30里(13km)がはたして妥当なのかどうか?
 朝鮮通信使の航海記録から以下のように実質的な航海と距離を出してみました。
 残念ながら資料を持ち合わせておりませんので、    http://www.mirai.ne.jp/~kat/gisi/index.html
 ここを読ませていただきました。また、距離はあくまでもほぼ直線の概算です。

釜山の絶景島(70km)対馬島の西泊(40km)対馬厳原町(60km)一岐島(30km)名護屋(40km)唐浦(70km)藍島(20km)赤間浦(150里60km?)防府?(60km)上関(甘夫老泊 70km)蒲刈(60km)鞆の浦(30km)水島(60km)牛窓(30km)室津(30km)神戸(60km)堺(30km)

釜山から堺までの総距離790km
往路の実質航海日数17日 実質一日平均航行距離46.5km
総所要日数8月4日から潤8月18日まで44日 
総距離(790km)÷総所要日数(44日)=18km
名護屋から堺まで590km 実質航海日数13日 実質一日平均航行距離45.4km
総所要日数潤8月1日から潤8月18日まで18日 590km÷18=32.8km


復路の実質航海日数19日 実質一日平均航行距離41.6km
総所要日数9月10日から11月23日まで73日
総距離(790km)÷総所要日数(73日)=10.8km
堺から名護屋まで590km 実質航海日数14日 実質一日平均航行距離42.1km
総所要日数9月10日から10月9日まで30日 590÷30=19.7km


 魏代とこの朝鮮通信使とでは船に帆が有ったか無かったかの問題がありますので一概に同じとも言いかねますが、対海国、一大国、末盧国の渡海は魏代もこの朝鮮通信使も夜間航行ではなく朝から夕方にかけての航海と思われますので、実質的な航行距離の差は考えなくても良いのではないかと思います。

 以上のことからまず言えるのは、実質的な一日の航行距離の平均は44kmと言ってよいでしょう。これは人が歩く速度と同じでしょうか?
 次に総所要日数を比べてみましょう。
 釜山から堺までの往復の比較では18kmと10.8kmの開きがあります。これは、帰路の対馬での風待ちのための長逗留が響いているのでしょう。
 では、名護屋から堺までの往復の比較ではどうでしょうか? 往路32.8km、復路19.7kmとこれにも大きな開きがあります。

 では、名護屋堺間の往復の総所要日数で割り算してみましょう。
 590kmX2÷(18+30)=24.6km
 これが名護屋堺間の往復の一日の平均航行距離と言えるのだとすれば、まあ人の一日の歩行距離とだいたい等しいと言ってもよいかと思います。このぐらいなら一日で歩けるでしょう。ちょっときついかもしれませんけれども。
 でも、30里(13km)以上です。

>渡海航路から沿岸航路を類推するわけにはいきません。件の朝鮮通信使は、海岸沿いのルートである肥前名護屋から堺まで、往路では十九日、復路では三十日を要しています。この間、天候待ちによる足止めの日数は格段に減っています。一日の航海距離は伸びない代わり、安定した航海ができるわけです。

 上記のデータを見る限り、名護屋―堺間では復路の総所要日数の方が11日も多いのに拘わらず実質航海日数は少ないのです。つまり実質的な一日の航海距離は長いのです。
 また、水行であっても対馬、壱岐、名護屋間の渡海距離に等しい一日の航行距離を示している日もありますので、水行であるから一日の航行距離が伸びないとも言えない。
 要するに、条件さえ整えば、渡海であれ、水行であれ同等の航行距離が得られると言うことではないでしょうか。
 
>渡海航路の実際に渡海した一日の航海距離を一般化することに無理があるのだと思います。

 と、申しますより、やはり時期の問題が大きいのではないでしょうか?
 いくらなんでも北風が吹くとき北に向かおうとすること自体に無理があるのだと思いますよ。

 以上のデータの比較から、水行一日30里(13km)は適用できないものと思います。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月12日(火)02時09分09秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月11日(月)17時29分05秒 ]

koujiさん、こんばんは。

>>  難升米たちが帯方郡に現れたタイミングの話と、帯方郡から狗邪韓國までの循海岸ルートの里程の話とは、直接的には関係ありません。公孫氏滅亡の報が海岸沿いに伝達されたとか、難升米が海岸沿いに進んで帯方郡にむかったなどとは、主張しておりませんので。

 もちろん、どのようなルートで公孫氏滅亡の報が倭国にもたらされたかはわかりませんが、難升米たちはその報に接したあと朝貢に出かけたのでしょうから、それぞれの所要日数を考えてみるのも面白いと思いますよ。 
 でも韓半島の陸行はないと思いますけど。しんどいです。

 ただ、よくよく考えてみますと、郡から伊都国までの旅程記事は梯儁や張政一行の誰かが書いたのではなく、それ以前にすでに存在していたと僕も考えますが、そうしますと、必ずしも梯儁、張政も韓半島を水行したとも限らないですね。陸行しなかったとは言いきれない。
 でも、しんどいからやっぱり船に乗って来たんだと思いますけど。

 ちょっと余談めいて来ましたが、正始四年の朝貢も十二月に洛陽に着いてますよね。きっとこの難升米たちと同じ時期に伊都国を出たのではないかと思います。
 朝鮮通信使の航海から類推すれば、たぶん3ヶ月もかからずに伊都国から郡まで行ったのではないかと思います。


>>  ここは、現実の移動距離及び時間が問題なのですから、机上で算出されたと推定される「方可四千里」から対角線の長さを算出されても困ります。現実には沙里院から釡山まで、直線で468km程、約1,076里です。道程は二千餘里といったところでしょうか。

 郡から韓半島西南端の珍島まで直線で約380km。行程を倍に見積もって760km。
 珍島から釜山まで直線で約250km。行程を倍に見積もって500km。合わせて1250km。まあ、三千里なら文句ないんですけどネ。
 七千余里はやっぱり「うん」とは言えないですね。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月12日(火)02時15分00秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月10日(日)23時03分52秒 ]

こんばんは。
>> そして、卑弥呼神社は別の神社に名前を変えた。しかし地元の参拝風習は根強かった。太宰帥はかならずここを参拝して大宰府入りしたそうです。なにせ、「廟」ですからね。

 じらさんと教えて〜。
 玉依姫神社は昨年連れていってもらいましたけど…。

>> はい。平原の女性が天照大神だと思ってます。八咫鏡も出土してますし。この王の後継者たちが伊勢神宮へ東遷したものかと。「仲哀紀」では伊都国は昔「イソノクニ」といったそうです。イソノクニ=伊勢の国。

 やっぱり応神でせうね。

>> その近辺で神宮皇后とすごくかかわりの深い神社といったらあそこしかないでしょう。夫がその地で亡くなってるんです。

 香椎でしたっけ?


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聖徳太子とキリスト教の関係

投稿者[ オホヤシマ ] 発言日時 [3月12日(火)09時28分42秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月10日(日)01時25分34秒 ]

くみ さんこんにちは

>> わたしもです。「聖徳太子 キリスト教」でGoogle検索すると2440件もヒットするし。頭を抱えてしまいます。
>> キリスト教の一派、景教は唐代、中国に伝わり隆盛したというから、聖徳太子の説話になにか影響を与えていても不思議はないですが。

確かにこの点は聖徳太子の実像を知る上で重要だと思います。
この点については、聖徳太子とキリスト教との直接の関係を推理するより、ミトラ信仰を媒介に考えると面白いと思います。この信仰はイランに起源があるのですが、西方に伝わりキリスト教に影響を与え、一方東方には弥勒信仰に形を変えて伝わっています。その結果、聖徳太子像とキリストが似ていると考えると辻褄があってきます。
また、ゾロアスターの聖典に残されているミトラ(ミフラ)像と聖徳太子像が似ている所があります。
調べてみると面白いですよ。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月12日(火)18時17分46秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月12日(火)01時31分59秒 ]

 こんばんは!

>>  一日の水行平均距離30里(13km)がはたして妥当なのかどうか?

 以前も書きましたが、当時水行行程がどの程度と考えられていたか、明瞭に示す史料は知られていないようです。或は明瞭な概念はなかったのかも知れません。しかしながら、東夷伝の編纂者が東夷の統一的地理像を描き出すことに意を尽くしていたことも、疑いないことと思います。そのような人が、不彌國から邪馬臺國までは日程記事しかないという史料状況に直面したとすれば、日程部分に程三十里を一律に乗じて里程を概算しようとしたとしても不思議はないと思います。水行部分に誤差があったとしても全体としては大きな誤差とはならないところでもあります。
 例えば、郡から邪馬臺國まで、水行日程部分を別にすると、10,700里+(陸行一月×三十里)=11,600里です。これに水行日程を程三十里として加算すると12,500里です。水行日程が程四十里とすれば、12,800里になります。水行の一日あたりの里程が33%増加しても、全体としての増加分は、2.4%に過ぎないわけです。



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(承前)会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月12日(火)19時28分28秒]

大場嘉門>> 「計其道里」は「自郡至女王國萬二千餘里」を受けてのことだと思います。
牛頭天王さん>> 私は「萬二千餘里」は無関係であると考えます。地理ではないと。

「計其道里」について、岩波文庫の石原道博も、「邪馬台国はなかった」の古田武彦も、「邪馬台国見聞録」の安本美典も、「魏志倭人伝を読む」の佐伯有清も、<その道里を計るに>と読み下してはいますが、その意味するところの解釈は示してはいません。

牛頭天王さんの道里は「道理」の誤りで、これは「地理ではないと。」いうお考えも面白いのですが、私はこれは「陳寿の里単位」だと考えています。
私は前述の通り、これは帯方郡から邪馬壹国までの曲線の1万2千余里を、直線距離に伸ばして大陸に当て比べるという意味に解釈しました。

通説に従うと会稽郡東冶県は今の福建省福州市附近(台湾の北、南西諸島の最南端付近)にあたりなりますから、帯方郡治に比定されるソウルから約1500qです。
通説に従っても1里は125mとなり、陳寿はここで倭人伝で用いられている里単位を示していると考えられす。

#私は東治とは「江東の郡治」と言う意味であろうと考えています。
#「東治の東」の東は方位ではなく、江東を意味しているのではないか、すなわちソウルから約900qの「呉の地」のことではないかと考えます。
#これだと陳寿は1里は約75mと示していたことになる。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月12日(火)19時38分47秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月12日(火)02時15分00秒 ]

>> こんばんは。

ちわっす。

>>  香椎でしたっけ?

当ったりーぃ。日本書紀から判断した結果です。
そこの地は香椎潟といって有名な場所でした。近くの和白近辺は古代海上豪族の安曇氏の根拠地ですし。
奈良朝までは「香椎廟」と呼ばれてて、出雲大社よりはるかに格が上だったそうです。創建も1800年前と、宇佐神宮より古い。
当時祭られていたのは仲哀天皇で、そのあと奈良期に神宮皇后のお告げにより合祀。仲哀天皇は陵が古市にあるのになぜこの地で亡くなったからといって特別に祭られたのか?
斉明天皇も朝倉宮で亡くなってるのに特別には祭られてはいない。それよりも仲哀帝は記紀での活躍が少ない。でも特別な「廟」として祭られている。
紀では仲哀帝を木の柩に葬った、とある。ん?この時代の棺は長持形の石棺じゃなかったか。木はその前の時代。
あと神代のとこにニニギノミコトの嫁選びがあって、彼女の姉が磐長姫で、彼女の名が神吾田鹿葦津姫、またの名が木花開耶姫。どうもこの名が卑弥呼の本名ではないのか、と思ってます。
香椎神宮行ってきました。本殿は丘陵上にあります。そして仲哀天皇が本陣を構えた場所と亡くなった場所は古宮としてふもとにあります。昔は古宮のほうに参拝してて、合祀の際、丘陵に本殿を移した、のこと。
さて卑弥呼の「塚」はどちらか。



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偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月12日(火)20時36分07秒]

元の発言 [ Re: Title 24国配置問題と採点基準 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 3月8日(金)09時19分48秒 ]

ほとんど何の反論も同意もないですが、
主張を続けたいと思います。

24国問題は、実は多くの研究者が調べていたことです。
実際、倭人伝の国々の比定地図というものがあります。
これは、多くの研究者がそれぞれの説に従って
国名と地名の対応により比定したものを集めた地図です。
そんなにたくさん比定地があるなら、それらをうまく
繋ぎあわせて「次有・・国次有・・国」とすることが
できるのではないかと思うことでしょう。
しかし、実際少し調べれば分かりますが、答えは「否」です。

なぜ、そんなに難しいのでしょうか?
それは、簡単な計算によってわかります。

ある地名が2字国名の類似音を含むような確率は、
ある程度の音韻変化を認めると、郡郷名から計算して
ほぼ1/50〜1/100です。
簡単のため一律に、1/70とします。

ある国の比定地域における「主要」地名というと、
せいぜい10くらいで、そのなかに対応する類似地名
がある確率はほぼ1−(69/70)^10=0.134・・・
それが、22個順序良く並ぶ確率は
(0.134・・・)^22
=0.0000000000000000000627・・・
というわけで偶然にはありえないことです。

こういった比定が難しいために、
多くの研究者は「順序通りではない」という
何の根拠もない「憶測」をしました。
すると、どうなるでしょうか?
22*10個の地名の中に国名に対応する類似地名がある確率は
1−(69/70)^(22*10)=0.957・・・
であり、この範囲から21個ものの類似地名を持った
何の根拠もない「比定地」が得られると期待されます。
もっと範囲を広げれば、もっとよく知られた地名のなかから
何の根拠もない「比定地」を得ることができます。
こうして、地名と国名の類似に何らの統計的な有意性も持たない
根拠のない勝手な比定案が、数多くできてしまうことになるのです。

不思議なのは、偶然とは思えない比定案がでてきたといっても、
ほとんど反応がないことです。
この問題に関わる大部分の人がこういった数値的な話に
疎いのでしょうか。
あるいは、「邪馬台国というものはここしかない」
という決め付けのもとに、自説に有利な部分だけ引き出そうと
する人が多いということでしょうか。

倭人伝のどこを読んでも「日本における先進的な国」とか
「大きな古墳がある国」とか「古墳から鏡が多く出る国」
なんて書いてないと思います。
比定をするのに、なんだかよく分からない方向を
向いているなあという気がします。


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Re: 小林惠子説

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月12日(火)21時32分31秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月11日(月)21時35分34秒 ]

yaohideさん、馬頭鬼さん、こんにちは。

yaohideさん:
>> まあトンデモといわれるようなものでしょうが。

トンデモは基本的に好きなのですが、トンデモが本当だとちょっとたじろぎます。
でも、yaohideさんの説明がすんなり歴史に沿っていて、納得したりしています。

>> 日本は大陸や半島と違い、ほぼ同じ民族が・・・

これはちょっと保留です。日本人の顔はかなりバラエティに富んでいると思います。
モンゴル系、漢民族系、南方系がそれぞれ高い比率で混在しているように思います。
でもこれは話の本質ではないので、ちょっと保留。

>> 実際は、周りの人たちは知っていたかもしれません。
>> でも、残るのは書物だけです。・・・

そうですね。案外、記憶なんて脆いものかもしれないですね。
その一方で、諏訪の人が武田信玄の甲州を快く思わなかったり、会津の人の薩長への思いとか。
鬼の話とか、いろいろ興味は尽きないです。


馬頭鬼さん:
>> 天智の墓は、正確には、わかっていないのだそうですね。
>> 一書には、行方不明となっていて、其の靴が見つかった場所に墓を作ったと言うのが、あるそうです。

聞いたことがあるような気がしてきました。そうですね。そんな話がありましたね。
調べてみたいと思います。
3世紀もですが、この時代も謎だらけです。
小松左京先生や豊田有恒先生についても、ありがとうございます。
ツンドク本が多いのですが、お二人の本なら面白く読めそうです。


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Re: 聖徳太子とキリスト教の関係

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月12日(火)21時34分34秒]

元の発言 [ 聖徳太子とキリスト教の関係 ] お名前 [ オホヤシマ ] 日付 [ 3月12日(火)09時28分42秒 ]

オホヤシマ さん、こんにちは。

>> また、ゾロアスターの聖典に残されているミトラ(ミフラ)像と聖徳太子像が似ている所があります。

今回の書き込みで、列島内の政治だけで歴史を見ることは出来ないことをつくづく感じました。
小林惠子さんの本には、
斉明3年(657年)、百済から駱駝などが贈られた。同年、ペルシャの王族が来倭した。
などと、サラッと書いてあるのですが。
駱駝が来るくらいなら人はたくさん来ているのでしょうか。
独楽(高麗)の雑伎散楽を演じたのは遙か中東の人たちだったのでしょうか。
法隆寺の柱のエンタシス、唐草文様、正倉院のガラス工芸品などを思い起こせばそんなに異質な風景でもないのかもしれないですが、なんだかまた気持ちがチグハグしています。

(たかなしさん、私は今日まで惠子さんではなくて恵子さんだと思ってました。m(_ _)m)


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Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月12日(火)22時10分12秒]

元の発言 [ 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月12日(火)20時36分07秒 ]

勝手に22国の比定地を順番に決めたとき、
それらの主要地名が偶然どのくらい国名と
類似してしまうのか計算してみましょう。

m=22, x=1-(69/70)^10として
(l個以上類似する確率)=\sum_{k=l}^m C(m,k) x^k (1-x)^(m-k)
で与えられます。ただし、C(m,k)=m!/k!/(m-k)!

l l個以上の類似確率
 0 1.0000000000000000000000
1 0.9578078983209846053741
2 0.8141611321121065816754
3 0.5807469896090356751142
4 0.3399351025660878135295
5 0.1629186862619598245559
6 0.0643002620870116938868
7 0.0210590615263175634010
8 0.0057636312151626090460
9 0.0013254504654100509522
10 0.0002570537965148686518
11 0.0000421134764397285624
12 0.0000058266935867566959
13 0.0000006791276467614866
14 0.0000000663532939135836
15 0.0000000053915941918483
16 0.0000000003600903455436
17 0.0000000000194329042729
18 0.0000000000008265098707
19 0.0000000000000266724206
20 0.0000000000000006138777
21 0.0000000000000000089780
22 0.0000000000000000000627

出発点と道の選び方などで数百〜数千程度の選択肢が
ありそうですから、10個くらい類似するような案が
あるかもしれません。けれども、偶然の一致ならば
類似する地名たちは重要度が低いものが多いはずで、
比定地に最も適した地名による類似個数の割合は
せいぜい2割程度と考えられます。
これは偶然かどうかの判断基準になるでしょう。


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Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月12日(火)23時17分40秒]

元の発言 [ 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月12日(火)20時36分07秒 ]

>> ある地名が2字国名の類似音を含むような確率は、
>> ある程度の音韻変化を認めると、郡郷名から計算して
>> ほぼ1/50〜1/100です。
>> 簡単のため一律に、1/70とします。

この確立はどうやって求められたのですか。

>> ある国の比定地域における「主要」地名というと、
>> せいぜい10くらいで、そのなかに対応する類似地名
>> がある確率はほぼ1−(69/70)^10=0.134・・・
>> それが、22個順序良く並ぶ確率は
>> (0.134・・・)^22
>> =0.0000000000000000000627・・・
>> というわけで偶然にはありえないことです。

この確立はかなり良く音がマッチしたときのものですか?
現在のやましさんの比定ではどうなりますか。
44文字の地名のように扱うのであれば、地名に音をたしたり引いたりしたときの確立計算も必要でしょう。

>> 不思議なのは、偶然とは思えない比定案がでてきたといっても、
>> ほとんど反応がないことです。

これだけで説得力を感じる人は少ないのでは?


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Re: 承前 土佐説

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月12日(火)23時32分03秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説(邪馬四さんへ) ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月10日(日)19時46分36秒 ]


ただいま、傍国21カ国について比定検討中につきもう少し時間を下さい。

今日のところは、古墳の事について一言書いておきます。

>> >> したがって、私としては
>> >>  @ 魏志倭人伝の卑弥呼の墓は、これらの横穴式石室墳の中にある。
>> >>  A 横穴式石室墳は土佐においては2世紀以前よりつくられていた。
>> >> という前提にたっています。

>> なるほど、現在の古墳の編年は、あまり信用していないということですね。
>> でも、古墳時代後期を弥生時代まで持って行くのは、かなり大変そうです。

>> 私は卑弥呼の墓はいわゆる「古墳」ではなかった可能性もあると思うのです。
>> 「卑彌呼以(すで)に死し大いに冢を作る。徑百餘歩、[ジュン]葬するの者奴婢百餘人なり。」
>> という文章からだけでは「古墳」だと判断できないと思うのです。
>> そういう意味で、古墳の前形態のようなものがあり得ると思っています。

卑弥呼が記紀のどの人物に当たるかは議論のあるところですが、いずれにしても、崇神天皇の時代を下ることはないと思われます。
この場合、卑弥呼の墓の立地も崇神天皇までの各天皇の墓に類似したものと思われます。

古事記によると、崇神天皇までのこれらの墓は

 神武天皇 畝火山の北の方の白檮尾の上
 綏靖天皇 衝田崗
 安寧天皇 畝火山のみほと
 懿徳天皇 畝火山の真名子谷の上
 孝昭天皇 博多山の上
 孝安天皇 玉手崗の上
 孝霊天皇 片岡の馬坂の上
 孝元天皇 剣池の中崗の上
 開化天皇 伊耶河の坂の上
 崇神天皇 山辺道の勾の崗の上

のように書かれています。
ここで、これらの墓の所在地の記述に注目すると、どの墓にも共通するのは、
 白檮尾の上、谷の上、山の上、崗の上、坂の上
などの記述であり、これらの墓が平地ではなく、文字どうり、山の上や崗の上に作られたことがうかがわれます。

高知の古墳はそのほとんどが、山の上や岡の上につくられており、上記の立地条件と似た場所につくられています。
それに対して前方後円墳は平野部に存在する古墳であり、少なくとも初期の各天皇の墓の記述には合致しないと考えます。

古墳の年代について現在考えられているような、前方後円墳から横穴式石室墳への移行、またこの古墳の編年の基礎となっている、土師器から須恵器への移行という考え方は、近畿地方にはあてはまるとしても、日本列島全体について、同じことがあてはまるとは言えないと考えます。
おそらく、銅鐸文化圏と銅矛文化圏の存在に重なるように、前方後円墳を墓制とし、土師器文化をもつ国家(狗奴国)と、横穴式石室墳を墓制としと早くから須恵器を使用した国家(倭国)が並立して存在したのではないでしょうか。

それともう一つ

>> ふむふむ、面白い考え方ですね。
>> 秦王国=秦=幡多は、ありえそうだと思うのですが
>> 有力な説ではないのでしょうか?

この件に関しては、邪馬台国土佐説を提唱する北岡、橋詰の両氏ともに、秦王国は邪馬台国自体、すなわち倭国または土佐を指すと考えているようです。
したがって、有力な説ではなく私の勝手な言い分ですのです。



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Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月13日(水)07時39分53秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月12日(火)23時17分40秒 ]

どうもご質問ありがとうございます。
質問が有ると、わかりにくい所がはっきりします。

>> >> ある地名が2字国名の類似音を含むような確率は、
>> >> ある程度の音韻変化を認めると、郡郷名から計算して
>> >> ほぼ1/50〜1/100です。
>> >> 簡単のため一律に、1/70とします。

>> この確立はどうやって求められたのですか。

はい、確率は重要なポイントです。
これは、どの範囲の音を類似音とするかどうかで変化します。
つまり、「邪馬台国の比定」の場合は面倒だけれど、
「音推定+変化」と「地名対応」をセットにせざるを得ません。
上の数値は、HPにある擬定音と母音交替の範囲で決めた場合です。
私の場合は四国説なので、四国の全郡郷名からどれくらいあるか調べました。
他の方法では、角川地名大辞典で「やま」「しま」
を含むような地名がどのくらいあるか調べています。
最も多くありそうな「山」「島」あたりで、上限を求められます。
なお、角川地名大辞典は、ひとつの県で5000〜10000
くらいの地名があるので統計に使えます。

>> >> ある国の比定地域における「主要」地名というと、
>> >> せいぜい10くらいで、そのなかに対応する類似地名
>> >> がある確率はほぼ1−(69/70)^10=0.134・・・
>> >> それが、22個順序良く並ぶ確率は
>> >> (0.134・・・)^22
>> >> =0.0000000000000000000627・・・
>> >> というわけで偶然にはありえないことです。

>> この確立はかなり良く音がマッチしたときのものですか?
>> 現在のやましさんの比定ではどうなりますか。
>> 44文字の地名のように扱うのであれば、
地名に音をたしたり引いたりしたときの確立計算も必要でしょう。

22の比定地域の中の主要地名のどれかが、国名と類似するという
確率です。l個以上類似する確率は、上に書いています。
地名に音が余るところは、地名の類似確率のところで
既に考慮しています。(3文字、4文字地名がほとんどです。)

国名は「斯馬」=「島」、「邪馬」=「山」などから
想像されるように、2字の単純な地名がほとんどです。
地名はその後、そのまま「邪馬郡」「斯馬郡」
となる可能性もないとは言えませんが、佳字2字化などの影響によって
「山」「島」を使いたいとすると「山*郡」「*山郡」「島*郡」「*島郡」
として残る可能性も高いわけです。
これは、支配地域が広域になると、このような単純な
地形名を地名にしておくとどこのことか分からなくなる
という当然の理由です。

>> >> 不思議なのは、偶然とは思えない比定案がでてきたといっても、
>> >> ほとんど反応がないことです。

>> これだけで説得力を感じる人は少ないのでは?

そうなんですよ。はっきり言って、私浮いてます(笑)
もしかすると、皆さん「比定」というのを一度もしたことがないからでは?
古代郡域を定めるときに、郷名と地名の対応などによって
決めていくんですけど、史料に郷名が順序通り書かれているか
どうかが結構重要なポイントなんですよね。
う〜〜ん、どうしたら納得してもらえるかな?
実際「こじつけ案」が作れるかどうか、やってみれば分かるんですけど。

でも、これまでの比定地論争で、畿内説と九州説で数百人の人が
何十年も議論をやってきたようなんだけど、
うまくできた24国の比定地図が皆無というのは、変だと思いませんか?
恥ずかしくて、地図で表せないようなものばかりです。
調べてる場所がおかしいんじゃないかなあ、と思わないのかな。
なんにせよ、実際私のような「こじつけ案」すらないんですよ。

たとえば、私の比定案で「倭人伝」の文章と明らかに矛盾している
箇所があったら、ぜひ指摘してみて下さい。

私自身は、比定地は次の条件を満たすべきだと思っています。
(1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。
(2)21国が順番になっており、国名が主要地名に対応する。
(3)狗奴国は第二奴国、邪馬台国の南にある。
(4)第二奴国は女王国の境界の尽きる所にある。
(5)他の国が旁国としてでてこない理由が説明できる。
(6)東に海を渡って千里で倭種の国を比定できる。

以上、倭人伝ってかなり強い条件を課しているはずなんですけど、
何でいつまでたっても決定されないのでしょうね。


124

Re:雑談

投稿者[ 小鳥遊 ] 発言日時 [3月13日(水)12時09分24秒]

元の発言 [ Re: 聖徳太子とキリスト教の関係 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月12日(火)21時34分34秒 ]

くみさん 雑談です。

>> (たかなしさん、私は今日まで惠子さんではなくて恵子さんだと思ってました。m(_ _)m)

世間では「恵子」さんの方が一般的のようなので、「惠子」さんを「恵子」さんと早とちりしてしまうのは、くみさんだけではないと思いますよ。
だからといって、「くみ」さんを「なみ」さんと間違えたことの言い訳にはなりませんが、、、
私みたいなおっちょこちょいのために、惠子さんも「私の惠は恵ではなく、惠ですよ」と言ってくれれば、私だって間違うことはないのに。
ところで、「東治」と「東冶」も間違いやすいと思います。
「東治」を「東冶」に間違われないようにするにはどうするんでしょう。


125

Re: 承前 土佐説

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月13日(水)12時37分38秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月12日(火)23時32分03秒 ]

>> 卑弥呼が記紀のどの人物に当たるかは議論のあるところですが、・・・
#記紀には卑弥呼も壱与も現れない、が結論ではありませんか。

>> この場合、卑弥呼の墓の立地も崇神天皇までの各天皇の墓に類似したものと思われます。
#探す場所が最初から間違っている、のではありませんか。


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月13日(水)20時16分25秒]

元の発言 [ (承前)会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月12日(火)19時28分28秒 ]

今晩は。

>> 大場嘉門>> 「計其道里」は「自郡至女王國萬二千餘里」を受けてのことだと思います。
>> 牛頭天王さん>> 私は「萬二千餘里」は無関係であると考えます。地理ではないと。

>> 「計其道里」について、岩波文庫の石原道博も、「邪馬台国はなかった」の古田武彦も、「邪馬台国見聞録」の安本美典も、「魏志倭人伝を読む」の佐伯有清も、<その道里を計るに>と読み下してはいますが、その意味するところの解釈は示してはいません。

>> 牛頭天王さんの道里は「道理」の誤りで、これは「地理ではないと。」いうお考えも面白いのですが、私はこれは「陳寿の里単位」だと考えています。

2月の議論中でおにりんさんから「基本的に同じ音を持てば若干の字面の違いがあっても同じ意味を持つ。」とのレスを貰いました。
おにりんさんの言を信じれば「道里」も「道理」も間違いではない可能性があります。
間違いとしても「壹」と「臺」よりは起き易い事ではないでしょうか?

私は『其』は直前の『夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害』を受けたもので地理の話ではないと考えます。
なんと言っても風俗の話題の中ですから。

『梁書』諸夷傳によれば地理表記は魏志倭人伝を踏襲しながら
『倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠』
のように『會稽』から『東冶』は消えています。
梁書は唐の時代に書かれたものですからその地理観がかなり正確になってきていた可能性もありますが、
『計其道里、當在會稽東治之東』を正しく解釈していた可能性の方が強いのではないでしょうか?

>> 私は前述の通り、これは帯方郡から邪馬壹国までの曲線の1万2千余里を、直線距離に伸ばして大陸に当て比べるという意味に解釈しました。

>> 通説に従うと会稽郡東冶県は今の福建省福州市附近(台湾の北、南西諸島の最南端付近)にあたりなりますから、帯方郡治に比定されるソウルから約1500qです。
>> 通説に従っても1里は125mとなり、陳寿はここで倭人伝で用いられている里単位を示していると考えられす。

>> #私は東治とは「江東の郡治」と言う意味であろうと考えています。
>> #「東治の東」の東は方位ではなく、江東を意味しているのではないか、すなわちソウルから約900qの「呉の地」のことではないかと考えます。
>> #これだと陳寿は1里は約75mと示していたことになる。

江東の郡治とは何処でしょう?
http://members3.cool.ne.jp/~xr250r/toku9/toku9.html
の「三国州郡国図」に見当たらないのですが。
一般的に江東と言えば上海あたりでしょうが郡治が置かれていたのでしょうか?
上海だと緯度は大隈半島の先端くらいかな?
かなり魅力的ではありますね。


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Re: 承前 土佐説

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月13日(水)23時09分09秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月13日(水)12時37分38秒 ]

はじめまして、山佐留です。
あまり、気のきいた返答は出来ないとおもいますがあしからず。

>> >> 卑弥呼が記紀のどの人物に当たるかは議論のあるところですが、・・・
>> #記紀には卑弥呼も壱与も現れない、が結論ではありませんか。

全く同感です。

言うまでもなく、記紀は日本国の史書であり、邪馬台国の史書ではないので、卑弥呼も壱与も現れないというのが結論である、という可能性は高いと思われます。
ただし、記紀の中に邪馬台国に関する史実が全く含まれていない、とまでは言い切れないとは思いますが。

>> >> この場合、卑弥呼の墓の立地も崇神天皇までの各天皇の墓に類似したものと思われます。
>> #探す場所が最初から間違っている、のではありませんか。

邪馬台国がどこにあったか確定されていない状況では、九州に卑弥呼の墓を探しても、近畿に卑弥呼の墓を探しても(もちろん土佐も同じですが)
「#探す場所が最初から間違っている、のではありませんか。」
という疑問はつきまとうと考えます。

九州、近畿にこだわらず、柔軟に考えて、いろいろな所を探したほうが邪馬台国の発見につながるのではないでしょうか。



128

Re:雑談

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月14日(木)00時07分39秒]

元の発言 [ Re:雑談 ] お名前 [ 小鳥遊 ] 日付 [ 3月13日(水)12時09分24秒 ]

小鳥遊さん、こんばんは。

>> 「惠子」さんを「恵子」さんと早とちりしてしまうのは、くみさんだけではないと思いますよ。
# (^o^;)。近くの小さな図書館で「小林恵子」で検索してもヒットしないので、へんだな〜と思っていたんです。大きな図書館でもヒットしないので、よ〜く見てみたら違ってました。

>> 「くみ」さんを「なみ」さんと間違えたことの言い訳にはなりませんが、、、
# (わたしのHNを間違えただけではなかったよ〜な・・・。)

>> 「東治」を「東冶」に間違われないようにするにはどうするんでしょう。

ここでも何度か話題になっていますよね。難しい話でわかりません。(T.T)。


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月14日(木)11時30分32秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月13日(水)20時16分25秒 ]


>> 2月の議論中でおにりんさんから「基本的に同じ音を持てば若干の字面の違いがあっても同じ意味を持つ。」とのレスを貰いました。
>> おにりんさんの言を信じれば「道里」も「道理」も間違いではない可能性があります。

#沖縄の首里城は道理城だったりして、、、

「道里」と「道理」という語彙では語意が全く違います。そのことを陳寿が知らなかったとも思えません。
たとえ、「里」が「理」と同じ意味を持っていたとしても、「道理」という語彙に「里」を間違えて使うとも思えません。
私は陳寿を信じます。

>> 間違いとしても「壹」と「臺」よりは起き易い事ではないでしょうか?

「壹」を「臺」、「治」を「冶」とする間違いは起き難いが、「里」を「理」とする間違いは起き易いということですね。
難い/易いの目安はどう付けているのですか。

>> 私は『其』は直前の『夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害』を受けたもので地理の話ではないと考えます。
>> なんと言っても風俗の話題の中ですから。

風俗の話題の中だからこそ、、、
その風俗の初っぱなに黥面文身を持ってきているところが「イミシン」。

>> 『梁書』諸夷傳によれば地理表記は魏志倭人伝を踏襲しながら
>> 『倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠』
>> のように『會稽』から『東冶』は消えています。
>> 梁書は唐の時代に書かれたものですからその地理観がかなり正確になってきていた可能性もありますが、
>> 『計其道里、當在會稽東治之東』を正しく解釈していた可能性の方が強いのではないでしょうか?

「去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東」ですよね。
『計其道里』は萬二千餘里のことと、「正しく」解釈していたのではありませんか。

>> 江東の郡治とは何処でしょう?
>> http://members3.cool.ne.jp/~xr250r/toku9/toku9.html
>> の「三国州郡国図」に見当たらないのですが。

「江東の郡治」は、多分、私が初めてでしょう。
何処にも見当たらないと思います。

>> 一般的に江東と言えば上海あたりでしょうが郡治が置かれていたのでしょうか?
>> 上海だと緯度は大隈半島の先端くらいかな?

「呉の地」はそこです。

>> かなり魅力的ではありますね。

「陳寿の里単位」


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Re: 承前 土佐説

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月14日(木)12時47分42秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月13日(水)23時09分09秒 ]

山佐留さん、こんにちは。

>> >> #記紀には卑弥呼も壱与も現れない、が結論ではありませんか。
>> 全く同感です。
#ここまでは共通の認識ですね。

>> 言うまでもなく、記紀は日本国の史書であり、邪馬台国の史書ではないので、卑弥呼も壱与も現れないというのが結論である、という可能性は高いと思われます。
#(むむっ。よく分からないが、これは何かの伏線に違いない。)

>> >> >> この場合、卑弥呼の墓の立地も崇神天皇までの各天皇の墓に類似したものと思われます。
#確かに「この場合」という前提が付いてはいますが、これは完全に卑弥呼の墓が近畿文化圏にあることを前提にした議論です。私はその方向を当然のこととして議論が進行することに危機意識をもって、横槍を入れた、のだと思います。「ヤジ」ですね。


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月14日(木)19時39分42秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月14日(木)11時30分32秒 ]

>> 「道里」と「道理」という語彙では語意が全く違います。そのことを陳寿が知らなかったとも思えません。
>> たとえ、「里」が「理」と同じ意味を持っていたとしても、「道理」という語彙に「里」を間違えて使うとも思えません。
>> 私は陳寿を信じます。

>> >> 間違いとしても「壹」と「臺」よりは起き易い事ではないでしょうか?

>> 「壹」を「臺」、「治」を「冶」とする間違いは起き難いが、「里」を「理」とする間違いは起き易いということですね。
>> 難い/易いの目安はどう付けているのですか。

さすがに「治」を「冶」とする間違いは起き難いとは言いません。
前後の意味を考えれば風俗の由来について語っているのだから地理の事ではない。
だから「東冶」ではないだろうと言うものです。

難い/易いの目安といえば音が一致している事ですね。
「壹」と「臺」は音がぜんぜん違いますし、字が似ているともいえません。

>> >> 私は『其』は直前の『夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害』を受けたもので地理の話ではないと考えます。
>> >> なんと言っても風俗の話題の中ですから。

>> 風俗の話題の中だからこそ、、、
>> その風俗の初っぱなに黥面文身を持ってきているところが「イミシン」。

どんな事が推理できますか?

>> >> 『梁書』諸夷傳によれば地理表記は魏志倭人伝を踏襲しながら
>> >> 『倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠』
>> >> のように『會稽』から『東冶』は消えています。
>> >> 梁書は唐の時代に書かれたものですからその地理観がかなり正確になってきていた可能性もありますが、
>> >> 『計其道里、當在會稽東治之東』を正しく解釈していた可能性の方が強いのではないでしょうか?

>> 「去帯方萬二千餘里、大抵在會稽之東」ですよね。
>> 『計其道里』は萬二千餘里のことと、「正しく」解釈していたのではありませんか。

ああ、私の勘違い。
『東冶』ではない事を「姚思廉」が理解していたと言いたかったのですが、やぶ蛇になってしまった。

>> >> 江東の郡治とは何処でしょう?

>> 「江東の郡治」は、多分、私が初めてでしょう。
>> 何処にも見当たらないと思います。

>> >> 一般的に江東と言えば上海あたりでしょうが郡治が置かれていたのでしょうか?
>> >> 上海だと緯度は大隈半島の先端くらいかな?

>> 「呉の地」はそこです。

???呉の首都は建業(南京)ですよね。
呉郡の郡治は蘇州。
内陸部を海東の国との位置比定に使うでしょうか?
それとも三世紀ころは蘇州まで海が迫っていた?


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Title「天」について

投稿者[ にゃんちゅー ] 発言日時 [3月14日(木)19時41分55秒]

 天皇の和風死号に「天」という字が最初に付いたの
が欽明天皇ですが、ちょうどこの頃に仏教が日本に伝
わっています。それで「阿麻テ留神社」の「阿」が無
い「麻テ留神社」と言うのが有る事から考えて天皇の
姓は元は「ま」であったのに仏教の影響で「阿弥陀号」
である「阿」を姓に冠するようになったのではないか
と思ったのですが、可能性は無いですか。
(「テ」は「低」のにんべんをとった字)


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月14日(木)21時30分58秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月12日(火)19時38分47秒 ]

こんばんは。

 単刀直入に言うと、僕は平原が卑弥呼の墓だと思っています。
 ただ、問題がないわけでもありません。
 まず、伊都国になぜ卑弥呼の墓があるのか?
>女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
# この記述から判断すれば、女王国は伊都国の南にある。伊都国≠女王国。

 ただ、三雲南小路、井原鑓溝と伊都国には倭国王と考えてよい墓があります。
 卑弥呼が「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とは言え、王に共立されるのですから、どっかの馬の骨ってことはないと思う。王家の血筋と言うか、王家の一族の一人だったんだろうと思います。男王だとおそらくもう一方の雄、奴国との兼ね合いもあってうまくまとまらなかったのでしょう。
 卑弥呼没後、男王が立つけれど「国中服せず。更々相誅殺」。
 で、十三歳の壱与(あるいは台与)を立てますが、この壱与(あるいは台与)は卑弥呼の宗女、一族の娘なんだと思います。
 卑弥呼がどっかの馬の骨だったら、わざわざその一族の娘を再び王に共立することはないんとちゃうかな?と。
 だから、卑弥呼は先行する倭国王の血統を引いていると思います。
 
 もちろん、そう考えても問題は残ります。
 そしたら、女王国っていったいなんだったつね?と。
 卑弥呼は倭国王家の一族だけれど、もともと住まいしてたところが女王国であり、女王に共立されて伊都国に移った、なあんて都合のいいことを考えてます。もちろん、あんまり説得力はないと思ってますけど…。


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Re: 承前 土佐説

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月14日(木)22時29分37秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月14日(木)12時47分42秒 ]

>> >> >> #記紀には卑弥呼も壱与も現れない、が結論ではありませんか。
>> >> 全く同感です。
>> #ここまでは共通の認識ですね。

>> >> 言うまでもなく、記紀は日本国の史書であり、邪馬台国の史書ではないので、卑弥呼も壱与も現れないというのが結論である、という可能性は高いと思われます。
>> #(むむっ。よく分からないが、これは何かの伏線に違いない。)

上記の意味は、

邪馬台国は魏志倭人伝の中に書かれた国であり、同様に卑弥呼と壱与についても中国の史書の中の人物である。
また、記紀は日本国の史書であり、日本国=邪馬台国とは言えないので、日本国には卑弥呼とか壱与という人物は居なかったと考えるほうが自然である。

というようなことですが、わかりにくくてすみません。

>> >> >> >> この場合、卑弥呼の墓の立地も崇神天皇までの各天皇の墓に類似したものと思われます。
>> #確かに「この場合」という前提が付いてはいますが、これは完全に卑弥呼の墓が近畿文化圏にあることを前提にした議論です。私はその方向を当然のこととして議論が進行することに危機意識をもって、横槍を入れた、のだと思います。「ヤジ」ですね。

私の土佐説は、古田武彦先生の九州王朝が、実は四国にあった四国王朝である、と言うような説で、倭国と日本国は別々の国であったと考えています。(邪馬台国が倭国であり、狗奴国が日本国につながる)
記紀についても倭国と日本国の両国の歴史が混在すると考えます。
歴代天皇のうち崇神天皇までの10代については、倭国の大王家についての記述であり、その墓も四国にあったと考えます。
垂仁天皇以降は日本国天皇家についてかかれた部分が多く、古墳などについても近畿地方に比定されるものと考えます。



135

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月14日(木)23時25分34秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月12日(火)18時17分46秒 ]

koujiさん、こんばんは。

もちろん、僕の立場からでも、伊都国から女王国までの千五百里と邪馬台国までの日数表記を陳寿は等しいものと考えたわけですから、その内訳として、水行も一日三十里と陳寿が考えなかったとは言いきれません。

結局のところ、投馬国、邪馬台国への日数表記をどう考えるかに尽きると思います。


136

3人の卑弥呼

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月15日(金)11時21分31秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月14日(木)21時30分58秒 ]

>  単刀直入に言うと、僕は平原が卑弥呼の墓だと思っています。

それでいいと思います。わたしは3世紀には3人の卑弥呼が居た、と思ってます。
平原についてはぼくもそう思っていましたが、考え変えました。ひとつは、平原の年代は3世紀前半で、これより古いみたいな感じですから。
この当時、人の寿命は40歳前後なはず。それで当時は少女を擁立する風習があったとすると、
1・倭人伝に見える卑弥呼は2世紀後半擁立され、3世紀初頭-前半に亡くなった。
2・われわれの探している卑弥呼は最初の卑弥呼の死とともに擁立され、3世紀半ばに亡くなった。
3・大和説の卑弥呼は壱与で、3世紀後半に亡くなった。箸墓の被葬者と考えられます。
そしてぼくは2から3のときに東遷があったものと考えています。

1から2への継承の件が倭人伝に載ってないのは、魏の人が240年にやってきたためと、「倭人寿命百年或いは八九十年」とあり、倭人は長寿という観念があるため最初の卑弥呼と同一人物と判断したのでしょう。
当時の倭人は後まで春秋がくるたびひとつ年をかぞえてたそうです。だから一年に二つ年をとる。

>>  卑弥呼は倭国王家の一族だけれど、もともと住まいしてたところが女王国であり、女王に共立されて伊都国に移った、なあんて都合のいいことを考えてます。もちろん、あんまり説得力はないと思ってますけど…。



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3人の卑弥呼

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月15日(金)11時41分05秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月14日(木)21時30分58秒 ]

>>  だから、卑弥呼は先行する倭国王の血統を引いていると思います。

なるほど。

>>  卑弥呼は倭国王家の一族だけれど、もともと住まいしてたところが女王国であり、女王に共立されて伊都国に移った、

そうかんがえてもおかしくない。そして卑弥呼の出身地に塚が築かれてもおかしくないですね。

平原の年代ですが、土溝内の土器が西新式という3世紀初頭から中葉の土器です。これを基準にして考えればいいわけでして、でも出土した傍製鏡や、三角縁がないことなどから発掘に携わった柳田氏は3世紀初頭と位置づけてるみたいです。
割竹形木棺の上に素環頭太刀が副葬されていたみたいなんですが、これの長さがだいたい90cm。もしこの太刀が倭人伝に載っている5尺の刀だったら当時は一尺=24.12cmとして120cmはないといけない。

この太刀が120cmの長さがあったなら、誰もかれも「卑弥呼の塚だ!!」と判断したでしょうが。
5尺の太刀の出土例は、古墳時代になって数例あると聞きました。もっともいずれも魏からの太刀とは判断されてないようですが。


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月15日(金)12時08分29秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月14日(木)19時39分42秒 ]


>> どんな事が推理できますか?

『さすがに「治」を「冶」とする間違いは起き難いとは言いません。
前後の意味を考えれば風俗の由来について語っているのだから地理の事ではない。
だから「東冶」ではないだろうと言うものです。』

この推理って、いい線ついてますよ。
「東治」と「東冶」は間違い易い、じゃなかった、会稽東治は会稽東冶に間違わ・ら・れ・易い。
建安東冶って、つい最近のことですもん。

>> 難い/易いの目安といえば音が一致している事ですね。
>> 「壹」と「臺」は音がぜんぜん違いますし、字が似ているともいえません。

これだけ目安がハッキリしていれば、「恣意的」という批判はされないしょう。多分。
後漢書も「臺」と間違えるはずはありませんね。

>> ???呉の首都は建業(南京)ですよね。
>> 呉郡の郡治は蘇州。

私は会稽郡の東治といっているのですが、、、
会稽郡治は山陰(紹興)ですよね。

>> 内陸部を海東の国との位置比定に使うでしょうか?

陳寿が何故、海東の国との位置比定をしなければならないのでしょう?
陳寿は兵器類について「所有無與?耳・朱崖同」ともしていますよ。
海南島は東冶に近いっていえば、近い。

>> それとも三世紀ころは蘇州まで海が迫っていた?

里単位を示すのに、海でなければならないとは考えておりません。



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道里を計る

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月15日(金)17時45分36秒]


 道里を計る

『自郡至女王國萬二千餘里….計其道里、當在會稽東冶之東。』

 魏志倭人傳のこの文がいろいろ物議をかもしているようですが、果たしてそんなに問題になるような文なのでしょうか?試みに大雑把ながら道里を計ってみたので、報告いたします。

 まず、東冶の位置がどのように考えられていたか見てみます。
 蜀志許靖傳には、会稽から「南至交州、經歴東甌・[門<虫]・越之國、行經萬里」とあります。東冶は萬里の会稽から交州までの中間地点からやや会稽よりになりますから、会稽から東冶までで凡そ四千里を見込めば大過ないでしょう。
 次にこれを、東冶と邪馬臺國の位置を比較し得る起点につなげなければなりません。魏志公孫度傳所引の魏略に載っている魏が遼東に下した文中に「江南海北有萬里之限」とあります。これは建業から出港して長江河口に出、海岸沿いに北上して山東半島を回り込み、島伝いに遼東半島に渡り、再び海岸沿いに鴨緑江河口に出て河を遡上するルートかと思われますが、会稽から交州まで萬里、交州から交趾まで五千餘里、帶方郡から狗邪韓國まで七千餘里、といった他の沿岸航路の里程と比較しても妥当な範囲と考えられます。また、長江河口から見て建業と会稽では距離に大差はなく、遼東郡から会稽郡までについても概ね萬里程度と見てよいでしょう。
 合わせて、遼東から東冶まで概算萬四千里程度になります。

 この東冶の位置を邪馬臺國の位置と比較するために、遼東から邪馬臺國までの道程を算出してみます。
 後漢書郡國志によると、遼東郡は「[各隹]陽東北三千六百里」、樂浪郡は「 [各隹]陽東北五千里」となっています。従って遼東郡から樂浪郡までが千四百里。
 一方帶方郡から邪馬臺國まが萬二千餘里。
 樂浪郡・帶方郡間が不明ですがそれほどの距離はありませんので、遼東郡から邪馬臺國まで総計萬四千里程度と見て大過ないでしょう。

 遼東郡から邪馬臺國までが約萬四千里。同じく遼東郡から東冶までは約萬四千里。従って邪馬臺國と東冶は遼東郡から見て同じ位南下したところに位置しているわけです。「邪馬臺國は東冶の東に在る」と推断されるのも蓋し当然と申せましょう。



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Re: 伊勢神宮について

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [3月6日(水)15時42分31秒]

元の発言 [ Re: 伊勢神宮について ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月6日(水)05時39分48秒 ]

うろ憶えですが、伊勢神宮の社殿は礎石を使わないので
柱を土中に埋めるので腐ってしまい大体20年くらいが限度という説明を聞いたことがあるようなないような。


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Re: 道里を計る

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月15日(金)19時35分59秒]

元の発言 [ 道里を計る ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月15日(金)17時45分36秒 ]


koujiさん 久し振りです。

>>  遼東郡から邪馬臺國までが約萬四千里。同じく遼東郡から東冶までは約萬四千里。

それぞれの約萬四千里が同じ長さでしょう。しかし、それぞれは曲がった回数も違えばその曲角や方向も違う、全く異質の約萬四千里です。

>>従って邪馬臺國と東冶は遼東郡から見て同じ位南下したところに位置しているわけです。

同じ長さの針金を二本用意して、それぞれを想定したルートに合わせて折り曲げてみてください。

>>「邪馬臺國は東冶の東に在る」と推断されるのも蓋し当然と申せましょう。

申せませんでしょう?


141

Re: 承前 土佐説

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月15日(金)20時07分47秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月14日(木)22時29分37秒 ]

>> 歴代天皇のうち崇神天皇までの10代については、倭国の大王家についての記述であり、その墓も四国にあったと考えます。
>> 垂仁天皇以降は日本国天皇家についてかかれた部分が多く、古墳などについても近畿地方に比定されるものと考えます。
#こういう前提にたてば、だいぶよくわかります。
私は「歴代天皇のうち崇神天皇までの10代」も大和の王という前提で読んでいたので、おかしいと思ったのです。

しかし、
>> また、記紀は日本国の史書であり、日本国=邪馬台国とは言えないので、日本国には卑弥呼とか壱与という人物は居なかったと考えるほうが自然である。
>> というようなことですが、わかりにくくてすみません。
#これはどうでしょう。日本国の史書に倭国の大王家についての記述が入っている。しかし、そこに卑弥呼はいない。つまり、邪馬台国=倭国ともいえない、ということですか。


142

Re: 道里を計る

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月15日(金)20時10分05秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月15日(金)19時35分59秒 ]


>> koujiさん 久し振りです。

 ご無沙汰しております。


>> >>  遼東郡から邪馬臺國までが約萬四千里。同じく遼東郡から東冶までは約萬四千里。

>> それぞれの約萬四千里が同じ長さでしょう。しかし、それぞれは曲がった回数も違えばその曲角や方向も違う、全く異質の約萬四千里です。

 それはそのとおりです。しかしながら、それは現代の正確な地図を前提にした認識です。「計其道里、當在會稽東冶之東」と推断した人物にはそのような地図を参照する便宜は与えられておりません。


>> 申せませんでしょう?

 当時の史料に出現する里程以外では、東冶と会稽・交州の相対的な距離感、建業と会稽の相対的な距離感、樂浪郡と帶方郡の距離が千里に満たないということだけを、議論の前提にしました。これは三世紀当時にも充分知り得る範囲に属するものだと思います。
 このような限られた史料状況の中で、東夷の統一的な地理像を描き出すため、敢えて邪馬臺國の位置を特定しようとした時、遼東から東冶までと、遼東から邪馬臺國までの里程がほぼ等しいことから、

>> >> 「邪馬臺國は東冶の東に在る」と推断されるのも蓋し当然

だという話なのですが、おかしいでしょうか?



143

Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月15日(金)20時11分48秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月15日(金)12時08分29秒 ]

>> 『さすがに「治」を「冶」とする間違いは起き難いとは言いません。
>> 前後の意味を考えれば風俗の由来について語っているのだから地理の事ではない。
>> だから「東冶」ではないだろうと言うものです。』

>> この推理って、いい線ついてますよ。
>> 「東治」と「東冶」は間違い易い、じゃなかった、会稽東治は会稽東冶に間違わ・ら・れ・易い。
>> 建安東冶って、つい最近のことですもん。

>> >> 難い/易いの目安といえば音が一致している事ですね。
>> >> 「壹」と「臺」は音がぜんぜん違いますし、字が似ているともいえません。

>> これだけ目安がハッキリしていれば、「恣意的」という批判はされないしょう。多分。
>> 後漢書も「臺」と間違えるはずはありませんね。

中国の史書にもいろんな「ヤマタイ」があるみたいですね。

「邪摩惟」「邪摩堆」「邪摩推」「邪靡維」「祁馬臺」「邪馬嘉」。

この中で「惟」「堆」「推」「維」は三世紀頃は全て同じ読み(wi など)があったのではないか。
だから「惟」「堆」「推」「維」は倭の女王国の名前に使われても間違いとはいえない。

「壹」と「臺」の件は最近になって思いついたのですが、
何か別の資料には『邪摩惟』というのと『邪摩堆』と言うのがあって范曄の見た資料には『邪摩堆』があった。
これを見た范曄は魏志と見比べて『邪馬臺』としたのではないか?
宋の時代になってこれらの文字に音の差が生まれてきたのではないか?と考える訳です。

陳壽が倭の女王国を敢えて「邪馬壹国」と書いたのは何らかの思惑があったのではないかと言う気がしています。

>> >> ???呉の首都は建業(南京)ですよね。
>> >> 呉郡の郡治は蘇州。

>> 私は会稽郡の東治といっているのですが、、、
>> 会稽郡治は山陰(紹興)ですよね。

それなら「会稽之東」だけで済みそうなのにどうして「会稽東治之東」になったんでしょう?

>> >> 内陸部を海東の国との位置比定に使うでしょうか?

>> 陳寿が何故、海東の国との位置比定をしなければならないのでしょう?

「當在會稽東治之東」は私は位置比定(地理)ではないと言ってきました。
地理なら内陸の郡治より海に面した郡治を使うだろうと思っただけです。

>> 陳寿は兵器類について「所有無與?耳・朱崖同」ともしていますよ。
>> 海南島は東冶に近いっていえば、近い。

緯度的にはね。距離は帯方郡から畿内まで位になる。

>> >> それとも三世紀ころは蘇州まで海が迫っていた?

>> 里単位を示すのに、海でなければならないとは考えておりません。



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Re: 道里を計る

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月15日(金)21時03分04秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月15日(金)20時10分05秒 ]


>>  それはそのとおりです。しかしながら、それは現代の正確な地図を前提にした認識です。

地図の問題以前に、「異質」どうしを「計れ」るものなのか、ということなんですが、、、

>>「計其道里、當在會稽東冶之東」と推断した人物にはそのような地図を参照する便宜は与えられておりません。

「當」にですから、陳寿は自分の推断に「確信」はしていますね。
地図でもなければ、なかなか確信的な推測はできないと思っているのですが、、、

>> 「邪馬臺國は東冶の東に在る」と推断されるのも蓋し当然だという話なのですが、おかしいでしょうか?

東冶の東って、會稽海外じゃないのかな〜って、こだわっています。


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月15日(金)21時08分27秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月15日(金)20時11分48秒 ]


>> それなら「会稽之東」だけで済みそうなのにどうして「会稽東治之東」になったんでしょう?

会稽東冶に間違われないように、、、



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平原の諸問題

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月15日(金)23時05分20秒]

元の発言 [ 3人の卑弥呼 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月15日(金)11時41分05秒 ]

こんばんは。
>> 平原の年代ですが、土溝内の土器が西新式という3世紀初頭から中葉の土器です。これを基準にして考えればいいわけでして、でも出土した傍製鏡や、三角縁がないことなどから発掘に携わった柳田氏は3世紀初頭と位置づけてるみたいです。

1.まず1号墓棺内から出土した赤色瑪瑙管玉は韓国の遺跡では3,4世紀と報告されている。
2.1号墓は2号墓と大差のない時期であり、2号墓では、古墳時代と考えられる土師器の小型壷の破片が南側周溝1層から、弥生終末〜古墳時代初頭と考えられる小型の直口壷が南側の表土から出土しています。

 ですから、必ずしも3世紀初頭と限定しなくてもいいのではないかと思います。もうすこし幅を持たせても良いのではないでせうか。

>> 割竹形木棺の上に素環頭太刀が副葬されていたみたいなんですが、これの長さがだいたい90cm。もしこの太刀が倭人伝に載っている5尺の刀だったら当時は一尺=24.12cmとして120cmはないといけない。

 反りの強い素環頭で80.6cmですね。
 漢和辞典によると、周代ですけど、大尺で一尺が22.5cm。五尺で112.5cm。小尺(咫)で18cm。五尺で90cm。小尺なら五尺に近いです。

 問題点もあります。
 柳田氏が近年、22、36、37号鏡にある魚紋、31〜39号鏡の「陶氏作鏡銘」は中国では出土していないことから平原の方格規矩鏡国産説を言ってます。
 ここに頭を痛めてます。僕は、この平原の方格規矩鏡、16号鏡の内行花文鏡こそが「銅鏡百枚」の一部だと思っているので。
 なんとか反論したいのですが、中国でとくに洛陽周辺で出土しないかぎり中国鏡の証明にならないとすれば、気長に出土を待つしかないかもしれません。
 ひとつ気になるのは、陶氏作鏡銘の方格規矩鏡も「銅鏡百枚」として同時にもたらされたことになり、この点をどう考えたらいいのか?ってところです。

 平原ではもうひとつ問題点がありそうです。
 この一号墓は、本来からお墓として築造されたものではなく、もともと祭祀施設だったのではないか。その祭祀者が亡くなってお墓に転用された可能性はないのだろうか?


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月15日(金)23時51分34秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月15日(金)21時08分27秒 ]

>>
>> >> それなら「会稽之東」だけで済みそうなのにどうして「会稽東治之東」になったんでしょう?

>> 「会稽東治に間違われないように、、、

説得力に欠けますね。
「会稽東治」と書いたばかりに畿内説の人に「「会稽東冶」と間違われる根拠を与えてしまったのでしょう?

東夷伝は簡略し過ぎて誤解を受けやすい記述が多いのでその解釈で論争になっているのだし。
陳壽も誤解を受けないように気を配った書き方をしてくれればよかったのにね。


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Re: 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月16日(土)07時47分54秒]

元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月10日(日)20時08分20秒 ]

 おはようございます。ちょっと間があいてしまいましたが、お付き合いくださいませ。

>> いえいえわたしなんか横山光輝のマンガだけです。

#おもろいんやけど、顔が同じなのはこまるね。
特にホウトウとシュウユ。服装だけでごまかしとるけど
・・・まぁ、漫画はほとんどそうやけど。


>> それが、北部九州の弥生後期の住居遺跡はほとんど継続して古墳時代前期まで続きます。また鉄器の出土も相変わらず多く、遺跡からは勢力が衰えた、他の支配を受けた、とはいえないんですよ。

#「勢力が衰えた」言いましたが「支配を受けた」とは言っておりません。仰るとおり鉄器の出土から考えて、他からの勢力を受け付けないだけの力はあったと考えます。しかし、畿内における画紋帯神獣鏡や紀年刀、貨泉などの出土を考えれば畿内の勢力が九州に劣るものとは思えません。
 土器の移動から考えて交易による同盟関係にあったと考えとります。


>> うーん、巨大古墳の埋葬の風習は北部九州沿岸の影響を受けすぎているのですが。『鏡を頭部に置く(個人の宝器として)、鏡の多数埋葬、鏡、剣、勾玉ー三種の神器をセットで副葬する、棺内への大量の水銀朱の使用』などです。古墳自体の影響は東部瀬戸内の影響ですね。

#それは前にも書きましたが、邪馬台国からかなり前の
時代からの「東への移民」の結果やと思います。
「三種の神器」の原型も邪馬台国よりも前からのモンですし。
 古墳の巨大化はべつに北部九州の影響云々にこだわらんでも、力を持った人間の業と考えたほうがいいのではないでしょうか?
 
>> >> 食料の自給率が高まれば人口も増えるわけでして、それらがあぶれて東へ東へと移っていった。

>> 奈良東南部に巨大古墳ができる頃は、畿内の人口が増大するそうです。それ以前はそうでもないらしい。残された人骨データからは畿内の人々は北部九州の渡来人系の影響が多量にある、のこと。実際北部九州でこの時代みられたベッド状遺構の住居跡がこのあと河内でも見られるようになります。
>> 倭人伝で「父母兄弟は居所を別にする」と記事があってなんかわかんなかったんですが、野方遺跡行ってあっ、これだったんだ!と思いました。4っつのベッドがあったんですね。

#唐古・鍵や池上曽根はかなり昔からの遺跡です。
勢力としてかなりのモンやと思いますが。

>> わたしも最近それを考えるようになりました。
>> 長髄彦は神武と対戦する直前に神武に対して自分が天神の子であることを証明するため歩靫を示します。そして神武も自分の歩靫を長髄彦に示します。
>> ひょっとして長髄彦は倭国大乱時の北部九州系の東遷の子孫で(この人たちの古墳が巻向古墳群)、んで神武は「倭国また乱」のときの東遷した人でこの対決を記紀は表しているのかなあ、と思ったりします。そのため前回の権力者より偉大な力を見せ付けるため古墳をより巨大にしたのかなあと。
>> 大阪城も大阪の陣のあとは徳川幕府によってより巨大に建てられますし。

#ニギハヤヒノミコトは「記紀」では神武と同じ天孫族とされているからね。そうかもしれん。
 ただ、九州からきた人が瀬戸内海の風習の墓に入ってるいうんがなんかしっくりこんな。
 この辺はどう思います?


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Re: 奈良時代の世界

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月16日(土)07時54分27秒]

元の発言 [ Re: 奈良時代の世界 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月11日(月)23時57分42秒 ]

おはようございます。

このページは古代史のページですから
聖徳太子でもええと思うよ。
せっかく来たんやからどんどん書き込んでや。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月6日(水)18時01分20秒]

元の発言 [ 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月6日(水)00時53分36秒 ]


 郭公さん、今晩は。今日は熱っぽくて頭が重いので、的外れなことを書くかもしれませんがご容赦ください。


>> > しかし、七千餘里が実際にその航路を旅した人の記録であるとすれば、日程とはかかわりなく算出された数字である可能性もあります。
>>  七千余里が航海者の実感から得られた里数であることを前提に考えているのですが、もちろん日程は記されていないのですから、何日かかったかは不明ですので、一日30里を平均とした場合233日以上かかる計算になりましょう。

 はい。それはそうです。例えば陳壽などが「郡から狗邪韓國まで海岸に循い七千餘里」という記述を見れば、その程度の所用日数を見込むでしょう。
 そのように書いたつもりなのですが。


>> > だから実際に230日以上かけて旅したかどうかとなると、水上交通は条件により速度にばらつきが大きいので、必ずしもそうはいえません。
>>  とすれば、
>> > 不彌国から邪馬臺国までが水行三十日・陸行一月と明記してあります。一日の行程を三十里(約13km)として60日×30里=1800里。
>>  これも必ずしもそうとは言えないですね。
>>  つまり、万二千余里から万五百余里を差し引いた千五百里は上記の計算で求められたものではない。
>>  先日も申し上げましたが、偶然の産物であったと申し上げるしかないと思います。
>>  何が言いたいかと申しますと、郡から女王国までの万二千余里と、投馬国・邪馬台国への日数表記の行程記事はまったく無関係な史料だったと言うことになると思います。

 何故そうなるのでしょうか?
 水上行程の移動距離は条件によりばらつきが大きいことは事実ですが、だからといって平均的な移動距離が存在しないわけではありません。魏・西晋の頃の中国で水上の移動距離がどのように考えられていたのかを直接に示す史料は存じませんが、山尾幸久氏などは陸上行程と水上行程はほぼ同じとしています。
 延喜式には各国府から京までの所用日程が出ています。これはいってみれば旅費の日当支給のための基準ですが、そのうち大宰府及びそのほか十九国には、陸路とともに海路が併記されています。加賀国が陸路は十二日・海路は八日で陸路に比べて海路が早い例の筆頭、播磨国が陸路は五日・海路は八日で海路に比べて陸路が早い例の筆頭になります。平均すれば、海路に比べて陸路が約85%ほど早くなっています。
 従って、郡から不彌國までの里程と、不彌國から邪馬臺國までの日程から、机上で総里程を算出しようとする場合、特に半分は陸行でもあり、総日程60日に水陸を問わず一日三十里を乗じて里程が概算されたと考えることには妥当性があるものと思います。


>> > ところで、230日以上かかることに何か問題があるでしょうか?
>> 「景初二(あるいは三年)年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。」
>>  方向は逆ですけれども、郡と狗邪韓国間を約233日=約八ヶ月と、伊都国から狗邪韓国までを約一ヶ月としますと、前年の十月に伊都国を出発したことになります。
>>  これから冬に向かい北風にさらされる季節です。船で北へ向かうには不向きな気候です。
>>  むしろ冬が過ぎ、春一番が吹いた後、気候が良くなって南風を背にしての出航ではないかと思うのです。
>>  ですから、そんなにはかからなかったろうと思います。一日30里以上は進んでいるだろうと思います。現に、対海国、一大国、末盧国間は実質的には一日30里以上進んでいるのですから。

 朝鮮通信使も十月に肥前名護屋を出発しておりますし、そもそも難升米たちが朝鮮半島の沿岸航路をとったとは限りませんが。


>> > 渡海航路の実際に渡海した一日の航海距離を一般化することに無理があるのだと思います。
>>  ここんとこ意味がよくわかりません。

 対馬海峡の渡海航路では何故膨大といっていいほどに天候待ちの日数が多いのでしょうか。それだけ危険性が大きく、渡海可能な天候の条件というのが極めてシビアなのだと思います。安全かつ素早く渡海できるだけの条件が整わない限り出港できないのでしょう。一方、沿岸航路では天候に対する条件はそれほどシビアではない。むしろ緩いものだったと考えられます。だから天候待ちの日数も少ない。陸に近いことが利点なのですから、沿岸航路で大きく陸地から離れて航海するという事も考えにくい。朝鮮通信使は瀬戸内海航路でさえ、兵庫県室津から堺までの間は寄港できる場所がないので危険だと脅かされているぐらいです。
 「渡海航路の実際に渡海した一日の航海距離」というのはかなり特殊な好条件下での一日の航行距離であり、多くの待機日数の上に成り立っている一日なのです。したがって、沿岸航路には適用できないものと思います。


>> >件の朝鮮通信使は、海岸沿いのルートである肥前名護屋から堺まで、往路では十九日、復路では三十日を要しています。
>>  沿岸航路もまた一般化できないと言うことでしょうか。

 「渡海航路の実際に渡海した一日の航海距離」と沿岸航路の平均的な航行距離を同一視できないのは当然だと思います。


>>  いずれにしましても、60日x30里=1800里を積算したことによって万二千余里の数字が得られたのではない、また、郡から狗邪韓国間は233日もの日数がかかったのでもないと言えるのではないかと思います。

 そうは言えないように思います。


>> >> >>  ここも腑に落ちないのですが、いったい背振山脈を越えてどのようなルートで伊都国へ行ったのでしょうか? 何日かけて?
>>  伊都国と末盧国はもちろん湾内を船で往来することの方が多かったかもしれませんけれども、陸路がないわけもないでしょう。背振山脈の終焉が唐津湾に迫っていますけれど、地図をみれば、海岸沿い、峠越えの道も数本前原と繋がっています。

 海岸沿いではなく峠越えだったはず、というつもりだったのですが。


>> わざわざ背振山脈を巻いて奴国を通ることはないでしょう。

 まあ、そうでしょうね。


>>  奴国、不弥国の記事は起点が伊都国です。

 どうしてでしょうか。榎説の「到」や文型の問題であるとすると、倭人伝なのに狗邪「韓」國がわざわざ放射旅程で記されていたり、郡から對馬國まで千餘里だなどという変な話になりますが。


>>  ですから、伊都国までの行程記事と、奴国・不弥国の記事の原史料は別人によるものだと思います。やはり里感覚も違う。


>> > 陸行に移るまでは長く水行を続けているわけですから、上陸地点は邪馬臺國の主邑への入口というべき港のはずです。従って、実際に一ヶ月歩く必要があるとは考えられないのではないでしょうか。
>>  いや必ずしもそうとは言えないと思いますよ。邪馬台国が海浜であったか内陸にあったか、あるいは伊都国から陸行できたか、不明ですから。
>>  僕は、投馬国・邪馬台国への日数表記については、koujiさんもご存知のように、かつてはOrOr説者でした。でも、AndAnd説とは水掛け論になりそうですし、無理にこだわっても仕方がありませんので避けてきましたが、この日数表記が梯儁や張政が実際に通った行程ではなく、倭人からの聞き取りという観点に立てば、陳寿がAndAndで順進的に理解していたとしても、実際はどうかわからないのが本当のところではないだろうか、と思います。
>> 1.投馬国へ水行二十日、And、邪馬台国へは水行十日、And、陸行一月
>> 2.投馬国へ水行二十日、And邪馬台国へは水行十日、Or、陸行一月
>> 3.投馬国へ水行二十日、Or、邪馬台国へは水行十日、And、陸行一月
>> 4.投馬国へ水行二十日、Or、邪馬台国へは水行十日、Or、陸行一月
>> 聴取を受けた倭人自身がどの意味で言ったのかは不明としか言いようがない。そんな気がしています。

 私は1の立場で引用していただいた疑問を感じたわけですが、3の場合も同様の疑問を感じます。
 4の場合は伊都國から水行十日or陸行一月の場所に邪馬臺國があることになりますが、ちょっとそれらしい場所が思い浮かびません。一体何処なのでしょうか?また、2の場合は投馬國からということになりますが、適当な組み合わせがあるのでしょうか?



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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月16日(土)08時25分53秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月15日(金)23時51分34秒 ]


>>>> 会稽東冶に間違われないように、、、
>> 「会稽東治に間違われないように、、、

私の発言を勝手に訂正しないように。



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Re: 聖徳太子とキリスト教の関係

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月16日(土)10時03分05秒]

元の発言 [ Re: 聖徳太子とキリスト教の関係 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月12日(火)21時34分34秒 ]

 オホヤシマ さん、くみさん、はじめまして
白石湖南と申します。宜しくお願いいたします。

>> >> また、ゾロアスターの聖典に残されているミトラ(ミフラ)像と聖徳太子像が似ている所があります。

>> 今回の書き込みで、列島内の政治だけで歴史を見ることは出来ないことをつくづく感じました。
>> 小林惠子さんの本には、
>> 斉明3年(657年)、百済から駱駝などが贈られた。同年、ペルシャの王族が来倭した。
>> などと、サラッと書いてあるのですが。
>> 駱駝が来るくらいなら人はたくさん来ているのでしょうか。
>> 独楽(高麗)の雑伎散楽を演じたのは遙か中東の人たちだったのでしょうか。
>> 法隆寺の柱のエンタシス、唐草文様、正倉院のガラス工芸品などを思い起こせばそんなに異質な風景でもないのかもしれないですが、なんだかまた気持ちがチグハグしています。

#ユダヤ人を忘れてはいけません。
彼らがしたキリストの話が何かの形で伝わり、聖徳太子の話になったんでしょう。
 聖徳太子については僕は確実にイタと考えます。仏教に心酔してそれを広げよう思ったら、自身の生活も仏教と一体化した生活をせないかん。しかも世の中に認識されとらんものやったら尚更や。
 例えばやな。両脇に若い女ハベラカして、肉かじりながら
「色即是空(シキソクゼクウ)やで。仏様拝まんかい。」
なんて言うたかて、説得力ないやない。小田無道やったらこのあと
「でも空即是色(クウソクゼシキ)なんやで。お布施持ってこんかい。」て屁理屈カマスかも知れんが、とにかく布教するにはそれなりの姿勢を保たんといかんのや。東に重い荷物を持って苦しんでいる人あれば、行ってその負担を軽くしてやり、西に寒さに震えてる人あれば自らの服をかけてやり・・・というくらいの行動をとらんと布教なんてできん。オウムを見てみい。布教しとったんは末端のまじめな信者たちだったやろ。肉喰うて、女大とったえらい人はその陰に隠れとったわけや。
 善政をしいたとか、誰か助けたったとか、日本のために中国の皇帝にタメ口聞いた・・・なんて言うんは、上っ面のことや。その影にある性格を考えると仏教の影響かも知れんけど悲しいくらい生真面目で神経質な太子の人間像が浮かんでくるんや。
 また、太子は晩年政治から離れ、お経を読んだり、仏像を拝んだりの日々を送ったと言われてる。
 この辺も太子の人間性を伝えるものとして興味深い。早い話が太子は逃げよったんや。政治のどろどろした世界が嫌になってな。これは古今東西を問わず、どこにでもある話やろ?太子も人間やったというこっちゃ。
とまあ、ここまで考えると僕にはどうしても太子は実在の人物という気がするな。というよりもこの本が好きな人には申し訳ないんやけど、この説唱えた奴が、本売りたいばかりについた大嘘やと思ってるんです。
 「売れる本」言うんは極端なテーマをもったものの方が売れる。
一昔前の「ノストラダムス」関連の本がいい例や。
「人類が滅亡する!」ってデカデカ表紙につければ誰かて興味を持ちますわ。僕も買いましたわ。若かったし。
 最近の例で言えば「狂牛病」。
これうたった本はかなり売れたんとちゃう?きっとこの本の副題には
「不治の病」とか「恐怖の」とか「あなたも危ない」
とかいう類のものが大きく載っとたんとちゃうか?
売れたやろな。その分牛肉の売上はガタ落ちや。その間僕は牛肉三昧やったモン。霜降りの最高級がスーパーのタイムサービスに行けば1パック500円でっせ。おかげで太ってしもうたわ。
 今回の聖徳太子の本もそれと同じや。ただ、
「聖徳太子の謎」というより
「聖徳太子はいなかった」ってうたってやね。最後にビックリマーク二つもつければ、興味持ちますやろ?
 結局マーケティングやわ。あと半年もすればブックオフに山と積まれるで。多分。



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お願い。管理人さんへ

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月16日(土)10時18分50秒]

 おにりんさんの投稿謝絶についてはやむをえないこととはいえ、残念に思います。
言動に問題があったとはいえ、彼のこのページに残した発言は
資料として大変有効なものであり、過去ログとしてとっておくだけではもったいないと思います。今後大論争を盛り上げていくためにも彼の発言(感情的なものを除いた)ジャンルごとにまとめたものを資料館に設置していただけませんでしょうか?
 新参者が横槍を入れるようなことをして申し訳ありませんが、ご検討の程宜しくお願い申し上げます。




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Title管理人さんへ

投稿者[ にゃんちゅー ] 発言日時 [3月16日(土)18時47分03秒]

 魏志倭人伝の読み下しを読んでて気ず
いたのですが、14番目の1のところの
「食を肉はず」は「肉を食はず」の誤り
なのではないですか。


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Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月16日(土)20時32分09秒]

みなさん今晩は。

先刻ご存知のことでしょうが、超大型鏡の紋様は内行花文鏡多い。何故でしょうか?
定規とコンパスで比較的簡単に描けるだけの理由ではないようです。
あの同心円を組み合わせた紋様は、太陽を連想させます。子供の頃に誰でも描いたことの
ある、円に放射状の線を数本付け足したあの太陽です。
古代の人々はあの紋様に太陽信仰から太陽神を象徴したのではないでしょうか。

平成10年の橿原考古学研究所附属博物館の秋の特別展『オオヤマトの古墳と王権』によれば
下池山古墳、柳本大塚古墳からの出土状況は、竪型式石室から離れた場所の小石室に納められていました。
更に、下池山古墳よりの出土鏡は、青、茶、黄色の縞模様のある絹織物と真綿、毛織物からなる鏡袋に入れられ漆塗りの箱に納められています。

この鏡は、多数出土している他の鏡に比べると大変丁重に扱われています。別の小石室に埋葬されて別格の扱いです。単なる、死者への花輪とは考えにくい。

一説によれば、伊勢神宮の八咫鏡は大型の内行花文鏡だとも言われています。
古来より太陽信仰の象徴であれば、この説もあながち捨てたものでもなさそうです。
そして、その原点が平原の大型鏡としたら・・・・・。



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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月16日(土)21時20分07秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月15日(金)20時11分48秒 ]


>> 「當在會稽東治之東」は私は位置比定(地理)ではないと言ってきました。

言ってきていません。
牛頭天王さんは、『計其道里』は「地里ではないと。」言ってきたのです。


156

Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月16日(土)21時36分04秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月15日(金)23時51分34秒 ]


>> 説得力に欠けますね。

私の言わんとするところが、ご理解いただけていないようです。

>> 「会稽東治」と書いたばかりに畿内説の人に「「会稽東冶」と間違われる根拠を与えてしまったのでしょう?

「会稽東治」とだけでは、「会稽東冶」と間違われる恐れがあるということです。
そこで「会稽東治之東」とまでしているのに、後の人は「之東」を方位のこととしか理解してこなかったということです。
畿内説云々は、まったく関係ない話です。


157

Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月16日(土)23時31分10秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月16日(土)21時20分07秒 ]

>>
>> >> は私は位置比定(地理)ではないと言ってきました。

>> 言ってきていません。
>> 牛頭天王さんは、『計其道里』は「地里ではないと。」言ってきたのです。

『さすがに「治」を「冶」とする間違いは起き難いとは言いません。
前後の意味を考えれば風俗の由来について語っているのだから地理の事ではない。
だから「東冶」ではないだろうと言うものです。』
と『「當在會稽東治之東」は私は位置比定(地理)ではない』は同意になりませんか?

私の考えではどちらも同じです。
『会稽東冶』なら地理だが『会稽東治』なら地理ではない。
『会稽東治』は『会稽山の東に於ける治世』であり、『其』は『夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害』を受けたもの
といってきたと思うのですが?


158

Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月16日(土)23時38分39秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月16日(土)21時36分04秒 ]

>>
>> >> 説得力に欠けますね。

>> 私の言わんとするところが、ご理解いただけていないようです。

>> >> 「会稽東治」と書いたばかりに畿内説の人に「「会稽東冶」と間違われる根拠を与えてしまったのでしょう?

>> 「会稽東治」とだけでは、「会稽東冶」と間違われる恐れがあるということです。
>> そこで「会稽東治之東」とまでしているのに、後の人は「之東」を方位のこととしか理解してこなかったということです。
>> 畿内説云々は、まったく関係ない話です。

『計其道里、當在會稽東治之東』から『之東』をとって『計其道里、當在會稽東治』とした場合どのような解釈になりますか?
つけた場合はどのような解釈になるのかも教えて下さい。


159

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月16日(土)23時43分06秒]

元の発言 [ Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月16日(土)20時32分09秒 ]

 三河さん、しばらくです。
>あの同心円を組み合わせた紋様は、太陽を連想させます。(中略)
>古代の人々はあの紋様に太陽信仰から太陽神を象徴したのではないでしょうか。

 後漢鏡(あるいは後漢式鏡)の内行花文鏡は前漢鏡の内行花文日光鏡の系譜を引いていると思いますが、まさに太陽を象ったものと言ってよいでしょう。
 平原の超大型倣製内行花文鏡は八花文の外側に九つの同心円があります。
 これと直接の関連があるのか偶然なのかどうか、井沢蟠竜子『広益俗説弁』(1715年)に、
> 垂仁天皇のとき、九つの日輪が出たことがあった。そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。このカラスは地上から八町上にある。射手に勅して射させるか、さもないと天下の物怪となるだろうと奏上した。(中略)
> 八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。(大林太良「太陽と火」『太陽と月』小学館)
 
 これは、『淮南子』にそのオリジナルがあるようです。

 また、行燈山古墳(伝崇神陵)のたぶん周溝からだったと思いますが、六花文の内行花文鏡を描いた縦55cm、横71cm、厚さ1cmの銅板が出ています。昨年神戸の「大古墳展」でレプリカと、拓本を見ることができました。
 ご指摘のように内行花文鏡には特別の意味を込めていたのではないかと思います。

> 一説によれば、伊勢神宮の八咫鏡は大型の内行花文鏡だとも言われています。

 小学館版の『日本書紀』には八咫鏡の記事の挿絵に平原の超大型内行花文鏡を使っています。校注者の一人、西宮一民先生とはあるご縁で三度飲んだことがありますが、鏡そのものは見たことがないとおっしゃってました。遷宮のとき、このご神体も遷りますが前を通るときは下を向いて鳥が羽をぱたぱたさせる仕草をするんだそうです。

 KKKの河上邦彦氏は、この小学館版『日本書紀2』の月報で、八咫鏡は平原のではなく、下池山のが八咫鏡と同じだと書いています。
 さてどっちでしょうね。もちろん僕は平原のだと思っていますけれど。


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Re: 伊勢神宮について

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月6日(水)19時31分22秒]

元の発言 [ 伊勢神宮について ] お名前 [ nonono ] 日付 [ 3月6日(水)05時26分24秒 ]

始めまして。

>> どうして20年に一度なのでしょうか?
#伊勢神宮へは何度か参拝しました。神宮博物館「徴古館」には式年遷宮の展示が多くあります。
一口で言えば、この行事は「神の再生を願う」儀式だと思います。
では、何故、二十年なのか?明確な説明はありませんでした。先のマルセさんも言っておられる「技術の伝承説」は私も聞いたことがあります。案外的を得ているかもしれない。一般に古代の技術伝承は口伝による一子相伝が
多かったようですから。
大雑把ですが、持統朝の平均寿命を40歳くらいと想定すると20年おきの技術の伝承説は捨てきれないと考えています。


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Re: 承前 土佐説

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月16日(土)23時59分49秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月15日(金)20時07分47秒 ]

>> しかし、
>> >> また、記紀は日本国の史書であり、日本国=邪馬台国とは言えないので、日本国には卑弥呼とか壱与という人物は居なかったと考えるほうが自然である。
>> >> というようなことですが、わかりにくくてすみません。
>> #これはどうでしょう。日本国の史書に倭国の大王家についての記述が入っている。しかし、そこに卑弥呼はいない。つまり、邪馬台国=倭国ともいえない、ということですか。

断片的に答えをだしても、また次の質問がきそうなので、土佐説的邪馬台国ストーリーを考えてみました、その流れのなかで理解下さい。


大乱後の倭国(邪馬台国)は日本国(狗奴国)に対して反攻に転じ、倭の五王の時代までに、倭国(邪馬台国)は日本列島を制圧します。
一方、日本国(狗奴国)は倭国の攻勢により、中国地方から近畿、中部へと敗走をつづけるかたちとなり、日本国の中心勢力の移動に伴い、日本国の古墳である、前方後円墳もその中心を東方へ移していきます。

倭国の大王である、大和武尊により、日本国の最後の砦ともいえる、中部地方が完全に制圧されるにいたって、日本国側は、日本書紀の継体天皇記にあるように、「日本の天皇および皇太子、皇子皆死んでしまった」という壊滅状態におちいったと考えます。
その後、日本国の王家は倭国大王家の管理下で、奈良を中心にした地方豪族的な集団として、生き残っていったと考えます。
日本国のその後の天皇に女性の天皇が多いことをみても、日本国の血筋が王女達によって細々と引き継がれていったことがうかがえます。

そんな状況中で、日本国の皇女である、斉明天皇と倭国の大王家の皇子の間に、日本国王家の血を引く倭国の皇子(漢皇子)として生まれたのが天智天皇です。
天智天皇と藤原鎌足によって起こされた、大化改新は倭国政権内での日本国勢力によるクーデターであり、蘇我入鹿とは倭国の大王であったと考えられます。
一方これに対して、壬申の乱により倭国の主権を回復したのが、天武天皇であり、倭国大王家の正当な後継者であったと思われます。
古事記はこの天武天皇により企画されますが、これは大化改新によって失われた、倭国の国記を復元したいと考えたためでしょう。

しかしながら、天武天皇が崩御したことにより、天武天皇の皇后であり、天智天皇の娘である持統天皇が倭国政権内で実権を握る事となります。
このため、倭国内で日本国側の勢力が、再び主導権をにぎることとなり、日本国の本拠地である、奈良藤原京への遷都が行われます。これ以降は対外的にも日本国の国名が正式に使われることとなります。

古事記の編纂は天武天皇の死により一時中断され、持統天皇に引き継がれることとなるのですが、倭国大王家の国記として企画された、完成間近の古事記の内容は、日本国天皇家の後継者である持統天皇には、受け入れられる内容でなかったことは明らかです。
そこで古事記の大幅な内容の変更が行われ、日本国天皇家が有史以来の日本列島の正当な支配者であることを証明するものとして、書き換えられたと思われます。


ということで、話が長くなってしまいましたが、最初の質問である

@ 日本国の史書に倭国の大王家についての記述が入っていることについては

倭国大王家の国記を日本国天皇家の史書として書き換える作業のなかで、日本国が万世一系の王室であることを証明するためには、倭国大王家の国記に含まれる神話の部分や、欠史八代といわれる神話に続く古代倭国王の記述については、日本国の史書としての古事記のなかにも必要であると判断したと思われます。

A 卑弥呼がいないのは

倭国大王家の国記の原本は大化改新によって、消失しているわけです。
新たにつくられた、古事記は口述筆記によりつくられたとされており、卑弥呼の存在自体が口述者の記憶になかったということもあり得ます。
しかし、おそらくは中国の魏と倭国女王卑弥呼との国交の記事を、日本国のものとして、書き換えてまで日本国の史書にのせる必要はなかったものと考えます。

B つまり、邪馬台国=倭国ともいえない

これについてはいままでの話のなかで答えたことになると思いますが、どうでしょうか。邪馬台国=倭国は正しいと考えます。


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月17日(日)18時17分13秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月16日(土)23時38分39秒 ]


>> 『計其道里、當在會稽東治之東』から『之東』をとって『計其道里、當在會稽東治』とした場合どのような解釈になりますか?

同じことですが、会稽東冶と間違われる恐れがあります。

>> つけた場合はどのような解釈になるのかも教えて下さい。

東治は東冶の誤りではないことを「強調」していたことになります。



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Re: 承前 土佐説

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月17日(日)18時56分24秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月16日(土)23時59分49秒 ]

#お話しとしては面白いけど、・・・。たわごと以外の何かでありうるのだろうか。


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Re: 女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月17日(日)19時59分02秒]

元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月16日(土)07時47分54秒 ]

> しかし、畿内における画紋帯神獣鏡や紀年刀、貨泉などの出土を考えれば畿内の勢力が九州に劣るものとは思えません。

倭人伝には一大率が伊都国に置かれてあって、文書、賜物を点検する、とあって、畿内の神獣鏡や紀年刀なども伊都国経由で手に入れたもの、と思ってます。副葬状態からは、独自に手に入れた、とは考えていません。

>  土器の移動から考えて交易による同盟関係にあったと
考えとります。

佐賀教育委員会では庄内式土器の流入を、土器は女性が作るものだから、「なんらかの理由で畿内の多数の女性がこの地に嫁いだ」との見解を示しているそうです。

>> #唐古・鍵や池上曽根はかなり昔からの遺跡です。
>> 勢力としてかなりのモンやと思いますが。

北部九州に比べれば、その勢力は10%くらいじゃないでしょうか。遺跡の数からして。またどちらの遺跡も倭国大乱の後は無くなります。

>>  ただ、九州からきた人が瀬戸内海の風習の墓に入ってるいうんがなんかしっくりこんな。
>>  この辺はどう思います?

北部九州系の首長が、倭国大乱をまとめるために、各地の風習を墓に取り込めたものと解釈しています。擁立されたのは北部九州人だった。
もっとも私は巻向遺跡の奈良東南部偏在からして3世紀後半までは力が弱かったのではないか。卑弥呼はそこにはいないと思ってます。



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Re: 平原の諸問題

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月17日(日)20時20分13秒]

元の発言 [ 平原の諸問題 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月15日(金)23時05分20秒 ]

>>  ですから、必ずしも3世紀初頭と限定しなくてもいいのではないかと思います。もうすこし幅を持たせても良いのではないでせうか。

その通り。200−250年くらいで収まるでしょう。

>>  ここに頭を痛めてます。僕は、この平原の方格規矩鏡、16号鏡の内行花文鏡こそが「銅鏡百枚」の一部だと思っているので。

いやー柳田氏の見解は正しいですよ。実際2度ほど伊都国歴史資料館に行って鏡見てきました。大半はレプリカだったのですが、方格規矩は文様が稚拙な感じがして、倭鏡としたほうがいいでしょう。16号「長XXX」連弧文鏡もたしか柳田氏は倭鏡と判断しているみたいです。
個人的な見解ですが、安満宮山の方格規矩や三角縁の製造された地は、だたいが北部九州で製作されたもの、と考えています。たいていの傍製鏡は北部九州で製造されたものかと。

>>  この一号墓は、本来からお墓として築造されたものではなく、もともと祭祀施設だったのではないか。その祭祀者が亡くなってお墓に転用された可能性はないのだろうか?

その前後に周溝墓が連続して一号墓近辺にあるということは、その可能性は少ないのではないのでしょうか。
やはり、死後の一時的な祭祀の後だと考えています。



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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月17日(日)20時31分33秒]

元の発言 [ Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月16日(土)20時32分09秒 ]

>> 一説によれば、伊勢神宮の八咫鏡は大型の内行花文鏡だとも言われています。

ぼくもそう思う。だけど最近いやな資料を見つけてしまいました。伊勢神宮の鏡の箱の長さが約49cmですが、ふたを開けるとまた箱があるそうです。その箱を開けるとさらにまた箱があるとも。この祭器の納め方は、熱田神宮の草薙剣と同じみたいです。もとの鏡の大きさはそれでも20cm以上の大型みたいですか゛。
もっとも原点は平原の鏡でいいのでは。
さらに原点は倭人の鏡を宝器とする風習自体が太陽信仰の表れでしょう。



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中国朝貢記事はタブーだった

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月17日(日)20時40分24秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月16日(土)23時59分49秒 ]

>> A 卑弥呼がいないのは

>> 倭国大王家の国記の原本は大化改新によって、消失しているわけです。
>> しかし、おそらくは中国の魏と倭国女王卑弥呼との国交の記事を、日本国のものとして、書き換えてまで日本国の史書にのせる必要はなかったものと考えます。

記紀には倭の五王の記事はどこにもありません。記紀の成立した時代は白村江の敗戦の後なので、まだかなり反中国感情があったのでしょう。そういった時代背景があるから
記紀には卑弥呼が記載されていないのではないのでしょうか。



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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月17日(日)20時59分26秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月17日(日)18時17分13秒 ]

>>
>> >> 『計其道里、當在會稽東治之東』から『之東』をとって『計其道里、當在會稽東治』とした場合どのような解釈になりますか?

>> 同じことですが、会稽東冶と間違われる恐れがあります。

>> >> つけた場合はどのような解釈になるのかも教えて下さい。

>> 東治は東冶の誤りではないことを「強調」していたことになります。

そこの所がピンと来ないのですが。

なぜなら結果的に范曄が間違えていますし、畿内説の人に「会稽東冶」と間違いであることの根拠を与えてしまったのですから。


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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月17日(日)21時40分11秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月16日(土)23時43分06秒 ]

郭公さん今晩は。

大変貴重なこと御教示いただきありがとうございました。

>>  また、行燈山古墳(伝崇神陵)のたぶん周溝からだったと思いますが、六花文の内行花文鏡を描いた縦55cm、横71cm、厚さ1cmの銅板が出ています。昨年神戸の「大古墳展」でレプリカと、拓本を見ることができました。
#そうですね。昨年夏に、私もこの「大古墳展」観ました。あれだけの出展数の展示会が地方で開催されるのは珍しいです。このレプリカと拓本は4葉座、6花文ですが、中国の流れをくむのは8花文のようですね。新しい

>>  さてどっちでしょうね。もちろん僕は平原のだと思っていますけれど。
#平原の大型鏡の特徴の一つに鈕がないことなんですが。これはどのように解釈すればよいでしょうか。
大型鏡を鋳造する際に、阻害要因になるとは到底思えないのです。
又、正倉院の宝物の鏡の中に鈕の穴に通す「紐」とセットのものがあります。紐は細長く、縁を赤い糸で織り込んだ絹織物で大変立派な布です。この、鈕は何か重要な役割をもっていたのではないかと考えていますが、良くわからない部分です。
この鈕ない鏡は、宗教的により神に近い存在だったのではないだろうか。そんな妄想も描いています。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月6日(水)21時29分18秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 梶山泥舟 ] 日付 [ 3月6日(水)00時32分18秒 ]

梶山泥舟さん、こんにちは。
>> 古代の歴史書作りはそのころ日本だけでなく、高句麗や百済、新羅なんかも一大ブームだったんじゃないでしょうか?

えーと、大化改新で蘇我氏が保管していた「天皇記」と「国記」が燃えています。
(あ、「天皇」って、聖徳太子が作った名前なんでしょうか?)
古事記編纂は711年から、日本書紀編纂は681年からだそうですが、そのころ百済と高句麗は滅ぼされた後です。
たぶん、百済、高句麗から倭国に亡命した人は多いのでしょうね。
だけど、亡命した人より勝者である新羅の影響が一番強かったと考える方が自然でしょうか。
そう考えると、新羅に善徳女王(632-47)、真徳女王(647-54)がたち、倭に推古天皇(592-628)、皇極・斉明天皇(642-45・655-61)がいたことも、なにか関係があるような気がしてなりません。
なんか、とてももやもやした気分です。


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Re: 平原の諸問題

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月17日(日)22時24分12秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月17日(日)20時20分13秒 ]

 こんばんは。
 方格規矩鏡国産説について。
>> いやー柳田氏の見解は正しいですよ。実際2度ほど伊都国歴史資料館に行って鏡見てきました。大半はレプリカだったのですが、方格規矩は文様が稚拙な感じがして、倭鏡としたほうがいいでしょう。

 いやいや。稚拙であることが国産説の根拠ではないです。あくまでも、中国で出ない方格規矩鏡の魚紋、陶氏作鏡銘が、反論できない根拠です。
 奥野正男『邪馬台国はここだ』(毎日新聞社)には以下のように書かれています。
> 後漢晩期の尚方鏡は、方格内の十二個の乳や十二支の文字が完全に退化して紋様化し、紋様の簡略化が進行する。銘文は意味の通じない誤字や省略がふえ、文字にも左字がふえ、三国期になると全文字左文字という現象も少なくない。
> また四神や禽獣の図柄も、中期までの細い流麗なものから次第に線の太い簡略化されたものに変わり、さらに陰陽思想のシンボルである規(コンパス)、矩(曲尺・かね尺)の退化現象があらわれる。

 これが平原のにもそのまま当て嵌まるかどうかは検証が必要ですが、いずれにしても桜馬場の方格規矩鏡と比較しても、平原の方格規矩鏡は退化現象の中で作られたと言っていい。その意味では中国における現象と同じです。
 鏡も新品同様。遺跡は三世紀。副葬品の玉類の多さ、耳[王當](じとう)が出土したことから、被葬者は女性と考えられる。王墓と言っていいでしょう。卑弥呼と同時期の伊都国王もまた女性であったと考えるべきなのかもしれませんけれども。僕には、卑弥呼の可能性も捨てきれていない、と言ったところです。
 もちろん、この方格規矩鏡が中国製であることを先に証明しないといけませんけどネ。
 

>> 個人的な見解ですが、安満宮山の方格規矩や三角縁の製造された地は、だたいが北部九州で製作されたもの、と考えています。たいていの傍製鏡は北部九州で製造されたものかと。

 青龍三年の方格規矩鏡は、平原のとは銘文も違いますし、作者は顔氏です。鈕孔も平原のは半円形。安満宮山のは長方形。制作地は異なると思います。また安満宮山のは陳氏が作った鏡と共伴しています。
 青龍三年の方格規矩鏡は丹後の太田南5号墳から同型鏡が出ています。またそう遠くない豊岡の森尾古墳からは陳氏が作った「正始元年銘」の三角縁神獣鏡が出ています。
 その南の福知山の広峰15号墳からはこれまた陳さんが作った「景初四年銘」の磐龍鏡が出ています。
 このように見ていきますと、陳さん顔さんは連れ立って遼東あたりから渡来し、山陰に流れ着いたのではないかいな、と。


平原祭祀施設説について
>> その前後に周溝墓が連続して一号墓近辺にあるということは、その可能性は少ないのではないのでしょうか。
>> やはり、死後の一時的な祭祀の後だと考えています。

はい。必ずしも固執しているわけではないのですが、もうすこし調べてみたいと思っています。


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Re: 承前 土佐説

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月17日(日)22時25分04秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月17日(日)18時56分24秒 ]


>> #お話しとしては面白いけど、・・・。たわごと以外の何かでありうるのだろうか。

せっかく、一生懸命考えたのに・・・
ちょっと残念。

私としては、いろんな面白い仮説があっても良いと思います。
今までに考えられた、邪馬台国の諸説の中で、堂々巡りをしているだけでは、いつまでたっても邪馬台国は見つからないように思います。
そういう意味でトンデモのほうが真実に迫る可能性が多いかも。

EKさん的邪馬台国説があれば教えてください。



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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月17日(日)22時38分38秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月17日(日)21時40分11秒 ]

こんばんは。

>> #平原の大型鏡の特徴の一つに鈕がないことなんですが。

えっつ?
お父さん、ありますよ。鈕も鈕孔も。(^o^)



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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月17日(日)23時07分35秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月17日(日)22時38分38秒 ]

ヤヤッ・・・。
>> お父さん、ありますよ。鈕も鈕孔も。(^o^)
#確認しました。恥ずかしい。何で、こんなことを思い込んでいたのだろう。(-_-;)(-_-;)(-_-;)



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Re: 中国朝貢記事はタブーだった

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月17日(日)23時20分42秒]

元の発言 [ 中国朝貢記事はタブーだった ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月17日(日)20時40分24秒 ]

>> >> A 卑弥呼がいないのは

>> >> 倭国大王家の国記の原本は大化改新によって、消失しているわけです。
>> >> しかし、おそらくは中国の魏と倭国女王卑弥呼との国交の記事を、日本国のものとして、書き換えてまで日本国の史書にのせる必要はなかったものと考えます。

>> 記紀には倭の五王の記事はどこにもありません。記紀の成立した時代は白村江の敗戦の後なので、まだかなり反中国感情があったのでしょう。そういった時代背景があるから
>> 記紀には卑弥呼が記載されていないのではないのでしょうか。

ごぶさたしてます。
気候も良くなってきたので、四国へもまた来て下さい。

私としては、記紀に卑弥呼が記載されていないことも、倭の五王の記事が記紀にでてこないのことも、倭国(大王家)と日本国(天皇家)がもともと別の国であったことに起因すると考えます。

記紀は日本国の史書であり、卑弥呼も倭の五王も倭国(大王家)に属しており、日本国(天皇家)の人物ではなかったということです。
(ただし、この主張は、EKさんにはたわごとと言われてしまいましたが。)


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Re: 聖徳太子とキリスト教の関係

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月18日(月)02時58分32秒]

元の発言 [ Re: 聖徳太子とキリスト教の関係 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月16日(土)10時03分05秒 ]

白石湖南さん、こんにちは。レス遅くなってすいません。

>> #ユダヤ人を忘れてはいけません。

今の段階では、7世紀に中東の雰囲気を感じるのが精一杯で、ゾロアスター教とかユダヤ人とか、そこまで具体的に絞り込んで考えていません。でも日本史が世界史に繋がっているのを感じるのは、楽しいです。

>> 聖徳太子については僕は確実にイタと考えます。

そうなんです。現に「用明天皇の皇子で母は穴穂部間人皇后」と書いてある。しかしその足跡は常人離れしていて、どうも不思議・・・と感じる人もいるし、感じない人もいる。
白石湖南さんはいたと感じ、わたしはなにか胡散臭いものを感じている。yaohideさんのおっしゃるように百済の皇子だったかもしれないし、何人かの活躍を抹殺するために架空の人物を作ってまとめたのかもしれない。よくわからないでいます。
本も手に入れたし、サクサク読めばいいのですが、なかなか進まず困っています。


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お詫び(あちゃ・・・・)

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月18日(月)07時01分10秒]

元の発言 [ お願い。管理人さんへ ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月16日(土)10時18分50秒 ]

 僕の発言がいかんかったかな。
なんか、火に油を注いだみたいな事になってしもうて
どうもすみません。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月18日(月)07時29分29秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月14日(木)21時30分58秒 ]

 はじめまして、おはようございます。

>>  単刀直入に言うと、僕は平原が卑弥呼の墓だと思っています。

#九里双水古墳の存在を考えると、まだなんともいえませんが、ここはあったとして考えてみましょうか。

>>  ただ、問題がないわけでもありません。
>>  まず、伊都国になぜ卑弥呼の墓があるのか?
>> >女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。
>> # この記述から判断すれば、女王国は伊都国の南にある。伊都国≠女王国。

#倭国の乱は沿岸部の国々と内陸部の国々の争いであるというのが僕の自論ですので、この説に則って話を進めさせていただきますが、女王国は狗那国の台頭によって危険な状態にあったのではないか。その状態の中で魏使が来ると聞いて、伊都国に移ったのではないでしょうか?
 建前としては「外国からのお客様に会いに行く」として実質「疎開」みたいなもんやなかったか・・・と思うわけです・・・あくまでその可能性があるという話ですよ。
 でもこう考えると魏志倭人伝の記述もしっくり来るね。「魏使は伊都国周辺しか歩かなかった。」
ということになりますからね。
もうちょっと書きたいけど時間が来たんでこの続きはまた今度。



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Re: 承前 21か国だいたい比定!

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月18日(月)09時23分08秒]

元の発言 [ Re: 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月10日(日)19時41分20秒 ]

>> >> 誤字の可能性も高いし。

>> これはいつも出てくる話なのですが、疑問に思っています。
>> 三国志(例えば紹熙本)の他の部分において、明らかに転記ミスだという箇所
>> が多数確認されているということなのでしょうか?
>> 史料の確かさは史料ごとに異なるもので、ある写本に間違いが多いといって、
>> 他の史料の不確実性など決して言えないと思うのですが。

倭人伝中にも

海馬→対馬
一大→一支

など地名の比定によるもの

邪馬壹→邪馬臺
壹與→臺與

のように他の文献から推定できるものがあります。
だいたいずっと書き写されてきたわけですから、誤写があってもおかしくない。
一般的には誤写であるともないとも決められないのが普通と思います。
誤写であると恣意的に決め付けるのは論外ですが、誤写は絶対にありえないと決め付けるのも非科学的でしょう。
したがって一字一字慎重に取り扱ってゆくべきでしょう。
軽軽に誤字と決めては話になりませんし、かといって絶対という立場は変です。
私も文字を変えるのは最後の段階と思います。
比定出来なければ保留にしておけばよいのです。
少なくとも私の知りたいのは真実であって、音あわせではないのです。

>> >> ちょっと意味がわかりませんが。

>> まず、漢字音の音価について、藤堂氏の上古音−中古音の広い範囲内
>> で調べるということなのか、それとも途中の音価からそれを修正していくのか、
>> ということです。私は、方法に問題があっても長田氏の音価のほうが、
>> 藤堂氏の上古音または中古音より近いだろうと考えています。
>> ですから、これを基礎にして音訳語や押韻を用いて修正していくほうが
>> 効率的だと思うのです。
>> そして、この後が問題なのですが、弥生時代に8母音というものがあったか
>> どうかということです。もしあったなら、日本書紀α群のような対応を
>> 考えればいいかもしれない。しかし、音訳語を調べていると、
>> そんなことはいえそうにないと思ってしまいます。

どうも長田さんの本は読めば読むほど信じられなくなります。
広範なバックグラウンドをもった専門家の意見を打倒する実力は私にはありませんが・・・

>> う〜ん、本当に倭人は不安定な8母音を話せたのだろうか・・・。

上代日本語でもともと出現頻度の少ない母音もありますので、倭人伝ぐらいの文字数ではなんとも言えません。
私は後漢期はほとんど3母音、魏晋期は6母音ぐらいに思っていますが、分かりません。


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Re: Title 最終見解

投稿者[ 桜前線北上中 ] 発言日時 [3月18日(月)10時04分36秒]

元の発言 [ Title 最終見解 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月17日(日)20時55分40秒 ]

消せ消せ!さっぱり消せ!
九州説は宗教だとか無知だとか暴言ばかりだ。
いってることは聞きかじりのいいかげんな知識ばかり。
じぶんの権利ばっかり言い張って他人の尊厳は踏みつけ。
これまで放置していた管理人の責任こそ重大だね。


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承前 土佐説(邪馬四さんへ)

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月6日(水)21時53分08秒]

返信が遅れてすみません。自分の考えを文章にするのはにがてなので気長におつき合い下さい。

質問に答える前に、高知の特殊事情により、土佐説は(といっても私の説ですが)他の説と少し違った前提に立っているため、そのことについて少し述べておきます。
ずいぶん、トンデモですが、こういう考え方もあると思って見てください。

邪馬四さんもご存じかと思いますが、高知県には前方後円墳が全く見られません。
高知県内では200カ所程の古墳が確認されていますが、そのほとんどが横穴式石室墳であり、古墳時代後期のものと位置づけられています。
しかし、邪馬台国土佐説が成立するためには、卑弥呼の墓の存在が不可欠です。

したがって、私としては
 @ 魏志倭人伝の卑弥呼の墓は、これらの横穴式石室墳の中にある。
 A 横穴式石室墳は土佐においては2世紀以前よりつくられていた。
という前提にたっています。

また、そのことから
 @ 倭国の墓制は本来、横穴式石室墳である。
 A 前方後円墳は倭国と対立する狗奴国の古墳である。
 B 倭国大乱は中国地方の前方後円墳国家が四国(倭国)へ進出したことにより起きた。
 C 前方後円墳が愛媛、香川、徳島に見られるのはこのためである。
 D 前方後円墳が見られない高知には、前方後円墳国家の支配は及んでいない。そのことから高知が倭国の中心であると考えられる。
というような認識で邪馬台国をとらえています。

またこれらのことから、当時の瀬戸内海は前方後円墳国家の支配下にあるか、倭国大乱の主戦場であり魏志倭人伝に書かれた時代においては、倭国にとって瀬戸内海ルートは危険が多かったと考えます。 

>> >> 魏志倭人伝の上記の里程について、「土佐耶馬台国論」では、
>> >> 唐津付近に上陸後東南へ向かい、日田が伊都国、
>> 次に東へ向かい九重町付近が奴国、
>> 大分付近が不弥国で、日本海側から豊後水道へ抜けるルートです。
>> >> 不弥国からは放射式で考えて、南至投馬国は南九州へ、
>> 南至邪馬台国は南四国への水行となります。

>> 福岡経由と佐賀経由がありますが、
>> なぜ、陸行で前原、福岡、久留米あたりが記述されなかったのでしょうか?
>> あと、伊都、奴、不彌の地名の対応はどうでしょうか?

ご指摘の、前原、福岡、久留米あたりは前方後円墳が多く見られる地域かと思われます。
したがって、倭国とは敵対関係にあった国々であり、そのために記述されていないものと思われます。
また、福岡経由か佐賀経由かの件に関しても、どちらも経由せず背振山地の南を通って、敵対関係にある地域を避けて、日田のあたりまで陸行したのではないでしょうか。

ついでながら、魏志倭人伝では、末盧國から東南への陸行ですが、後代の資料である、隋書などでは「一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。」などの記述がみられ、福岡から瀬戸内へ出るルートをとっています。
これは、宋書の倭の五王の記述にみられるように、倭国(私の説では四国の国家)が、東西、海北の周辺諸国を支配下に置いたことにより、瀬戸内ルートの安全が確保できる状況になったためであると考えます。
といっても、「東して秦王国」とは 秦王国=秦=幡多 であり、豊後水道を高知県西部へ南下し、土佐へ向かったと思われます。

最後に、地名の対応についてですが、私には漢字の知識もないので、きちんとした解答はできませんが、しいて述べるとすれば、
 @ 伊都(いと)と日田(ひた)は読みとしては似ていると思われます。
 A 奴は野を示し、近くに大野郡などの地名があることから、高原地帯の野原を表す。
 B 不彌(ふみ)は、海(うみ)で海岸に面した地域を示す。

そのほか、傍国21カ国などのご質問もありましたが、また後日にさせてください。



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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月18日(月)10時53分10秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月17日(日)20時59分26秒 ]


>> そこの所がピンと来ないのですが。
>> なぜなら結果的に范曄が間違えていますし、畿内説の人に「会稽東冶」と間違いであることの根拠を与えてしまったのですから。

結果的に范曄が間違えようが、それは陳寿のあずかり知らぬところです。
現に、牛頭天王さんは「東冶に間違わなかった」ではありませんか。
ところで牛頭天王さんは、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の記事がなくても(あくまでも仮定の話ですが)、会稽東治は「会稽山の東の治世」のことと理解されましたか?




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Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月18日(月)12時01分13秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月13日(水)07時39分53秒 ]

>> はい、確率は重要なポイントです。
>> これは、どの範囲の音を類似音とするかどうかで変化します。
>> つまり、「邪馬台国の比定」の場合は面倒だけれど、
>> 「音推定+変化」と「地名対応」をセットにせざるを得ません。
>> 上の数値は、HPにある擬定音と母音交替の範囲で決めた場合です。
>> 私の場合は四国説なので、四国の全郡郷名からどれくらいあるか調べました。
>> 他の方法では、角川地名大辞典で「やま」「しま」
>> を含むような地名がどのくらいあるか調べています。
>> 最も多くありそうな「山」「島」あたりで、上限を求められます。
>> なお、角川地名大辞典は、ひとつの県で5000〜10000
>> くらいの地名があるので統計に使えます。

このあたりの理屈をもっとちゃんとやらないと説得できないでしょう。
また四国説を証明するのに四国説を前提にしていては根拠なしです。

>> >> この確立はかなり良く音がマッチしたときのものですか?
>> >> 現在のやましさんの比定ではどうなりますか。
>> >> 44文字の地名のように扱うのであれば、
>> 地名に音をたしたり引いたりしたときの確立計算も必要でしょう。

>> 22の比定地域の中の主要地名のどれかが、国名と類似するという
>> 確率です。l個以上類似する確率は、上に書いています。
>> 地名に音が余るところは、地名の類似確率のところで
>> 既に考慮しています。(3文字、4文字地名がほとんどです。)

どのように考慮されているのでしょうか。
はっきり示すべきでしょう。
また連続比定の確立計算は単純すぎます。
ちゃんと場合の数を計算すべきです。

>> >> >> 不思議なのは、偶然とは思えない比定案がでてきたといっても、
>> >> >> ほとんど反応がないことです。

>> >> これだけで説得力を感じる人は少ないのでは?

>> そうなんですよ。はっきり言って、私浮いてます(笑)

悪く言うつもりは無いですが、やましさんの比定をみてこれはすごいと思う人は少数派でしょう。

>> 実際「こじつけ案」が作れるかどうか、やってみれば分かるんですけど。

たとえば以下のような案と比較してどれほど優位か数値的にやってみては?



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Re: Title 最終見解

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月18日(月)12時53分09秒]

元の発言 [ Re: Title 最終見解 ] お名前 [ 桜前線北上中 ] 日付 [ 3月18日(月)10時04分36秒 ]

色々お怒りとか有るかもしれませんが、
その行為は、よろしくありません。
他の方たちが、不快に思います。

おにりんさん、との討論でも、色々勉強になった事が有ります。
人は、何か、色々不快を、他の方々に与えている事は、当然のことです。
私も、気がつかず、無礼を働いている事も多いでしょうから、ここで、謝罪をしておきましょう。
申し訳有りませんでした。

ですが、価値観の相違は、ご理解ください。
また、学問上の事だとしても、完全な正解の分かっていない事を、
お互い了解して話しているのだと言う事も

ただ、これまで色々討論した事は、ある意味において、
共有の財産でも有るのですから、
其の点のご配慮をいただけないのは、残念です。

上のような書き込みをしたくなるのも、分かりはしますが、
良く考えた上で、行動する様お願いします。

おにりんさん。
今後のためにも、悪い前例を残さない様、ご配慮をお願いします。

訳知り顔での書き込みでご不快かもしれませんが、
宜しくお願いします。



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Re: 承前 土佐説

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月18日(月)12時57分49秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月17日(日)22時25分04秒 ]

>> せっかく、一生懸命考えたのに・・・
#それはわかりますし、山佐留さんは論拠をお持ちの上での主張だとは思いますが、壮大なモデルの結論だけを提示しておられるので、ついていけません。大筋は分かりましたので、個別のテーマについて、論拠を示しながら提案していただければと思います。
とりあえず、以下のあたりを投稿して下さったらいかがでしょうか。

>> 大乱後の倭国(邪馬台国)は日本国(狗奴国)に対して反攻に転じ、倭の五王の時代までに、倭国(邪馬台国)は日本列島を制圧します。

1.2世紀初頭までは、倭国を代表していたのは伊都国であったと思われます。これは私は糸島平野・半島のあたりと(定説どおり)考えています。その後100年の間に、権力の中心が土佐=邪馬台国に移動したのでしょうか。
2.日本国=狗奴国の中心地域および版図はどのあたりとお考えですか。
3.倭国の制圧は、どのような経緯(時間・空間的に)で行われたのでしょう。
4.以上の山佐留さんの仮説を支持する文献的・考古学的の根拠はあるのでしょうか。
(それなら現状の九州説・大和説の論拠がどこまで客観的なんだ、というお考えも分からなくはありませんが。)

>>>> 私も文献の解釈については、出土物などの考古学的な見地はさておいて、書かれた内容を一度は、素直に受け入れる態度が大切だと考えています。
#これは私も賛成ですが、女王の都なら少しは遺跡遺物も出るでしょう。

>> ちょっと残念。
#すみません、ひとりごとモードがついつい流れ出てしまった、とご理解ください。

>> EKさん的邪馬台国説があれば教えてください。
#私は、九州北部のどこか、と考えています。理由は単純で、
(1)倭人伝には九州北部のことしか書かれていない。
(2)九州北部の遺跡・遺物が他を圧倒している(最近は、3世紀の遺跡は九州北部にはあまりないという主張がありますが、私は眉に唾をつけて見守っています)。


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櫛羅

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月18日(月)18時58分46秒]

元の発言 [ Re: 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月8日(金)13時18分42秒 ]

>> >> >>上の意見に反しますが、私の現在の比定は「巨勢(コゼ)」です。
>> >> >>北の方には「御所(ゴセ)」もありますし、巨勢氏の勢力は6世紀以降としても、
>> >> >>ほんとは葛城氏がのしてくる前からの地名と思うのですが。
>> >> >>巨勢氏は単に古い地名の地域を本拠地にしていただけで・・・
>> >> >>寺澤氏の王権誕生によると奈良盆地南西には、もう一つ国があってもよさそうです。

>> >> #葛城に一つ國があってもいいかなと思い、「鬼奴」が「葛城」と読めないかとか、いろいろ考えたのですが、結局わかりませんでした。

おもしろい地名を見つけた。

櫛羅(クジラ) 奈良県御所市大字

中世には倶尸羅と書いたらしい。
語源としては、急斜面があること、古くから崖崩れの多かったことがあると去れているが、はっきりしない。
同じように急斜面にちなむ地名としてクズがある。
クジラもクズも、クヅレとはヅとズの違いがあるが、どうもこれは混用されることがあったらしい。
クズには国巣、や国栖など、クズ系と国津、九頭などクヅ系がある。
語源はともかく櫛羅は躬臣の比定地になりうる。
このばあい躬は中古音的に読んで(おそらくその方が妥当でしょう)
躬臣=kiung-zienでngはzの鼻濁音を表現するとし、最後のnは、Arshak=安息の例のようにr音を表したとして、躬臣=クジルの様に読む。
問題は倶尸羅が何処まで遡れるかだが、ここには鴨山口神社があり、その縁起のなかにこの地名が登場する。
また櫛羅は葛城山への登山道の入り口にあたり、途中櫛羅の滝などと言う地名もある。
この滝の命名伝説には弘法大師が登場してくるので、要するに起源は不明と言うことだろう。
また鴨都波神社には、古くは櫛羅にあったとする伝説があり、今でもそれにちなんだ神事があるそうである。

櫛羅の位置は葛城山の麓であり、先に述べたようにクヂラに通用するものであるなら、カヅラの地名の起源になるものかもしれない。
また知られていない母音変化ではあるがクジ→コ(乙)ジへの変化を考えれば、巨勢、御所とのつながりもありそうだ。
またコ(乙)ジは、やはり起源のはっきりしない五條にも絡んでくる。

クジ→クズを考えれば吉野の北部が入ってくる。

書紀の神武紀には、葛城の語源として、先住民と思われる土蜘蛛の話が現われているが、吉野地方北部から、葛城にかけて、クジと呼ぶ後の大和政権からみれば異族がいたのかも知れない。
その名残が歴史に見る国栖ではないか。
最後のルの意味するところは分からないが、その人々の内水田農耕化した人々が葛城に住んでおり、その国名がクジルだったのではないか。
鴨都波遺跡の弥生土器には、他の奈良盆地とはことなり、和歌山系の土器が見られることも興味深い。
櫛羅は葛城の中心地と思われ、銅鏡と銅鐸の同時出土した、名柄まで葛城古道を約3Kmというところ。
なお櫛羅からは銅鐸出土の記録があるが、火災で消失した。


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Re: 道里を計る

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月18日(月)19時05分11秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月15日(金)21時03分04秒 ]


>> 地図の問題以前に、「異質」どうしを「計れ」るものなのか、ということなんですが、、、

 魏志倭人傳の記述からは邪馬臺國は帶方郡から見てほぼ南南東にあたると考えられます。遼東郡を起点にしても同じでしょう。
 遼東郡から見た東冶の方位が当時どう考えられていたかわかりませんが、概ね正しく把握されていたとすれば、南南西にあたります。
 途中、それぞれに経路の曲折はあるものの、南南東方向と南南西方向にそれぞれ同程度の距離を進んだところと考えられているとすれば、曲折の影響を相殺して、両地点がそれぞれ東西に在ると推断されることに不思議はないと思います。


>> 地図でもなければ、なかなか確信的な推測はできないと思っているのですが、、、

 地図があったとしても現代に存在するような正確なものではあり得なかったでしょう。正確な地図があったなら、推断の必要もなかったのではありませんか。


>> >> 「邪馬臺國は東冶の東に在る」と推断されるのも蓋し当然だという話なのですが、おかしいでしょうか?

>> 東冶の東って、會稽海外じゃないのかな〜って、こだわっています。

 別にいいんじゃないですか。


 「當在〜」ですから、なにものかの所在を推断しているのであり、その推断の材料が「計其道里」であって、「其道里」は「自郡至女王國萬二千餘里」を指すと考えられますから、女王國、即ち邪馬臺國の所在を推断しているものと解するよりほかないものと思います。



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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月18日(月)19時32分11秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月18日(月)10時53分10秒 ]

>>
>> >> そこの所がピンと来ないのですが。
>> >> なぜなら結果的に范曄が間違えていますし、畿内説の人に「会稽東冶」と間違いであることの根拠を与えてしまったのですから。

>> 結果的に范曄が間違えようが、それは陳寿のあずかり知らぬところです。
>> 現に、牛頭天王さんは「東冶に間違わなかった」ではありませんか。
>> ところで牛頭天王さんは、「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」の記事がなくても(あくまでも仮定の話ですが)、会稽東治は「会稽山の東の治世」のことと理解されましたか?

その解釈は出来ませんね。
ただ理解不能な文章だなあと思うだけだったでしょうね。
『其』が『自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫』にかかってくる事になると「会稽山の東の治世」とは関係ないし、『呉の太白』の記事
でもないと理解不能です。

本当は陳壽は『呉の太白』の記事を入れたかったのに何らかの思惑があって削除した(春秋の筆法)のかも知れないなんて思っています。



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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月18日(月)22時16分48秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月18日(月)07時29分29秒 ]

 こむばんは。

>>> #倭国の乱は沿岸部の国々と内陸部の国々の争いであるというのが僕の自論ですので、この説に則って話を進めさせていただきますが、女王国は狗那国の台頭によって危険な状態にあったのではないか。その状態の中で魏使が来ると聞いて、伊都国に移ったのではないでしょうか?

 僕は、たぶんだけど、奴国VS伊都国が倭国大乱の根本のような気がします。
 金印をもらったのは倭国の中の奴国ではなくて、倭と言う部族と言うか人種と言うかその中にいた奴国ですよね。だからもともと北部九州にあっては、奴国が親分だったんだと思います。銅剣、銅矛を威信財とした時代があり、その元締めが奴国だった。
 次に、「倭国王」帥升等と、はじめて「倭国」という言葉が出てきます。このとき初めて倭国という紐帯が出来たんだと思います。で、主導権も奴国から伊都国へ移ったのではないかと。
 だから奴国としては快かろうはずがない。卑弥呼没後男王が立ちますがうまくおさまらない。倭国という北部九州連合国家は必ずしも一枚岩ではなかったように思います。
 一方、狗奴国がさらに倭国の南にあって、ちょっかいを出す。
 
>>>  建前としては「外国からのお客様に会いに行く」として実質「疎開」みたいなもんやなかったか・・・と思うわけです・・・あくまでその可能性があるという話ですよ。
>>>  でもこう考えると魏志倭人伝の記述もしっくり来るね。「魏使は伊都国周辺しか歩かなかった。」
>>> ということになりますからね。

 後段はその通りだと思います。
 先月書きましたけど、邪馬台国への行程について言うと、
●奴国・不弥国の記事
●投馬国・邪馬台国の日数表記の記事
●その余の旁国の記事
が、本来は箇条書きふうに、伊都国で聞き取った記録であったものを、順進的に繋いでしまったのではないかと思います。
 だから、その余の旁国にしてもすべてが女王国より南ってことはないと思います。
 斯馬国は糸島半島のまさに半島部だと思う。じつはここにも、二見ヶ浦があります。
 最後の奴国は、日本書紀にも出てきますけど…、まあ内緒。(^o^)

>>> もうちょっと書きたいけど時間が来たんでこの続きはまた今度。

 続編期待します。


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陳謝、陳謝!!

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月18日(月)22時37分13秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月17日(日)22時38分38秒 ]

今晩は。
上記の事実に相違する発言。皆さんをお騒がせしてしまって、本当に申し訳ありませんでした。
単なる、勘違い、思い違いではすまないことかもしれません。世が世なら、蟄居謹慎、はたまた切腹ものかな。
今後ともよろしくお付き合いください。



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Re: 陳謝、陳謝!!

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月18日(月)23時19分25秒]

元の発言 [ 陳謝、陳謝!! ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月18日(月)22時37分13秒 ]

お父さん、こんばんは。

 それぞれの勘違いと思いこみで世界は成り立っているような気がします。

> 世が世なら、蟄居謹慎、はたまた切腹ものかな。

 それを言うならわたくしなんか表を歩けません。(^^ゞ

>> 今後ともよろしくお付き合いください。

 当然です。
 あたり前田のクラッカー。(^o^)


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月6日(水)21時57分58秒]

元の発言 [ 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月6日(水)00時05分15秒 ]

鬼さんいない。かわいそうな気がするが、自業自得。わたしも被害を受けたし。スサノヲみたいだった。
でも世の中明るくなったので、投稿再開させてください。

>> あるいは、天武が列島以外からやって来た王族であるなら高らかに己の血筋を誇ればいいと思うのです。
>> 当時、有力豪族は渡来系氏族でいっぱいです。渡来系の人たちが何語をしゃべっていたか知りませんが、本貫には親戚がたくさんいて、当然、人の行き来もあるでしょう。

むしろそういう状況下だったので、よけいに万世一系統にこだわったのではないのでしょうか。

編纂したのは舎人親王らですが、かれらは歴史家として見てよいのではないのでしょうか。
日本書紀には「またある書には、」や注釈とかがたびたびでてきますし。歴史家でないとそんなことできない。

最近の考古学の成果は記紀と一致することがおおく、わたしはもっと重視とていいものと思ってます。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月19日(火)07時24分16秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月18日(月)22時16分48秒 ]

 おはようございます。


>>  僕は、たぶんだけど、奴国VS伊都国が倭国大乱の根本のような気がします。
>>  金印をもらったのは倭国の中の奴国ではなくて、倭と言う部族と言うか人種と言うかその中にいた奴国ですよね。だからもともと北部九州にあっては、奴国が親分だったんだと思います。銅剣、銅矛を威信財とした時代があり、その元締めが奴国だった。
>>  次に、「倭国王」帥升等と、はじめて「倭国」という言葉が出てきます。このとき初めて倭国という紐帯が出来たんだと思います。で、主導権も奴国から伊都国へ移ったのではないかと。
>>  だから奴国としては快かろうはずがない。卑弥呼没後男王が立ちますがうまくおさまらない。倭国という北部九州連合国家は必ずしも一枚岩ではなかったように思います。
>>  一方、狗奴国がさらに倭国の南にあって、ちょっかいを出す。

#伊都国は出土物から考えて、交易によって栄えていたことが伺えます。
 では奴国はどうであったかと見ると銅鏡やガラス製のアクセサリーなどの副葬品が豊富に出土するのに加え、
青銅器、鉄器、ガラスの工房まで見つかっとる。しかも
大量に生産された痕跡もあるそうです。
ということは軍事力もかなりのモンやったということになる。さらに魏志倭人伝を見る限りでは奴国と伊都国の国力にかなり差があります。伊都国千余戸、奴国二万余戸。「魏略」には伊都国は「戸万余」とあるそうやから
万余戸あったとしても奴国のほうが倍ある。武器もギョウサン持っとる。
 僕には戦争以前に伊都国王が奴国王を札ビラでしばき倒しとる構図のほうがぴったりくるんやけど・・・
 この辺はどういった見解をお持ちでしょうか? 


>>  最後の奴国は、日本書紀にも出てきますけど…、まあ内緒。(^o^)

#ココカラ「閑話」
これ、一直線に繋げるからわからなくなるんや。どこの世界に線路の駅みたく一列に並んだ国があるんや。
・・・いや、郭公さんに言ったんじゃないんよ。
今手元にある本読んどったらどうもそんな勘違いをしとるように思う。
 奴国を始点にしたらどうでしょう?奴国からその周りにあるクニを書いていって、最後に奴国・・・こんな書き方のような気がする。
 九州を例にとって言えば・・・郭公さんゆかりの熊本からはじめると
「次に宮崎あり、鹿児島あり、長崎あり、佐賀あり、福岡あり、大分あり、で、熊本あり」
「で」が抜けとったばかりに古今東西の学者先生が悩み抜いたんやね(大笑)。
 現代語訳するときも「で」を入れとけばよかったんや。きっと現代誤訳した人は、クニを一直線に並べたい畿内説の人やったんやろね(爆笑)。
 そもそも九州説は九州島を縦横に考えるいわば
「玉」的な考え方で畿内説はソレに対して、直線的に考える「槍」のような考えで、まさに畿内説が九州説つつくんは「槍玉にあげる」そのもので、
「じゃあ、゛なんで九州島を縦横に・・・"で玉やねん?」て訊かれても
「゛斜め "言うん忘れてましたぁ。」なんて今更言えんし。仮に言ったかて
「それでも八角形やないかい。ボケェ」言うてつっこまれそうやし・・・あっそうか!「玉と槍」言うたんがいかんのや。「槍」はとがっとって物騒やからなぁ。「槍」やのうて「竿」ならどないやろか?「玉と竿」の関係ならどっちが欠けても困る関係やし・・・

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------(プチン)---------------------

閑話休題(・・・失礼しました・・・)

以下次号!


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Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月19日(火)12時14分00秒]

元の発言 [ Re: (承前)会稽東治の東:「計其道里」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月18日(月)19時32分11秒 ]


>> ただ理解不能な文章だなあと思うだけだったでしょうね。

でしょ。
ですから、「計其道里、當在會稽東治之東」を「自郡至女王國、萬二千餘里」の直後に置かず、黥面文身の記事を挟んだのも「そういうこと」だと、、、
「そういうこと」だから「會稽東治」ですむところを、念には念を入れて「會稽東治之東」にしたのだと、、、


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Re: 道里を計る

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月19日(火)12時17分01秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月18日(月)19時05分11秒 ]

>>  途中、それぞれに経路の曲折はあるものの、南南東方向と南南西方向にそれぞれ同程度の距離を進んだところと考えられているとすれば、曲折の影響を相殺して、両地点がそれぞれ東西に在ると推断されることに不思議はないと思います。

「曲折の影響を相殺」するということは、折り曲げた針金の片方だけをちょっと引っ張ってみるということですね。
それなら不思議はありません。

>>  地図があったとしても現代に存在するような正確なものではあり得なかったでしょう。

晋書裴秀(224-271)伝の「制圖之體有六焉。一曰分率、所以辨廣輪之度也。二曰準望、所以正彼此之體也。三曰道里、所以定所由之數也。四曰高下、五曰方邪、六曰迂直、此三者各因地而制宜、所以校夷險之異也。」に興味をもっています。
以下それぞれについて説明が続くのですが、要は地図作製の心得として、分率(縮尺の比率を定めること)・準望(方位を正すこと)・道里(距離を正すこと)・高下(坂道では水平の距離を求めること)・方邪(交差の角度を正すこと)・迂直(曲線区間では直線距離と方位を求めること)が必要だということのようです。
だとすると斐秀の「禹貢地域圖十八篇」は、それなりに「正確」だったのではないでしょうか。
(陳寿がこれを見ていたとの保証はないのですが、、、)

>>正確な地図があったなら、推断の必要もなかったのではありませんか。

同感です。


193

Re: 道里を計る

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月19日(火)12時58分43秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月19日(火)12時17分01秒 ]


>> 「曲折の影響を相殺」するということは、折り曲げた針金の片方だけをちょっと引っ張ってみるということですね。

 よくわかりませんが、多分違うのではないでしょうか。私が言いたかったのは、推断者が経路にはそれぞれに曲折があるので、相互に相殺されるものと見なしたのだろうということです。


>> だとすると斐秀の「禹貢地域圖十八篇」は、それなりに「正確」だったのではないでしょうか。
>> (陳寿がこれを見ていたとの保証はないのですが、、、)

 理論とそれを現実化できるだけの技術的裏づけがあるかどうかは別問題でしょう。



194

Title「247年」と「607年」(その一)

投稿者[ hvhy ] 発言日時 [3月19日(火)19時05分45秒]

古事記を読むと、「大雀」(仁徳)のところにこうある。
「太子伊邪本和気命の御名代と為て、壬生部を定め」云々。
続いて「秦人を役ちて茨田堤、及茨田三宅を作り、又丸邇池、
依網池を作り」云々。ここで「依網池」「丸邇池」に着目する。

★依網池−−→

・古事記……崇神のところ、仁徳のところ。
・書紀……崇神のところ、推古15年の冬。


★丸邇池(和珥池)−−→

・古事記……仁徳のところ。
・書紀……仁徳のところ、推古21年11月。

引用した記事は、やがて第17代の天皇になる「太子」に対して、
「壬生部」が設定され、「依網池」「丸邇池」が作られたという話。
ところが日本書紀のばあい、憲法17條を作った「皇太子」の時代に、
(おそらくその皇太子に対して?)「壬生部」が設定され、同じ時代に、
「依網池」(推古15年)「丸邇池」(推古21年)が作られたという話。
ここに《同じ形》が見られる。(意図的に配置したかどうかは保留としよう)
「憲法17條」の「17」なる数字に何か意味があるとすれば、このあたりに
紐解く鍵がありそうだが、今はそのことが主題ではない。推古15年がまず問題。

#いわゆる聖徳太子に関連する記事は、推古15年までは豊富だが、
#以降は無いに等しい。「飢者に飲食を与えた」という伝説的な話と、
#「天皇記・国記」などの撰録。ここで言う伝説的な話が推古21年だ。
#まるで聖徳太子の存在を引き延ばすかのように推古21年の記事がある。
#「和珥池」は「依網池」と同じ年(推古15年)に作られた可能性もある。
#ともかく「推古15年」(607年)に、大きな変化があったと想像される。


195

「247年」と「607年」(その二)

投稿者[ hvhy ] 発言日時 [3月19日(火)19時08分25秒]

元の発言 [ Title「247年」と「607年」(その一) ] お名前 [ hvhy ] 日付 [ 3月19日(火)19時05分45秒 ]

日本書紀は「気長足姫」が倭人伝の「卑弥呼」と言わんばかりの筆致。
ところが実はもう一人、「倭迹迹日百襲姫」もそのように描かれている。
記事の内容だけではなくて、記事の時間配置においてもその節が見られる。

>(崇神天皇)十年の秋七月の丙戌の朔己酉(24日)に、
>群卿に詔して曰はく、「(中略)其れ群卿を選びて、
>四方に遣して、朕が憲を知らしめよ」。

>九月の丙戌の朔甲午(9日)。(いわゆる四道将軍の派遣)

>壬子(27日)。(和珥坂の少女の予言)→(武埴安彦の謀反)

>是の後に、倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻と為る。
>(ここで「箸墓」に関する伝説的な記事)

>冬十月の乙卯の朔に、群臣に詔して曰はく、
>「今反けりし者悉に誅に伏す。畿内には事無し。
>唯し海外の荒ぶる俗のみ、騒動くこと未だ止まず。
>其れ四道将軍等、今急に発れ」。(この後、実際に出発)

>十一年の夏四月の壬子の朔己卯(28日)に、四道将軍、
>戎夷を平けたる状を以て奏す。是歳、異俗多帰国家安寧也。

「7月24日」という日付と、「4月28日」という日付が、
それぞれ西暦(ユリウス暦?)の「247年」「248年」を
密かに示す。倭人伝に載る「卑弥呼」の死亡記事を踏まえたのだ。
即ち日本書紀は、全体の紀年とは別に、何を意図してかはともかく、
「崇神10年/崇神11年」を「247年/248年」に重ねている。
(※このようなトリックは、東西双方の暦法に通じた者の技と思われる)

#「武埴安彦」の反乱(?)において、「大彦」を助けたのは
#「彦国葺」だが、この人物は「和珥臣の遠祖」と書かれている。
#古事記と書紀の対比から、「小野臣」は「和珥臣」の分派である。


196

「247年」と「607年」(その三)

投稿者[ hvhy ] 発言日時 [3月19日(火)19時10分00秒]

元の発言 [ Title「247年」と「607年」(その一) ] お名前 [ hvhy ] 日付 [ 3月19日(火)19時05分45秒 ]

本当かどうか定かでないが、書紀の全体としての紀年に拘らず、
「崇神10年」を「247年」と思うことにする。何が見えるか。

>秋七月の戊申の朔庚戌(3日)に、
>大禮小野臣妹子を大唐に遣す。
>鞍作福利を以て通事とす。

これは知らない者のいない「小野妹子」の遣隋使の話。
「隋」でなく「唐」になっているのは錯誤とされている。
それはともかく、この記事は推古15年(西暦607年)。

>(推古天皇)十六年の夏四月に、小野臣妹子、大唐より至る。
>唐国、妹子臣を號けて蘇因高と曰ふ。即ち大唐の使人裴世清、
>下客十二人、妹子臣に従ひて、筑紫に至る。難波吉士雄成を
>遣して、大唐の客裴世清等を召す。唐の客の為に、更新しき
>館を難波の高麗館の上に造る。

要するに「四道将軍」が派遣されたのが「247年7月」。
戻ってきたのが「248年4月」。一方の「小野臣妹子」が
派遣されたのが360年後に当たる「607年7月」。そして
戻ってきたのが「608年4月」というわけだ。それだけでなく、
「四道将軍」の活躍と同時に、また実は「彦国葺」も活躍している。

***

崇神10年の10月のところに「海外」と出てくるが、
「畿内」に対する言葉だから、これは「畿外」とされる。
しかし「海の外ではない」と断ずる根拠は乏しい。ならば、
「247年」に「彦国葺」(和珥臣の遠祖)が活躍するのと、
「607年」に「小野妹子」(和珥臣の分派)が活躍するのは、
その出来事の性格は異なるものの、氏族伝承として共通性を持つ。

さらに崇神11年4月の「異俗多帰国家安寧也」という記事。
「裴世清」は「使人」だが、その来日に象徴される諸々のこと。
これを「異俗多帰」と表現できないこともない。(立場によって)

★崇神10年(247年)……「倭迹迹姫」が死亡。「箸墓」の造営。

★推古15年(607年)……「厩戸豊聡耳」が死亡したかもしれない??

★天智6年(667)……「天豊財重日足姫」「間人皇女」「大田皇女」を葬る。

「247年」と「607年」は一干支(60年)の倍数年の違い。
その意味で、ここで改めて「667年」に注目すると、この年には、
「天豊財重日足姫」(斉明天皇)と「間人皇女」が合葬され、さらに
「大田皇女」も葬されている。そして遷都。翌年「中大兄皇子」が即位。
これらの大きな出来事(の記述)は、書紀全体の構想のなかで、最初から
意図を持って配置されているのではないか。配置に使った道具は干支だろう。

#「607年」に当たる「推古15年」を境にして、
#ほとんど「聖徳太子」の記事が消えてしまうことは、
#「聖徳太子」を「卑弥呼」に準える意図とも思われる。(男女の違いを度外視して)
#また「天豊財重日足姫」と「間人皇女」と「大田皇女」。
#このうちの誰か、もしくは全員について同じことが言える。


197

「大田田根子」と「大田皇女」

投稿者[ hvhy ] 発言日時 [3月19日(火)19時12分54秒]

元の発言 [ Title「247年」と「607年」(その一) ] お名前 [ hvhy ] 日付 [ 3月19日(火)19時05分45秒 ]

「崇神10年」に「247年」が重ねられ、
また「倭迹迹姫」の死亡記事が書かれている。
これは明らかに倭人伝の「卑弥呼」がモチーフ。

干支倍(60年の倍数)だけ時間が経過した年。即ち、
「607年」(推古15年)に「聖徳太子」が蒸発して、(←比喩です)
「667年」(天智6年)に「斉明天皇」などが葬られる。

以上から、大雑把に言って、(聖徳太子はさておき)
「天豊財重日足姫」「間人皇女」「大田皇女」のうち、
だれか、もしくは全員が「倭迹迹姫」に関連づけられる。
そこでまず「大田皇女」に注目したい。ごくごく一般的に、
「菟野皇女」(後の持統天皇)のライバルだったと言われる。

***

>(前略)大田田根子に問ひて曰ふ、「汝は其れ誰が子ぞ」。對へて曰す、
>「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」。
>亦曰ふ、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」。天皇の曰ふ、(以下略)

これは崇神天皇7年の記事。「(奇日方天日方武)茅渟祇」は
「陶津耳」とも「活玉依媛」とも受け取れる文脈だが、ともかく、
「大田田根子」は母系で見る限り、「茅渟祇」の系統に他ならない。

ところが一方、「大田皇女」の母は「遠智娘」で、
その別名を「茅渟娘」と言う。(天智天皇7年2月)
以下の系譜を眺めれば、パラレルな関係が見て取れる。
「倭迹迹姫」と「大田皇女」が結びつくことに符合する。

★茅渟祇−−活玉依媛−−大田田根子(A)

★遠智娘(茅渟娘)−−大田皇女(B)

崇神天皇の時代と天智天皇の時代は、時代が違うわけだが、
「247年」と「667年」にはいずれも造墓の記事があり、
さらに「天豊財重日足姫」「間人皇女」「大田皇女」の造墓は、
「倭迹迹姫」の造墓に準えられている。そのような準える意図は、
本当に日本書紀に含まれているのだろうか。結論は難しいにしても、
日本書紀に「干支による循環構造」が盛り込まれていることは確かだ。

#今まで述べたのは「247年」「607年」「667年」の例。
#他の「干支による循環構造」の例については、別項とさせて頂く。


198

Re: 伊勢神宮について

投稿者[ hvhy ] 発言日時 [3月19日(火)20時24分39秒]

元の発言 [ 伊勢神宮について ] お名前 [ nonono ] 日付 [ 3月6日(水)05時26分24秒 ]

「十九年七閏法」という暦にまつわる概念があって、
この「十九年」が式年遷宮に関わるとの説もあります。

#つまり、年齢における「かぞえ」と一緒で、
#最初に造った時点から「元年」が始まります。
#まるまる1年たった時点で「二年」になります。
#まるまる19年たった時点が「二十年」なんです。

「二十年遷宮」という名称ですが、もともとは、
実は「19年毎」に行なっていたとかいないとか。
伊勢神宮でない別の神社で、「19年毎」を今でも
やっているところがあったような……うろ覚えです!!


199

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月19日(火)20時36分19秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月17日(日)20時31分33秒 ]

にゃあさん今晩は。はじめまして、で良かったですね?

>> ・・・もとの鏡の大きさはそれでも20cm以上の大型みたいですか゛。
>> もっとも原点は平原の鏡でいいのでは。
#八咫鏡について以前、伊勢神宮の博物館「徴古館」で学芸員の方に質問したのですが、一切教えてくれませんでした。
又、この八咫鏡は天岩戸の故事を引き合いに出すまでもなく、光学的にも優れた鏡であったろうと推察されます。超大型鏡の場合、錫の成分組成から研摩し難い鏡だったと思いますが、仕上げ状態はどんなものだったでしょうか。?
展示会では鏡面の状態は、なかなか見せてもらえない。
柳田康雄著「伊都国を掘る」によれば、大型の破砕鏡の断片が出土しているそうですね。5枚目の超大型鏡などと言っていますね。
更に、研摩の痕跡があって、途中工程で破砕されたとの見解のようですね。このあたり興味深いです。




2

7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月6日(水)00時05分15秒]

天皇という言葉は日本書紀からだといいますが、大和朝廷が万世一系であることにこだわる理由がわかりません。7世紀後半、天武が新しい王朝を開いたのなら、自分が畿内王朝の高祖だと開き直ればいいのに、なぜでしょう。
あるいは、天武が列島以外からやって来た王族であるなら高らかに己の血筋を誇ればいいと思うのです。

王族が血統にこだわるのは万国共通でしょうか。
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読んだとき、劉邦も王族の血統にこだわって、最初は自分の上に楚の懐王を擁立したのが、どうにも理解できません。結局自分が高祖となるなら最初から遠慮せずトップを狙えばよかったのに不思議です。
それでも結局劉邦は自分が高祖となって、周や神話から自由でいたのですよね。

日本書紀は持統天皇が孫に皇位を譲ることを正当化するために書かれたのだと思っていたのですが、舎人親王が編纂したことを考えると、父親の天武天皇を正当化するためでもあったかもしれないと思うようになりました。ちゃんと読んだことがないのでわからないのですが。

何でこんなことを書いているかというと、3世紀の倭人が魏や呉や三韓諸国と交流していたように7世紀も列島を越えた交易があり、姻戚関係もあったと思うのです。
当時、有力豪族は渡来系氏族でいっぱいです。渡来系の人たちが何語をしゃべっていたか知りませんが、本貫には親戚がたくさんいて、当然、人の行き来もあるでしょう。その中に継体や聖徳太子や天智、天武がいて、よほど濃い関係があったのでなければ白村江の戦いの意味が解りません。
それなのに、7世紀の天皇の系図は畿内周辺の身内の間だけでゴチャゴチャしています。そんなことあるのでしょうか。

実は最近、「斉明」小石房子著(作品社)のあと、小林恵子の「白虎と青龍」(文藝春秋)を1/3読んだところで、ついていけなくなり、止まっています。どうにも不思議でなりません。
なんか変な書き込みですいません。最近不思議に思っていることでいした。


20

Title真珠

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月7日(木)00時23分57秒]

倭人伝に、ある真珠を調べてみました。

真珠、玉と並んで和国の特産と去れているものですけど、博物館などでも発掘品が展示されているのを見た事がありません。
本にも、記載が無いため調べる事も難しいのですが、海、わたつみ国である日本の重要な産物である事も確かです。

ネット上に有る情報から調べ始めてみたのですが、縄文の貝塚から出土しているようですね。
高知県宿毛市の宿毛貝塚(後期紀文)からは、9ミリ×7ミリ 重さ 0.55gの真珠が見つかって居るそうです。
考えてみれば、当然の事かもしれません。
穴あけされたものも、縄文時代の貝塚から出ているようです。

真珠貝と言えば、日本では、阿古屋貝とされています。
が、実際には、邪馬四さんが指摘されている通り、あわびからも取れますし、
其れ以外からも取れます。以外なのは、蜆やハマグリなどからも取れると言う事です。

また、発見されている穴明き真珠には、淡水産のものもあるようです。
カラス貝や沼などに住むドブ貝も良質な、真珠が取れるようです。
つまり縄文の昔から、首飾りや腕飾り髪飾りや簪などにもされたのかもしれません。

そして、貝塚から見る通り、貝は、重要な食品でした。
其の中から取れるものであれば、非常に重要視された事でしょう。
其の上、貝は知られる様に、薬代名詞にも使い、其れを意味する女神の話もありますね。
キサガイヒメやウムガイヒメがそうです。
さらに、女性器にたとえられます。

性崇拝があり、御神体や神話にも貝の女神の話などがある。
其処から取れる真珠は、古代の人には、どのように見られ扱われていたのでしょう。
国内あちこちで見る貝塚、であれば、かなりの真珠が、出ていたはず。

http://www.nihongo.com/pearl/pearl.htm

のことぐらいしか見つかれませんでした。
また、古墳などからの、出土例もみつかりません
どのような説や資料が、あるのか、ご存知の方は、教えて戴けないでしょうか。

よろしくお願いします。



200

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月19日(火)20時51分21秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月19日(火)20時36分19秒 ]

>> にゃあさん今晩は。はじめまして、で良かったですね?

ちわっす。

>> #八咫鏡について以前、伊勢神宮の博物館「徴古館」で学芸員の方に質問したのですが、一切教えてくれませんでした。
なんてこった。けち。

>超大型鏡の場合、錫の成分組成から研摩し難い鏡だったと思いますが、仕上げ状態はどんなものだったでしょうか。?

伊勢神宮にいかれたなら、おききしたいことがあります。
伊勢神宮の鏡は白銅鏡ですか?黄銅鏡ですか?
平原の鏡はすべて白銅鏡なんです。もちろんあのマンホール鏡も。




201

Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月19日(火)21時03分31秒]

先月、地図の作成について可能性が無いとの議論でした。
でも、よく考えれば、当時の数学でも出来そうなんですね。

でほほ方は、?
半島から対馬は、見えている。
見える場所から、対馬の直線距離が計れそうな場所を数カ所選ぶ。
選んだ場所計測予定の両端の場所が、日出の方向から何度か計る。
対馬に渡ってから、其の場所に行き、直線距離を測る。
其の後で、其の直線の方向が、日出の方向から何度かを計る。
日の入りの角度でも良いでしょう。

これができれば、縮尺図を書けば、概算の距離は、一発で出る。
少なくとも、コンパスと定規や分度器は、有ったようですから。
かなり精度は、荒いが数キロ単位の誤差で出るんじゃないでしょうか?

児の方法であれば、九州までの方向と距離は、ほぼ計測できるかも。


202

伊都国と奴国

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月19日(火)21時06分07秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月18日(月)22時16分48秒 ]

>>  僕は、たぶんだけど、奴国VS伊都国が倭国大乱の根本のような気がします。

伊都国が鏡のクニだとすれば、奴国は銅剣、銅弋のクニということでしょうかね。
伊都国近辺からは、銅矛・銅弋の出土はあんまり聞かないなあ。
もひとつは、三角縁です。伊都国では初期の三角縁が出てないですね。となりの福岡平野では10面は出てるのに。
これはどういうことなんだろう。


>>  斯馬国は糸島半島のまさに半島部だと思う。じつはここにも、二見ヶ浦があります。

これには気づかなかった。灯台もと暗し、か。

>>  最後の奴国は、日本書紀にも出てきますけど…、まあ内緒。(^o^)

私は玉名市だと思ってますよ。となりは川をはさんで菊地彦の勢力圏。



203

Re: 平原の諸問題

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月19日(火)21時28分27秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月17日(日)22時24分12秒 ]

>> > 後漢晩期の尚方鏡は、方格内の十二個の乳や十二支の文字が完全に退化して紋様化し、紋様の簡略化が進行する。銘文は意味の通じない誤字や省略がふえ、文字にも左字がふえ、三国期になると全文字左文字という現象も少なくない。
>> > また四神や禽獣の図柄も、中期までの細い流麗なものから次第に線の太い簡略化されたものに変わり、さらに陰陽思想のシンボルである規(コンパス)、矩(曲尺・かね尺)の退化現象があらわれる。

なるほど。そうなると後漢以降は傍製鏡も中国鏡も区別はつかない、ことにもなりますね。

>> いずれにしても桜馬場の方格規矩鏡と比較しても、

あれはすごい。佐賀県立博物館に行って実際見てきたのですが、(無料です。いいことだ)文様が大変きれいでした。
あれ以上の方格規矩は日本には無い。

わたしの三角縁北部九州製作地説というのは、三角縁ははやいのでは3世紀後半から奈良以外で副葬されます。とすると3世紀後半以前にあの巻向の地で三角縁は製作されたのか、またそれだけの力があったのか疑問だからです。
3世紀後半以前に巨大鏡を作る技術があった地域は北部九州沿岸部しかない、と思ってるからです。

>>  このように見ていきますと、陳さん顔さんは連れ立って遼東あたりから渡来し、山陰に流れ着いたのではないかいな、と。

山陰東部ですよね?出雲地域は鏡、あの時代は出土していないんですよね。代わって丹波など京都北部とかは最近鏡の発見が相次いでいますね。
京都府は近畿地方の中でも異常に三角縁が多い。あの椿井大塚山が無くても多い。ひょっとしてあの近辺に鏡の製作地があったのかなあ、と思ったりしてます。
柳田氏は「同形鏡が多数出土している地域のそばに製作地はある」との見解です。



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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月19日(火)21時31分47秒]

元の発言 [ Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月19日(火)21時03分31秒 ]

はじめまして。今後ともよろしくお願いします。

>> 先月、地図の作成について可能性が無いとの議論でした。
>> でも、よく考えれば、当時の数学でも出来そうなんですね。

>> でほほ方は、?
>> 半島から対馬は、見えている。
>> 見える場所から、対馬の直線距離が計れそうな場所を数カ所選ぶ。
>> 選んだ場所計測予定の両端の場所が、日出の方向から何度か計る。
>> 対馬に渡ってから、其の場所に行き、直線距離を測る。
>> 其の後で、其の直線の方向が、日出の方向から何度かを計る。
>> 日の入りの角度でも良いでしょう。

>> これができれば、縮尺図を書けば、概算の距離は、一発で出る。
>> 少なくとも、コンパスと定規や分度器は、有ったようですから。
>> かなり精度は、荒いが数キロ単位の誤差で出るんじゃないでしょうか?

>> 児の方法であれば、九州までの方向と距離は、ほぼ計測できるかも。

#計ろう思えば計れるだけの技術はあったと思いますが、まともに計ろうと思わなかったんでしょう。
数字がいかにいいかげんなものか、朝鮮半島の国々の記述を見ればわかろうかと思います。


205

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月19日(火)22時25分25秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月19日(火)21時31分47秒 ]

>> はじめまして。今後ともよろしくお願いします。

いえこちらこそ、よろしくお願いします。

>> >> 先月、地図の作成について可能性が無いとの議論でした。
>> >> でも、よく考えれば、当時の数学でも出来そうなんですね。

>> >> でほほ方は、?
>> >> 半島から対馬は、見えている。
>> >> 見える場所から、対馬の直線距離が計れそうな場所を数カ所選ぶ。
>> >> 選んだ場所計測予定の両端の場所が、日出の方向から何度か計る。
>> >> 対馬に渡ってから、其の場所に行き、直線距離を測る。
>> >> 其の後で、其の直線の方向が、日出の方向から何度かを計る。
>> >> 日の入りの角度でも良いでしょう。

>> >> これができれば、縮尺図を書けば、概算の距離は、一発で出る。
>> >> 少なくとも、コンパスと定規や分度器は、有ったようですから。
>> >> かなり精度は、荒いが数キロ単位の誤差で出るんじゃないでしょうか?

>> >> 児の方法であれば、九州までの方向と距離は、ほぼ計測できるかも。

>> #計ろう思えば計れるだけの技術はあったと思いますが、まともに計ろうと思わなかったんでしょう。
>> 数字がいかにいいかげんなものか、朝鮮半島の国々の記述を見ればわかろうかと思います。

確かに、そうかもしれません。
ですが、軍事が其れを許したでしょうか?
中国は、平地の国ですから距離が、その行動を決める面がありますしね。
蜀あたりでは、そうも行かないかもしれませんが、
中国国内の距離とは、考え方も違ったかも?



206

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月19日(火)22時49分06秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)20時51分21秒 ]

こんばんは、割り込み失礼します。
また今後もよろしくお付き合いください。

>> >> #八咫鏡について以前、伊勢神宮の博物館「徴古館」で学芸員の方に質問したのですが、一切教えてくれませんでした。
>> なんてこった。けち。

>> >超大型鏡の場合、錫の成分組成から研摩し難い鏡だったと思いますが、仕上げ状態はどんなものだったでしょうか。?

>> 伊勢神宮にいかれたなら、おききしたいことがあります。
>> 伊勢神宮の鏡は白銅鏡ですか?黄銅鏡ですか?
>> 平原の鏡はすべて白銅鏡なんです。もちろんあのマンホール鏡も。
無知をいまさらながら思い知らされました。
平原墓を、夏に尋ねた折には、地元の方に同じモノのように聞いていましたので、疑問を持ちませんでした。

ただ、鏡もあの大きさに成ると鋳造は、大変だったのではと思います。
型も大きくなりますし、湯が充分行き渡る様にするには、
流し込む時に巧く空気を抜けるようにしなければ成らない。
実際に、湯口ややんかの痕と思える模様の写真も見せていただいてますし。
かなりの技術ですね。

だとすれば、当然武器その他も良いものが作れるでしょうし。
そして、地元の方から気になることも聞きました。
この鏡は、3面で一組だと言うのです。
其の可能性があると。
心当たりは、無いでしょうか?



207

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月20日(水)06時39分16秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月19日(火)07時24分16秒 ]

 おはようございます。

>>  ただ、三雲南小路、井原鑓溝と伊都国には倭国王と考えてよい墓があります。
>>  卑弥呼が「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とは言え、王に共立されるのですから、どっかの馬の骨ってことはないと思う。王家の血筋と言うか、王家の一族の一人だったんだろうと思います。男王だとおそらくもう一方の雄、奴国との兼ね合いもあってうまくまとまらなかったのでしょう。
>>  卑弥呼没後、男王が立つけれど「国中服せず。更々相誅殺」。
>>  で、十三歳の壱与(あるいは台与)を立てますが、この壱与(あるいは台与)は卑弥呼の宗女、一族の娘なんだと思います。
>>  卑弥呼がどっかの馬の骨だったら、わざわざその一族の娘を再び王に共立することはないんとちゃうかな?と。
>>  だから、卑弥呼は先行する倭国王の血統を引いていると思います。


#宗教と権力の結びつきというのは今の世の中にもあるくらいで、ましてやこんな大昔の世界ではこのつながりはとても強かったことでしょう。
 僕は「シャーマンの持つカリスマ性」さえ備えていれば「馬の骨」でもよかったと思う。
・・・と言うより正真正銘「馬の骨」やったんとちゃうか思うんよ。
 僕には

 1)倭国の大乱
 2)卑弥呼の共立
 3)卑弥呼の統治
 4)卑弥呼の死
 5)混乱
 6)台与共立

というように並べて、そのナガレを見ると
「混乱した国を宗教によって統治しようとした」
と見ることが出来る。これは僕や郭公さんのみでなくて九州説、畿内説に関係なく共通した認識やと思います。
 ここで問題となってくるのは卑弥呼が「馬の骨」やったんか、そうでなかったんか言うことですが、三十もあるクニが攻めたり攻められたりしとる状態で自分とこの同族を引き合いに出して
「今日からこの人を女王としますぅ」と言ったって
「なんや、おまえんとこの一族やんか。そんなんだったら、おまえのクニが一番得するやないかい。」
ということになってまとまるもんもまとまらんくなる。
そう考えると「馬の骨」の方が良いように思う。
自民党がよくやるやろ。そういうの。あれと似たようなもんです。
 「馬の骨」とは言え、三十のクニが治まってしまうほどの人や。相当なカリスマ性を持った人やったんやろ。
 卑弥呼はんの即位で国内は上手く治まった。魏との国交も開けた。狗那国の動きは活発になったけど、これも魏を後ろ盾にしてなんとかクリアできた・・・これで4の"卑弥呼の死"につながっていくんやけど、あまりにも都合よく死んでいると考えるんは僕だけやろか?
魏使に会うために伊都国に来ていた卑弥呼を用済みとして殺してしまったんとちゃうやろか?
 以前、井沢元彦さんが
「この時期大規模な日食が起き、そのため生贄のような形で卑弥呼は殺された。」と言っておったけど、仮にそうだったとしてもそれは言い訳でしかないと思う。日食が起きたところで時間がたてば元に戻るわけで、うまくいけばカリスマ性の補強にもなる。だからこれをもって
殺されたとは考えにくい。むしろ用済みになったか、うっとうしくなったか、もしくは両方かで卑弥呼は殺されたと僕は考えとる。
(僕にはどうも伊都国の国王一派が鎌倉時代の北条氏とダブって見えるんやけど、僕の考えすぎやろか?)
 根拠は(5)の混乱や。このとき男王が立ったんやけどそれが元で「再び乱」になった。これは宗教から政治を離そうとした結果ではなかったかと思うんです。
桓武天皇はそれを目指した。でもそれをやるには平城京にいては具合が悪かった。ご存知の通り平城京は宗教の勢力が強すぎた。だから今の京都に遷都して、まぁ、うまくいったわけやけど。これと似たようなことをしようとして、こっちは失敗したと思う。だからあわてて
(6)の台与を共立したわけや。

時間が来てしもうた。次回は台与の共立と卑弥呼の墓について書きたいと思います。
 



208

Re: 伊都国と奴国

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月20日(水)09時31分11秒]

元の発言 [ 伊都国と奴国 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)21時06分07秒 ]

>> もひとつは、三角縁です。伊都国では初期の三角縁が出てないですね。となりの福岡平野では10面は出てるのに。
>> これはどういうことなんだろう。

奴国と伊都国では庄内式土器の流入でも違いがあるようですね。
奴国のほうが早く、新旧集落の推移も奴国が先んじるようですね。
伊都国は比較的後まで独自性を残していたのでは?


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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月20日(水)09時39分10秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月19日(火)22時25分25秒 ]

>> >> #計ろう思えば計れるだけの技術はあったと思いますが、まともに計ろうと思わなかったんでしょう。
>> >> 数字がいかにいいかげんなものか、朝鮮半島の国々の記述を見ればわかろうかと思います。

>> 確かに、そうかもしれません。
>> ですが、軍事が其れを許したでしょうか?

軍事が其れを許したのでは無いでしょうか。
測量による正確な方位と距離を用いた地図の出現は、射程の長い大砲と、それを積んだ軍船の出現に関係するようです。
日本でも伊能忠敬の地図の出現は、外国艦船の出現と関係するようです。
伊能忠敬の測量は、距離の測定は基本は歩測で、計算には和算を用いたようです。
それ以前にそのような地図が現われてこないのは、それを行う技術があっても、労力をかけてやる意味が無かったのだと思います。
弓鉄砲の射程であれば、人間の空間感覚の範囲内で充分ですし、軍隊の移動も幾何学的な正確さなどそれほど意味は無く、道のりが重要だったのでは?


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Re: 日本書紀

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月7日(木)00時32分19秒]

元の発言 [ 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月6日(水)00時05分15秒 ]

 くみさん、こんばんは。

>> 天皇という言葉は日本書紀からだといいますが、大和朝廷が万世一系であることにこだわる理由がわかりません。7世紀後半、天武が新しい王朝を開いたのなら、自分が畿内王朝の高祖だと開き直ればいいのに、なぜでしょう。
>> あるいは、天武が列島以外からやって来た王族であるなら高らかに己の血筋を誇ればいいと思うのです。

 隋に対して倭国の王は「阿毎」という姓を名乗っていました。それ以前、宋
に対して倭の五王は「倭」を名乗っていました。天武にも姓があったはずです。
 仮に天武が近江朝を倒したとして、その簒奪を正当化するなら、「易姓革命」
の形式をとる方法もあったでしょう。天命によって革命を起こし、「なんとか
の高祖」になる、それが中国の流儀ですね。
 しかし、それでは今度は誰かに「易姓革命」を起こされ、取って代わられる
ことになりますね。
 それを予防する為に、天皇は天孫降臨以来、一貫して大和の王であり、これ
からも大和の王である、と主張したのではありませんか。
 中国では古くから史書がありましたから、こういう主張はできなかったと思
いますが、日本では、(一応、書紀以前の史書の存在は疑わしいことになって
いますから)、こういう主張もし易かったのではないでしょうか。
 それで大王は姓を捨て、天皇になったのではないでしょうか。
 これは単なる推測です。

>> 日本書紀は持統天皇が孫に皇位を譲ることを正当化するために書かれたのだと思っていたのですが、舎人親王が編纂したことを考えると、父親の天武天皇を正当化するためでもあったかもしれないと思うようになりました。ちゃんと読んだことがないのでわからないのですが。

 日本書紀は客観的な史書ではなく、奈良朝の正統性の宣言書でもあります。
 日本書紀の成り立ちそのものの解明が先ず必要でしょうね。
 天武十年の国史撰録記事。
 和銅七年の国史撰録記事。
 養老四年の日本紀完成記事。
 書紀は段階的に書かれていったと考えられますが、その編纂主体、編纂過程
がまだ明らかになっていません。

 日本書紀の編纂に関しては、森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書)が
面白いですよ。氏は結語で、
 「『日本書紀』成立の謎は、本書によって解明された」
 「真実はいつも簡単だ」と、記しておられます。また、あとがきで、
 「私はこの本を書くために生まれてきた。書き終えての余韻でしょうが、そ
んな感じがします」と、記しておられます。

 私は、まだ解明には至っていない、と思います。また、真実はいつも簡単だ
が、それ見いだすのは困難である、と思います。
 しかし、森氏の研究は日本書紀に関して、一大画期をなす業績でしょう。
「この本を書くため」だけでなく、万葉集の謎も解いて欲しいものであります。

 また大山誠一『聖徳太子の誕生』も面白いですよ。
 書紀編纂の最終段階に、道慈が聖徳太子記事を述作した、つまり聖徳太子は
虚構であるとする説です。
 森博達氏は大山説を批判しています。推古紀は文法的にでたらめな漢文であ
る、唐に16年間も留学していた道慈がこんな文を書くはずはない、とされる
のですが、決定的な論拠になりませんね。
 日本書紀には仏典に典拠を持つ部分が多くあり、その部分は道慈がこれこれ
の仏典を参照して書いたのである、とする先行研究は広く認められています。
 道慈が書紀編纂グループの一員であったことに間違いはないでしょうね。
 森史の研究、大山氏の研究、共に受け継ぐべきだと思いますね。

>> 実は最近、「斉明」小石房子著(作品社)のあと、小林恵子の「白虎と青龍」(文藝春秋)を1/3読んだところで、ついていけなくなり、止まっています。どうにも不思議でなりません。

 私も小林惠子氏の説は大いに参考にしています。賛同できませんが・・。
 例えば、天武の前身は、高句麗の淵蓋蘇文である、とされますね。受け容れ
難いのですが、天武と淵蓋蘇文に、似ている要素も確かにありますね。

 天武と漢の高祖の間にも似ている部分があります。
 通説では、天武が自らを漢の高祖に擬したのである、とするのですが、疑問
ですね。
 現実の歴史は都合良く運ぶものではありません。いくら「俺は日本のビル・
ゲイツになるんだ」と言っても注文通りには行きません。

 天武紀を書く際に、編者が、淵蓋蘇文と漢の高祖のエピソードを利用したと
考えるのが自然ではないでしょうか。
 すると淵蓋蘇文と漢の高祖のエピソードを捨象した部分が天武の実像である、
ということにもなり得ますね。
 
 また、小林氏は新羅の文武王が倭国に亡命し、文武天皇になったと主張され
ています。到底賛同できる説ではありません。
 しかし、網干善教氏が指摘されているのですが、文武王は異例の火葬に附さ
れています。文武天皇も火葬であり、これも異例です。
 しかも、文武王の死の翌年に文武天皇が生まれたとされています。
 火葬された後に亡命はできませんから小林説は成り立たないと思うのですが、
両者には何らかの関連がありそうですね。
 どうも飛鳥藤原京の時代を日本書紀は正確に記述していないようですね。
 百済や新羅との関係を再検討しなければならないと思います。
 そういう意味で、小林惠子氏の著作は大いに参考になります。




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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月20日(水)12時37分37秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月20日(水)09時39分10秒 ]

>> >> >> #計ろう思えば計れるだけの技術はあったと思いますが、まともに計ろうと思わなかったんでしょう。
>> >> >> 数字がいかにいいかげんなものか、朝鮮半島の国々の記述を見ればわかろうかと思います。

>> >> 確かに、そうかもしれません。
>> >> ですが、軍事が其れを許したでしょうか?

>> 軍事が其れを許したのでは無いでしょうか。
>> 測量による正確な方位と距離を用いた地図の出現は、射程の長い大砲と、それを積んだ軍船の出現に関係するようです。
>> 日本でも伊能忠敬の地図の出現は、外国艦船の出現と関係するようです。
>> 伊能忠敬の測量は、距離の測定は基本は歩測で、計算には和算を用いたようです。
>> それ以前にそのような地図が現われてこないのは、それを行う技術があっても、労力をかけてやる意味が無かったのだと思います。
>> 弓鉄砲の射程であれば、人間の空間感覚の範囲内で充分ですし、軍隊の移動も幾何学的な正確さなどそれほど意味は無く、道のりが重要だったのでは?

なるほど。
ただ、気になる点は有りますね。
江戸時代、幕府には、地図の作成を行う専門部署が有って常に誰かが、実測に歩いていたそうです。

幕末の幕府官僚他は、完全におかしくなっていますが、
元禄辺りまでは、情報収集他に恐ろしいほどの手腕を見せていたようです。
こんな、話を聞きました。
幕府は、マニラに有るスペインの要塞や其の周囲の正確な図面と其の守備の情報を持っていたようなのです。
オランダの使節に其れを見せる事で、力を誇示した気配があります。
オランダの使節は、驚いて情報の提供を求めていますが、
暗に、オランダの情報も完全に収集しているとの示唆までして断ったと聞いています。

戦国を生抜き其の遺風を持つ国であるなら、それだけ詳しい情報を集めていると言う事でしょう。
では、戦国の真っ最中であり、覇権国の当時の魏には、あてはまらないのでしょうか?
其れとも、史書の記録だからなのでしょうか?


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Re: 道里を計る

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月20日(水)13時48分45秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月19日(火)12時58分43秒 ]


>>  理論とそれを現実化できるだけの技術的裏づけがあるかどうかは別問題でしょう。

「禹貢地域圖十八篇」に現実化され、「藏於祕府」されています。


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Re: 会稽東冶の改訂は、間違い

投稿者[ 紀 智明 ] 発言日時 [3月20日(水)15時13分34秒]

元の発言 [ (承前)会稽東治(東冶と改訂しても同じ)の東:「計其道里」 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月12日(火)19時28分28秒 ]

 まず、「会稽東冶」とすると、これは、会稽郡東冶県であることに異論はないでしょう。
 ところで、この東冶県とは、どのように変遷したかを、以下に記す。
  * 1〜2世紀なかば(260年)まで、会稽郡
  * 260年(永安3年)に、会稽郡の南側が、建安郡に分割された
      → 呉志三
  * 5世紀になり、建安郡は廃止され、また会稽郡となった
 また、『其の道里を計るに…』は、地の分であるため、陳寿の執筆時点の晋代である。
 ということは、東冶県を表すには、建安郡東冶県でなければならない。
 それなのに、会稽東治と記したのは、建安郡が分割され残った北側の会稽郡を示していることになる。
 したがって、陳寿は、東冶県のことなどまったく念頭にはなかったことになる。
 
 結局、『東冶』と改訂することは誤りである。




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Re: 道里を計る

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月20日(水)18時30分34秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 3月20日(水)13時48分45秒 ]


>> 「禹貢地域圖十八篇」に現実化され、「藏於祕府」されています。

ですから、そこにおいて理論がどの程度まで実現されたからは別の問題だろうと思います。




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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月20日(水)18時56分04秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)20時51分21秒 ]

こんばんは。

>> 伊勢神宮にいかれたなら、おききしたいことがあります。
>> 伊勢神宮の鏡は白銅鏡ですか?黄銅鏡ですか?
#無理を言われても困ります。こればっかりは見てみないとわかりません。
白銅、黄銅の違いは、大雑把に言って錫の含有量により ます。平原の大型鏡は30%近い錫を含んでいますから、白銅でしょうね。

八咫鏡については、もう一つ伝承があります。
奈良、田原本町の「鏡作坐天照御魂神社」(通称「鏡作神社」)の由来によれば、
崇神天皇のころ、皇居にお祀りしていた八咫鏡を畏れ多いとして、別の場所にお祀りした。(伊勢神宮の起源)
そして、崇神天皇6年9月3日にあたらしく神鏡を鋳造して宮中にお祀りした。そして、この時、鋳造した鏡の一枚をこの神社にもお祀りした。と言うものです。

で、この神社の神宝は「三角縁二神二獣鏡」なんです。伊勢にお祀りした八咫鏡はどんな鏡かは書かれていませんが、三角縁系統だった可能性はどうなのでしょうか?。



215

Re: 道里を計る

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [3月20日(水)19時54分12秒]

元の発言 [ Re: 道里を計る ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月20日(水)18時30分34秒 ]


>> ですから、そこにおいて理論がどの程度まで実現されたからは別の問題だろうと思います。

その「理論」は、禹貢地域圖十八篇の奏上書の「序」で述べられています。

#確かに「理論がどの程度まで実現されたか」は、現物が遺されていないので知るよしもないのですが、、、


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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月20日(水)20時03分10秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月20日(水)18時56分04秒 ]

こんばんは

>> 崇神天皇のころ、皇居にお祀りしていた八咫鏡を畏れ多いとして、別の場所にお祀りした。(伊勢神宮の起源)

そんなコピーなんかしたら、もっと畏れ多いんじゃ
ないですか?


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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月20日(水)21時08分22秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月20日(水)09時39分10秒 ]

>伊能忠敬の地図・・・
当初は確かに歩測でしたが後には縄を使ったようですね。
縄は太閤検地でも使用されました。
縄を持って海岸を歩き、歩けない所は船で縄を運んで距離を出した。
星の観測で緯度を測り、三角測量で正確な距離をだし、外国から驚かれるような地図を作り上げた。

東北地方の経度が若干西に寄っているだけだったとか。

三世紀において伊能忠敬の地図ほど正確な地図を持っていたなどとは誰も思いませんがそこそこの地図があっても不思議は無いでしょう。

>> それ以前にそのような地図が現われてこないのは、それを行う技術があっても、労力をかけてやる意味が無かったのだと思います。

少なくとも韓半島西岸、南岸をフラクタルに航行しその距離を測るなんて馬鹿なことはしなかったでしょう。

>> 弓鉄砲の射程であれば、人間の空間感覚の範囲内で充分ですし、軍隊の移動も幾何学的な正確さなどそれほど意味は無く、道のりが重要だったのでは?

自分の領土領域ぐらい判らなくちゃ国としてなってない。さもなければ租税徴収も出来ない。

孫引きですが
『漢書』に県はおよそ方百里であり、県(道・国・邑)の数は千五百八十七(百官公卿表七上)。とあるそうです。
おおよそでも
直線距離、面積位は判っていた筈だと思うのですが、どうして判っていなかったと思われるのでしょう。


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Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月20日(水)21時23分48秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月20日(水)20時03分10秒 ]

今晩は。

>> そんなコピーなんかしたら、もっと畏れ多いんじゃ
>> ないですか?
#仰る通りです。私もそのように考えています。
伊勢に祀った鏡と違う系統だったと考えた方が良さそうですね。
先の伝承は、鏡作神社の由来書きに記載されているものです。社殿左手奥にある宮司の原さんのお宅に伺って頂戴してきました。
R24を年に1,2度行ったり来たりするので、時々参拝します。


219

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月20日(水)22時08分37秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月20日(水)21時23分48秒 ]

>> 今晩は。

>> >> そんなコピーなんかしたら、もっと畏れ多いんじゃ
>> >> ないですか?
>> #仰る通りです。私もそのように考えています。
>> 伊勢に祀った鏡と違う系統だったと考えた方が良さそうですね。
>> 先の伝承は、鏡作神社の由来書きに記載されているものです。社殿左手奥にある宮司の原さんのお宅に伺って頂戴してきました。
>> R24を年に1,2度行ったり来たりするので、時々参拝します。

よく思い出してください。
伊勢神宮は、式年遷宮の時には、全ての神宝他を新しく作りなおすのが、慣わしどと言う事です。
つまり、別の品物でも、其れを身体と認めて魂入れすれば、其れが本物になるのですから。

草薙の剣の例などご存知ですよね。
有る意味これが神道と言うものなのでしょう。



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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月7日(木)02時04分56秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月6日(水)18時01分20秒 ]

こんばんわ、ちょっとお聞きしたいのですが

>朝鮮通信使は瀬戸内海航路でさえ、兵庫県室津から>堺までの間は寄港できる場所がないので危険だと脅>かされているぐらいです。

この室津はどこの室津でしょうか?
揖保郡なのか津名郡なのか。
揖保郡ならば途中に明石などもあり寄港できない
ということは考えにくいです。
津名郡ならば、淡路島なので、確かに堺へ直接
渡るには、渦潮もありますので、約50kmを
渡るということで危険だとは思われます。
しかし、それならばまず明石に渡って沿岸航法で
いいと思うのですが。
それとも明石あたりが危険なのでしょうか?


220

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月20日(水)22時21分13秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月20日(水)21時08分22秒 ]

>> >伊能忠敬の地図・・・
>> 当初は確かに歩測でしたが後には縄を使ったようですね。
>> 縄は太閤検地でも使用されました。
>> 縄を持って海岸を歩き、歩けない所は船で縄を運んで距離を出した。
>> 星の観測で緯度を測り、三角測量で正確な距離をだし、外国から驚かれるような地図を作り上げた。

>> 東北地方の経度が若干西に寄っているだけだったとか。

>> 三世紀において伊能忠敬の地図ほど正確な地図を持っていたなどとは誰も思いませんがそこそこの地図があっても不思議は無いでしょう。

>> >> それ以前にそのような地図が現われてこないのは、それを行う技術があっても、労力をかけてやる意味が無かったのだと思います。

>> 少なくとも韓半島西岸、南岸をフラクタルに航行しその距離を測るなんて馬鹿なことはしなかったでしょう。

>> >> 弓鉄砲の射程であれば、人間の空間感覚の範囲内で充分ですし、軍隊の移動も幾何学的な正確さなどそれほど意味は無く、道のりが重要だったのでは?

>> 自分の領土領域ぐらい判らなくちゃ国としてなってない。さもなければ租税徴収も出来ない。

>> 孫引きですが
>> 『漢書』に県はおよそ方百里であり、県(道・国・邑)の数は千五百八十七(百官公卿表七上)。とあるそうです。
>> おおよそでも
>> 直線距離、面積位は判っていた筈だと思うのですが、どうして判っていなかったと思われるのでしょう。

牛頭さんこんばんは、
確かに、面積がはっきりして無いと徴税できませんよね。
つまり、其れだけの測量術と耕地の地図があったはずですよね。

そうでないなら、国の財政なんて言っていられないし。
洪水などでの耕地の再建とかできませんね。


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↑にゃあさんすいません。其れと管理人さんへ

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月20日(水)22時31分20秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月20日(水)22時21分13秒 ]


にゃあさん、こんばんは。

如何言うわけか、下の欄に書きこんだのににゃあさんの書きこみに化けちゃってます。

以前、私も同じようになったことがあるんですが、
何があったんでしょうか。

住みませんが、もう一度書きなおしてください。

其れと管理人さん、上に書いたように以前私も記入が、他の方のものになったことがありますが、
記入側で、何か原因があるのでしょうか?
こちらで出きる事であれば、対策しますので、教えてください。



222

卑弥呼の死

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月20日(水)22時36分47秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月20日(水)06時39分16秒 ]

「卑弥呼、年すでに長大なり」「卑弥呼、既に死す」の記事からは自然死が妥当かと思ってるんですが。
3世紀の倭には少女を女王する風習があったのではないのでしょうか。



223

Re: 平原の諸問題

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月20日(水)22時58分09秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)21時28分27秒 ]

 こんばんは。
>桜馬場の方格規矩鏡
>あれはすごい。佐賀県立博物館に行って実際見てきたのですが、(無料です。いいことだ)文様が大変きれいでした。
>あれ以上の方格規矩は日本には無い。

 うらやましいです。ぜひ僕も見てみたいです。
 井原鑓溝の鏡と同時期ではないかしら。この井原鑓溝のも散逸してしまってるみたいですね。とても残念です。

 僕はずっと大和天神山の内行花文鏡、方格規矩鏡は平原と同時期のものだと思っていましたが、どうやらこれも井原鑓溝と同時期じゃないかって話を聞いたことがあります。
 銘文にある「四海」の四が、二が縦にふたつ重なってます。桜馬場のもそうですよね。
 平原のにも3枚ほどそれがありますが、他のは「四」になっています。

>わたしの三角縁北部九州製作地説というのは、三角縁ははやいのでは3世紀後半から奈良以外で副葬されます。とすると3世紀後半以前にあの巻向の地で三角縁は製作されたのか、またそれだけの力があったのか疑問だからです。
>3世紀後半以前に巨大鏡を作る技術があった地域は北部九州沿岸部しかない、と思ってるからです。

 ここ興味あります。もうすこし具体的に書いていただくとありがたいです。
 ただし、ずいぶん難しい問題だと思いますよ。
 たとえば、出雲の加茂神原神社古墳に「景初三年」銘の陳さんが作った三角縁神獣鏡が副葬されていますが、どうやらこの古墳もそれほど古くないらしいのです。四世紀らしい。
青龍三年銘の方格規矩鏡を副葬した太田南5号墳も四世紀らしいです。もっともこれらが踏み返し鏡ならばの話ですけど、原鏡が副葬されたもっと古い墓があってもよさそうにも思っています。

 一方、纏向の初期古墳群の中でも、ホケノ山がだいたい三世紀半ばあたりのようです。ここからは三角縁神獣鏡は出ていません。纏向にあっては布留0式以降の古墳から三角縁神獣鏡が出ます。箸墓が布留0期とされていますので、三世紀後半以降の造営でしょう。
 
 そうしますと、年号の入った最古の三角縁神獣鏡は景初三年(239年)ですから、それから大和で三角縁神獣鏡が副葬されるまで10年から20年前後の時間差があります。
 その間、渡来した三角縁神獣鏡の作鏡師はどのような経路で大和に入ったのだろうか?
 纏向の西に鏡作神社が数社ありますので、大和に入ったのは間違いないと思います。
 僕は、山陰から福知山、西脇、播磨の山間を経たルートがひとつ、若狭から琵琶湖を経て大阪、奈良のルート、琵琶湖から関ケ原を越えて濃尾平野のルートなどが考えられると思いますが、もちろん、北部九州への渡来もあったかもしれません。

>京都府は近畿地方の中でも異常に三角縁が多い。あの椿井大塚山が無くても多い。ひょっとしてあの近辺に鏡の製作地があったのかなあ、と思ったりしてます。

 主に、向日市、長岡京市、城陽市、八幡市から出ていますね。それぞれがわりと近いですね。


224

白銅鏡と黄銅鏡

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月20日(水)22時59分36秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月19日(火)22時49分06秒 ]

白銅鏡には錫を30%ほど入れてるらしい。そして白銅鏡は黄銅鏡より硬くなるそうです。磨く際の研磨が大変だったでしょう。このため鋳型を取る際には鉛を5%ほど入れてたみたいです。これで合金をやわらかくしていたのですね。
どうも、三角縁の鉛同位体の問題も、鉛は中国華北産、ということで解決できそうです。
この時代、錫を白錫、鉛を黒錫といってたみたいです。

わたしが白銅鏡と黄銅鏡にこだわっているのは中国製はすべて白銅鏡だからなんです。記紀にでてくるのも白銅鏡。そして平原も国産の可能性が高いとはいえ白銅鏡。白い色を発する鏡は小金色の鏡よりも上にあったのでしょう。

ちなみに銅鐸で白銅製、というのはあるのでしょうか?こちらでは銅矛・銅弋は黄銅ですが、まれに白銅製のが何本かあります。
気になるなあ。


225

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月20日(水)23時16分22秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月19日(火)07時24分16秒 ]

こむばんは。

>> 魏志倭人伝を見る限りでは奴国と伊都国の国力にかなり差があります。伊都国千余戸、奴国二万余戸。「魏略」には伊都国は「戸万余」とあるそうやから
>> 万余戸あったとしても奴国のほうが倍ある。

 魏志倭人伝は、なぜ千余戸と書き換えたんでしょうね?
 単なる誤記ではないと思う。ひとめ見て、やっぱり先余戸が妥当かな?と。
 一方の奴国の戸数はいったいどうやって数えたのかってところですね。

>>  僕には戦争以前に伊都国王が奴国王を札ビラでしばき倒しとる構図のほうがぴったりくるんやけど・・・
>>  この辺はどういった見解をお持ちでしょうか?

 「銅剣、銅矛はもう古い。これからは舶来の鏡や〜」ってところでしょうか。じじつ、小型の倣製鏡の鋳型関連の石製品も出ています。伊都国からと津屋崎からと郡までボートレスをやって伊都国が勝ったなんてどうです?
 制海権を伊都国が押さえたんだろうと思います。 

>>  九州を例にとって言えば・・・郭公さんゆかりの熊本

どきっ…。
なんで知ってますの? (^^ゞ

 続編まだまだ楽しめそうです。


226

Re: 白銅鏡と黄銅鏡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月20日(水)23時20分43秒]

元の発言 [ 白銅鏡と黄銅鏡 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月20日(水)22時59分36秒 ]

>> 白銅鏡には錫を30%ほど入れてるらしい。そして白銅鏡は黄銅鏡より硬くなるそうです。磨く際の研磨が大変だったでしょう。このため鋳型を取る際には鉛を5%ほど入れてたみたいです。これで合金をやわらかくしていたのですね。
>> どうも、三角縁の鉛同位体の問題も、鉛は中国華北産、ということで解決できそうです。
>> この時代、錫を白錫、鉛を黒錫といってたみたいです。

>> わたしが白銅鏡と黄銅鏡にこだわっているのは中国製はすべて白銅鏡だからなんです。記紀にでてくるのも白銅鏡。そして平原も国産の可能性が高いとはいえ白銅鏡。白い色を発する鏡は小金色の鏡よりも上にあったのでしょう。

>> ちなみに銅鐸で白銅製、というのはあるのでしょうか?こちらでは銅矛・銅弋は黄銅ですが、まれに白銅製のが何本かあります。
>> 気になるなあ。

どうもありがとうございます。
銅鐸、については、以前調べたんですが、翼覚えてないので再度、調べてみます。
銅鐸は、屑銅のリサイクルだと言うことでしたね。
と言う事は、黄銅に近いもの白銅に近いものと色々ありそうですね。
勿論、鋳造する人によりけりでしょうが。

それで、思い出したんですが、
別伝で、ヤタの鏡は、3枚作られたと書きましたが、
有る小説で読んだ話ですが、他の二枚は、
飛騨の神社の御神体がそうだと書いてありましたね。

一枚は鋭すぎたもう一つは、如何だったか覚えてないんですが、
ふさわしくないので選ばれなかったと言うんですが。


227

Re: 伊都国と奴国

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月20日(水)23時24分31秒]

元の発言 [ 伊都国と奴国 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)21時06分07秒 ]

こんばんは。
>> もひとつは、三角縁です。伊都国では初期の三角縁が出てないですね。となりの福岡平野では10面は出てるのに。
>> これはどういうことなんだろう。

 そう言えば宇佐の赤塚古墳からもまとまって出てますね。
 同型関係はいろいろあるようですが、これが本当に大和から配布されたのだとしたら、まあ伊都国は干されちゃったのかもしれませんし、最後まで抵抗したのかもしれませんし。
 
最後の奴国
>> 私は玉名市だと思ってますよ。となりは川をはさんで菊地彦の勢力圏。

 わたくしもそう思います。玉名から長洲にかけての地域かな、と。


228

Re: 卑弥呼の死

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月20日(水)23時28分02秒]

元の発言 [ 卑弥呼の死 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月20日(水)22時36分47秒 ]

>> 「卑弥呼、年すでに長大なり」「卑弥呼、既に死す」の記事からは自然死が妥当かと思ってるんですが。
>> 3世紀の倭には少女を女王する風習があったのではないのでしょうか。

「逆説の日本史」を思い出しちゃいますね。
ヒミコは殺されたと言う説。
でもシャーマンを殺すって結構ある風習だったて聞いてたんでうなずけたのですが。
色々言われろ本ですけど、結構鋭いなってとこも有るんで面白い本です。



229

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月20日(水)23時34分25秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月20日(水)06時39分16秒 ]

>> 三十もあるクニが攻めたり攻められたりしとる状態で自分とこの同族を引き合いに出して
>> 「今日からこの人を女王としますぅ」と言ったって
>> 「なんや、おまえんとこの一族やんか。そんなんだったら、おまえのクニが一番得するやないかい。」
>> ということになってまとまるもんもまとまらんくなる。
>> そう考えると「馬の骨」の方が良いように思う。

 なるほど、これは一理ありますね。

 ただ、三雲南小路には1号棺と2号棺があり、2号棺の被葬者は女性らしい。鏡は赤く塗ってあって、祭祀を分担していたのかもしれません。
 だから卑弥呼も言ってみれば王家の血筋を引いていて祭祀を分担していたのかもしれんなあ…、と。


23

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月7日(木)05時42分41秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月6日(水)21時57分58秒 ]

にゃあさん、こんにちは。

>> むしろそういう状況下だったので、よけいに万世一系統にこだわったのではないのでしょうか。

そうか、そうですね。わからないながら、前の王朝を叩きつぶしたのではなくて、吸収合併したような雰囲気もありますね。倭の権力がそういう形で続いたから、古い建造物が残っているのかもしれないですね。

>> 編纂したのは舎人親王らですが、かれらは歴史家として見てよいのではないのでしょうか。
>> 日本書紀には「またある書には、」や注釈とかがたびたびでてきますし。歴史家でないとそんなことできない。

はい。それに、天智と天武が兄弟でないと思うなら、舎人親王が天武の皇子である必要もありませんでした。

>> 最近の考古学の成果は記紀と一致することがおおく、わたしはもっと重視とていいものと思ってます。

日本書紀が皇系の正当性だけを目的として書かれたのなら、そうですね。注釈が多すぎるし物語が細かすぎます。複雑な権力のバランスもとっていたのかもしれないですね。
万葉集がこの頃の人の歌だと思うと、風流でのんびりした雰囲気で、身内で殺し合っていたとは思えません。万葉集を先入観をもってみているのかもしれないです。ほんとにわかりません。


230

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月20日(水)23時39分03秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月20日(水)21時08分22秒 ]


>> 三世紀において伊能忠敬の地図ほど正確な地図を持っていたなどとは誰も思いませんがそこそこの地図があっても不思議は無いでしょう。

そこそこというのはどういう意味でしょう。
どんな実例が残っていますか。

>> >> それ以前にそのような地図が現われてこないのは、それを行う技術があっても、労力をかけてやる意味が無かったのだと思います。

>> >> 弓鉄砲の射程であれば、人間の空間感覚の範囲内で充分ですし、軍隊の移動も幾何学的な正確さなどそれほど意味は無く、道のりが重要だったのでは?

>> 自分の領土領域ぐらい判らなくちゃ国としてなってない。さもなければ租税徴収も出来ない。

>> おおよそでも
>> 直線距離、面積位は判っていた筈だと思うのですが、どうして判っていなかったと思われるのでしょう。

なにを根拠に分かっていたと思われるのでしょう。
太閤検地でも租税徴収のための測量は行われましたが、幾何学的に正確な地図は作られませんでした。
つまり長射程の兵器が大量に使用されるまでそんなものは不要だったのでしょう。
現にそんな地図は残っていない上に古い時代の広域の地理観がしばしば無茶苦茶なことがそれを証明しています。
ようするにどういう風に行くのか、どれだけかかるかだけが関心だったのでしょう。


231

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月20日(水)23時45分35秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月20日(水)12時37分37秒 ]


>> 戦国を生抜き其の遺風を持つ国であるなら、それだけ詳しい情報を集めていると言う事でしょう。
>> では、戦国の真っ最中であり、覇権国の当時の魏には、あてはまらないのでしょうか?
>> 其れとも、史書の記録だからなのでしょうか?

魏は大砲を持っていませんでしたから、そんな地図は不要でしょう。
部分的に測量を行なう技術はあったでしょうし、また都城の建設、耕地の測量、建築物などでは当然行ったでしょう。
しかし広域にわたって測量を繰り返し、つなぎ合わせて幾何学的に正確な地図を作成する様な無駄なことは行わなかったでしょう。
労力の割になにも得る所がないからです。


232

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月21日(木)00時43分27秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)20時51分21秒 ]

>> 伊勢神宮の鏡は白銅鏡ですか?黄銅鏡ですか?

一面者。八百万神等以石凝姥神奉鑄寶鏡。是則崇伊勢太神宮也。
(一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。中臺圓形座也。圓外日天八座。)

これは内行花文鏡のことを言っているように見うけられ、さらに八葉とありますので、内行花文鏡の鈕の周りは通常四葉です。
八葉のは平原のあの46.5cmの鏡しかないのです。

白銅か青銅かはわかりません。

もうひとつ証言がありますが、それは僕の口からは言えませんです。


234

Re: ↑にゃあさんすいません。其れと管理人さんへ

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月21日(木)02時09分04秒]

元の発言 [ ↑にゃあさんすいません。其れと管理人さんへ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月20日(水)22時31分20秒 ]

投稿のバッティングで、ファイル名採番カウンタがインクリメントされないうちに次の処理が始まってしまうバグがあるようです。目下のところ回避手段は判然としません。

申し訳ありませんが、投稿原稿はエディタなどで作り、オリジナルを再投稿してください。


235

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月21日(木)02時22分48秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月20日(水)22時08分37秒 ]

>> 伊勢神宮は、式年遷宮の時には、全ての神宝他を新しく作りなおすのが、慣わしどと言う事です。

全ての神宝ですか?
鏡を20年ごとに作りなおすのでしょうか?

御神体は違うと思いますが、、

無くなったものとは別だと思います。




236

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [3月21日(木)02時26分18秒]

元の発言 [ Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月19日(火)21時03分31秒 ]

ご意見に対する私見を申し述べます。

>> 先月、地図の作成について可能性が無いとの議論でした。
>> でも、よく考えれば、当時の数学でも出来そうなんですね。

可能です。

>> でほほ方は、?
>> 半島から対馬は、見えている。
>> 見える場所から、対馬の直線距離が計れそうな場所を数カ所選ぶ。

これも問題ないでしょう。方法論は正しい。

>> 選んだ場所計測予定の両端の場所が、日出の方向から何度か計る。

ここは納得できません。同時刻に測定する方法論に具体性がありません。日の出の方向は測定日により一定ではなく、複数人で事前に測定日測定時刻を決めることができたのかに疑問があります。同時に測定の機器、道具が同一規格であることが前提となるはずです。

>> 対馬に渡ってから、其の場所に行き、直線距離を測る。
>> 其の後で、其の直線の方向が、日出の方向から何度かを計る。
>> 日の入りの角度でも良いでしょう。

上述と同様の理由で、この部分も承諾できません。

>> これができれば、縮尺図を書けば、概算の距離は、一発で出る。

「これができれば」と言う前提ならできるでしょう。



237

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月21日(木)08時35分20秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 3月21日(木)02時26分18秒 ]

豊玉さん
おはようございます。

>> ご意見に対する私見を申し述べます。

如何も、ご意見ありがとうございます。

>> >> 先月、地図の作成について可能性が無いとの議論でした。
>> >> でも、よく考えれば、当時の数学でも出来そうなんですね。

>> 可能です。

>> >> でほほ方は、?
>> >> 半島から対馬は、見えている。
>> >> 見える場所から、対馬の直線距離が計れそうな場所を数カ所選ぶ。

>> これも問題ないでしょう。方法論は正しい。

>> >> 選んだ場所計測予定の両端の場所が、日出の方向から何度か計る。

>> ここは納得できません。同時刻に測定する方法論に具体性がありません。日の出の方向は測定日により一定ではなく、複数人で事前に測定日測定時刻を決めることができたのかに疑問があります。同時に測定の機器、道具が同一規格であることが前提となるはずです。

当然、出てくるご意見でしょう。
私もこの点は、考えました。
で、測定を大方一週間以内程度におさえれば、有る程度無視しても良いのではと考えたのです。

ちょっと難しいかもしれませんが、マ無理でしょうけど。
前日決めておいた場所で、朝、日出じに測定し対馬へ渡り、
決めておいた場所で日没の角度を測定。これが理想ですね。
こんな具合に、だいたい3日以内の測定をすれば、日出日没の角度変化による誤差は、
無視して良いのではと考えました

>> >> 対馬に渡ってから、其の場所に行き、直線距離を測る。
>> >> 其の後で、其の直線の方向が、日出の方向から何度かを計る。
>> >> 日の入りの角度でも良いでしょう。

>> 上述と同様の理由で、この部分も承諾できません。

>> >> これができれば、縮尺図を書けば、概算の距離は、一発で出る。

>> 「これができれば」と言う前提ならできるでしょう。

イチオ誤差の範囲を特定したつもりです。
確かに季節により誤差の大きさは変わりますが、行きかえりで充分準備できれば、1日での測定も可能でしょう。


238

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月21日(木)10時32分43秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月21日(木)02時22分48秒 ]

>> >> 伊勢神宮は、式年遷宮の時には、全ての神宝他を新しく作りなおすのが、慣わしどと言う事です。

>> 全ての神宝ですか?

全てだそうです。
剣や其の他もと聞いています。
特に面白いのは、矢羽根には、鴇の羽を使う事に成っているそうです。
最も現在は、手に入らないため、別物を使っているようですが
(当然、絶滅寸前のものですから。)

>> 鏡を20年ごとに作りなおすのでしょうか?

>> 御神体は違うと思いますが、、

当然御神体は違うようですが、曇りが出たりすると作りなおすこともある、と聞いた事がありますので、
如何なんでしょう?

>> 無くなったものとは別だと思います。

上に書いている通り、有名な神社でも、御神体に曇りとか異常が出た場合、
簡単に修復可能でも、作りなおし魂込して交換する事があるようです。


239

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月21日(木)10時52分39秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月20日(水)23時39分03秒 ]

>>
>> >> 三世紀において伊能忠敬の地図ほど正確な地図を持っていたなどとは誰も思いませんがそこそこの地図があっても不思議は無いでしょう。

>> そこそこというのはどういう意味でしょう。
>> どんな実例が残っていますか。

>> >> >> それ以前にそのような地図が現われてこないのは、それを行う技術があっても、労力をかけてやる意味が無かったのだと思います。

>> >> >> 弓鉄砲の射程であれば、人間の空間感覚の範囲内で充分ですし、軍隊の移動も幾何学的な正確さなどそれほど意味は無く、道のりが重要だったのでは?

>> >> 自分の領土領域ぐらい判らなくちゃ国としてなってない。さもなければ租税徴収も出来ない。

>> >> おおよそでも
>> >> 直線距離、面積位は判っていた筈だと思うのですが、どうして判っていなかったと思われるのでしょう。

>> なにを根拠に分かっていたと思われるのでしょう。
>> 太閤検地でも租税徴収のための測量は行われましたが、幾何学的に正確な地図は作られませんでした。
>> つまり長射程の兵器が大量に使用されるまでそんなものは不要だったのでしょう。
>> 現にそんな地図は残っていない上に古い時代の広域の地理観がしばしば無茶苦茶なことがそれを証明しています。
>> ようするにどういう風に行くのか、どれだけかかるかだけが関心だったのでしょう。

ちょっと思ったんですが、其れもナンだか怪しい気がしてきました。
情報は、其れ事態力なんです。

戦をする場所、其の戦場の地形、補給計画、精密な地図は、其れを持っている方が、はるかに有利になります。

幕府のシーボルト事件など、
各政府は、地図について恐ろしくやかましかった。
旧ソ連政府なんか、モスクワの観光地図さえ容認しなかったようですし。

つまり、権力者の立場のみに精密な地図が、限定で渡されていたと思うのです。
其の立場によって、精密度や内容が違うと言うわけです。
そして、敗戦や降伏する場合など、必ず廃棄するまたは其のシルしに渡されると考えます。
ならば、残っていないのも推測されるからです。
落城の再に、故意に火をかけるでしょう。
民間に出ているもので、其れほどのものは無いでしょうし残らないでしょう。


24

Re: 日本書紀

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月7日(木)05時47分55秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月7日(木)00時32分19秒 ]

たかとりさん、こんにちは。

>> それで大王は姓を捨て、天皇になったのではないでしょうか。

ありがとうございます。やたら納得しています。

>> 森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書)
>> 大山誠一『聖徳太子の誕生』(吉川弘文館)

メモって財布に入れておきます。

聖徳太子が天皇にならなかった理由を上手く説明するには「聖徳太子」は作られた、とするしかないのでしょうか。
今回、小林恵子さんを検索して、小林さんが「聖徳太子は東突厥国の皇子か将軍」であると言っていることを知ってショックを受けています。小林さんはファンもたくさんいるようで、でもなんだかよくわかりません。
しかし、当時の列島が日本史で習ったよりはるかに開けた国で、韓国や中国はもとよりインドや中東とも交流があったことは大切な事実だと思います。
そんな気持ちでいたからでしょうが、聖徳太子の「日いづる処の天子」のフレーズは、倭人の感覚ではない。大陸から東を見て渡ってきた人が、大陸にいる人に投げかける言葉だと気付きました。もう、どなたかが言ってますよね。あるいは、何処かで読んだ記憶が蘇っただけかもしれません。どっちにしても倭人にとって太陽はやはり東から昇るので、自分の大地から日がでるという感覚はまず無いですね。


240

CGIのファイルロック

投稿者[ えみった ] 発言日時 [3月21日(木)12時33分28秒]

元の発言 [ Re: ↑にゃあさんすいません。其れと管理人さんへ ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 3月21日(木)02時09分04秒 ]

はじめまして。
いつもROM専で楽しませていただいています。

>> 投稿のバッティングで、ファイル名採番カウンタがインクリメントされないうちに次の処理が始まってしまうバグがあるようです。目下のところ回避手段は判然としません。

wwwboardのCGIに同時投稿防止のための
ファイルロックルーチンを付け足してはいかがでしょうか?
wwwboardには標準では付加されていませんが
投稿の多い掲示板では必須の機能だと思います。
(実際、頻繁に「大論争」では記事の混乱が生じてますよね)

詳しいことはPerlのリファレンスなどを
ご覧になっていただければと思いますが、
だいたい以下のようなルーチンを付け足せば
大丈夫なのではないかと思います。


#同時投稿防止のためのロック

#$lockfile = 'lockfile';
#$times = 10;
#for ($i = 1; $i<=$times; $i++) {
# if (-e "$basedir/$mesgdir/$lockfile") {
# sleep 1;
# } else {
# open(LOCK,">$basedir/$mesgdir/$lockfile");
# print LOCK '0';
# close(LOCK);
# $lock = 'ok';
# last;
# }
#}

#&error('locked') if ! $lock; # フラグがセットされていなければエラー


以上、参考になれば幸いです。
管理人様、この掲示板はいつも楽しみに覗かせて頂いています。
管理の作業は何かとたいへんなこともあるでしょうが、
ここの過去のログはもはや一つの財産だと思うので
これからも長く継続されることを心から願っています。がんばってくださいね。


241

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月21日(木)22時11分14秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月20日(水)23時39分03秒 ]

>> どんな実例が残っていますか。

ありません。が状況を考えれば地図があっても不思議は無いと思っているだけです。
逆になかったと言う証拠でもありますか?

>> なにを根拠に分かっていたと思われるのでしょう。

「『漢書』に県はおよそ方百里であり」と書いてあると書きました。
県の広さは(平均すると)おおよそ方百里であると言っている訳で、県の面積は分かっていたと考えるのが普通じゃないですか?

>> 太閤検地でも租税徴収のための測量は行われましたが、幾何学的に正確な地図は作られませんでした。
>> つまり長射程の兵器が大量に使用されるまでそんなものは不要だったのでしょう。

正確な地図でなくても良いんです。ずっと前からそういっています。
±20%も狂った地図などそれで日本地図書いたら奇天烈な地図になる事請け合いです。
韓国みたいに単純な形状なら±20%狂っても韓国と判る程度でしょうが。
その程度の地図はあって当然だろうと思いますよ。

その程度の地図がなくて戦争なんか出来ないでしょう。
作戦も練れやしない。
戦争は線でやるものではなく面でやるのです。
道のりだけでは戦争はやれません。

>> 現にそんな地図は残っていない上に古い時代の広域の地理観がしばしば無茶苦茶なことがそれを証明しています。

馬韓の反乱で太守弓遵が戦死したのは地図がなかったせいだとでも言うのでしょうか。

>> ようするにどういう風に行くのか、どれだけかかるかだけが関心だったのでしょう。

どうして三世紀の人の関心が地勢や面積に無いと判るのでしょう。
東夷伝にも地勢や面積に韓する記載が沢山あるのに。


242

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月21日(木)22時36分08秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月21日(木)00時43分27秒 ]


>> 一面者。八百万神等以石凝姥神奉鑄寶鏡。是則崇伊勢太神宮也。
>> (一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。中臺圓形座也。圓外日天八座。)

>> これは内行花文鏡のことを言っているように見うけられ、さらに八葉とありますので、内行花文鏡の鈕の周りは通常四葉です。
>> 八葉のは平原のあの46.5cmの鏡しかないのです。
#そうですね。下池山古墳からの出土鏡(37.6cm)、柳本大塚山古墳のもの(39.7cm)はいずれも四葉座です。それと、行燈山山古墳の銅版の絵も四葉座。(今回は確認しました§^。^§)
それと、小型の鏡の中に、小さな葉座が数多く並んでいるものがありますね。この葉座の数はどんな意味があるのでしょうか?製作年代によるなんてことはなないのでしょうか。

>> もうひとつ証言がありますが、それは僕の口からは言えませんです。
#内緒で」そーっと教えてくれませんか。(^○^)



243

Re: 白銅鏡と黄銅鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月21日(木)23時07分30秒]

元の発言 [ 白銅鏡と黄銅鏡 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月20日(水)22時59分36秒 ]

今晩は。

>> わたしが白銅鏡と黄銅鏡にこだわっているのは中国製はすべて白銅鏡だからなんです。記紀にでてくるのも白銅鏡。そして平原も国産の可能性が高いとはいえ白銅鏡。白い色を発する鏡は小金色の鏡よりも上にあったのでしょう。
#白銅、黄銅について何か宗教的、思想的な背景があるという説もあるようですが、その一方で、鋳造技術面の影響が大きいと考えています。
青銅の中の錫は、溶解温度を下げて、溶湯の流動性を向上させ、鋳造性を改善させます。反面、錫が多くなると硬くて脆くなる。現在でも、耐磨耗性の軸受けとして使用されています。
そんなことから、鋳造技術のレベルが白銅、黄銅を産み分けたと考えています。




244

(資料) 九州出土の三角縁神獣鏡 

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月21日(木)23時49分23秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月19日(火)21時28分27秒 ]

こんばんは。
『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』(京都大学文学部 思文閣発行)の巻末の資料から九州出土の三角縁神獣鏡を抜き出してみました。なお、目録番号200までのものに限りました。()内の番号が目録番号です。いちおう200番までが舶載と京都大学文学部ではお考えのようですので、三角縁神獣鏡の中では古い鏡と言えると思います。また同型関係については『黒塚古墳』(学生社)からも補っております。
 下記の古墳の中に纏向の布留式以降の古墳より古いのがあるのかどうか?


宮崎 
高鍋町 持田48号墳(推定)    
 天王日月・獣文帯四神四獣鏡 21.5cm (64)
 同型鏡 鳥取・社村付近(伝) 群馬・天神山

高鍋町 持田古墳群(推定)
 天王日月・獣文帯四神四獣鏡 23.3cm (68)
 同型鏡 京都・椿井大塚山 岐阜・龍門寺1号

熊本
芦北郡(伝)
 尚方作二神二獣鏡  22.7cm (100)
 同型鏡 京都・東車塚 奈良・新山 出土地不明

宇土市 城ノ越古墳
 珠文帯四神四獣鏡 21.7cm (49)
 同型鏡 鳥取・普段寺2号

福岡
久留米市 祇園山古墳(推定)
 天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡 22.1cm (109)
 同型鏡 福岡・原口 兵庫・東求女塚 奈良・桜井茶臼山 三重・桑名(伝)

甘木市 神蔵古墳
 天王日月・獣文帯四神四獣鏡 22.3cm (46)
 同型鏡 山口・竹島御家老屋敷 京都・椿井大塚山(3) 神奈川・白山

甘木市 大願寺 
 張氏作三神五獣鏡 (22)(所在不明)
 同型鏡 香川・奥3号 京都・椿井大塚山 静岡・連福寺 群馬・三本木(伝) 泉屋博古館・23/24 (なお、この同型関係は推定)

筑紫野市 原口古墳
 長・宜・子・孫・獣文帯三神三獣鏡 22.6cm (102)
 同型鏡 大阪・紫金山

 天王日月・獣文帯三神三獣鏡 22.6cm (105)
 同型鏡 福岡・天神森 福岡・石塚山(2) 大分・赤塚 京都・椿井大塚山

 天・王・日・月・獣文帯三神三獣鏡 21.9cm (109)
 同型鏡 福岡・祇園山(推定) 兵庫・東求女塚 奈良・桜井茶臼山 三重・桑名(伝)

大野城市 御陵古墳
 天王・日月・獣文帯四神四獣鏡 21.9cm (70)
 同型鏡 福岡・石塚山

那珂川町 妙法寺2号墳
 陳是作六神四獣鏡 21.9cm (58)
 同型鏡 大阪・万年山

福岡市 老司古墳3号石室
 王氏作徐州銘四神四獣鏡片 22.4cm (79)
 同型鏡 滋賀・古冨波山 奈良・黒塚古墳20,32 フリーア美術館
 
福岡市 藤崎第6号方形周溝墓
 陳氏作神獣車馬鏡 22.3cm (13)
 同型鏡 岡山・湯迫車塚 山梨・銚子塚 群馬・三本木(伝) 琵琶湖文化館

福岡市 藤崎遺跡
 波文帯盤龍鏡 24.5cm (5)

福岡市 若八幡宮古墳
 □是作二神二獣鏡 22.5cm (99)
 
福岡市 那珂八幡古墳 
 画文帯五神四獣鏡 21.8cm (56)
 同型鏡 岡山・湯迫車塚 京都・椿井大塚山 奈良・富雄丸山1号(伝) フリーア美術館 
 
福岡市 香椎ヶ丘3丁目古墳 
 天・王・日・月・獣文帯二神二獣鏡 21.0cm (95)
 同型鏡 奈良・金崎

福岡市 天神森古墳
 天王日月・獣文帯三神三獣鏡 22.6cm (105)
 同型鏡 福岡・原口 福岡・石塚山(2) 大分・赤塚 京都・椿井大塚山

福岡市 名島古墳
 吾作九神三獣鏡 22,2cm (108)
 同型鏡 愛媛・国分 奈良・白石光伝寺後方(伝) 出土地不明

穂波町 忠隈古墳
 波文帯三神三獣鏡 21.5cm (131)
 同型鏡 兵庫・小見塚 兵庫・御旅山3号 愛知・白山藪 泉屋博古館33

大島村 沖ノ島18号遺跡
 天・王・日・月・獣文帯二神二獣鏡 22.2cm (91)
 同型鏡 山口・宮洲 三重・桑名(伝)

大島村 沖ノ島金蔵遺跡(推定)
 波文帯三神三獣鏡 21.7cm (124)
 同型鏡 三重・赤郷1号

北九州市 御座1号墳南主体部
 天王日月・獣文帯三神三獣鏡片? (106)

苅田町 石塚山古墳
 吾作四神四獣鏡 20.0cm (35)
 同型鏡 広島・中小田1号 大阪・万年山 京都・椿井大塚山(2) 奈良・黒塚

 日・月・獣文帯四神四獣鏡 21.8cm (65)
 同型鏡 愛知・奥津社(伝)

 天王・日月・獣文帯四神四獣鏡 22.0cm (70)
 同型鏡 福岡・御陵 奈良・黒塚29.30

 天王・日月・獣文帯四神四獣鏡 23.5cm (74)
 同型鏡 岡山・湯迫車塚 奈良・新山 奈良・黒塚27,33

 天王日月・獣文帯三神三獣鏡(2) 22.4cm (105)
 福岡・原口 福岡・天神森 大分・赤塚 京都・椿井大塚山

 日日日全・獣文帯三神三獣鏡 22.4cm (107)

大分
宇佐市 赤塚古墳
 波文帯盤龍鏡 24.8cm (4)

 天王日月・鋸歯文帯四神四獣鏡 23.0cm (80)
 同型鏡 京都・長法寺南原 京都・椿井大塚山 奈良・桜井茶臼山

 唐草文帯二神二獣鏡 21.8cm (90)
 同型鏡 岡山・鶴山丸山(伝)

 天王日月・獣文帯三神三獣鏡 22.4cm (104)
 同型鏡 京都・物集女付近(伝) 滋賀・岡山 三重・筒野

 天王日月・獣文帯三神三獣鏡 22.6cm (105)
 同型鏡 福岡・原口 福岡・天神森 福岡・石塚山 京都・椿井大塚山

宇佐市 宇佐付近(伝)
 吾作四神四獣鏡 21.7cm (27)


245

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月22日(金)00時11分41秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月21日(木)22時36分08秒 ]

>> 下池山古墳からの出土鏡(37.6cm)、柳本大塚山古墳のもの(39.7cm)はいずれも四葉座です。

 まっとうな内行花文鏡を拡大したと言っていいと思います。
 平原のは葉っぱを大きくしなかったから隙間があくので八葉にしたんでしょうね。
 行燈山の銅版のはずいぶんデフォルメされていたような記憶があります。

>> それと、小型の鏡の中に、小さな葉座が数多く並んでいるものがありますね。この葉座の数はどんな意味があるのでしょうか?製作年代によるなんてことはなないのでしょうか。

 三雲南小路遺跡から出た金銅製四葉座金具は棺をとめる葬具だといわれています。
 方格規矩鏡も方格内に四葉。
 で、かつて、内行花文鏡も方格規矩鏡も葬具だったんじゃないかとここで書いて散々にご批判をいただきましたです。(^^ゞ


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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月22日(金)00時14分02秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月21日(木)10時52分39秒 ]

>> ちょっと思ったんですが、其れもナンだか怪しい気がしてきました。
>> 情報は、其れ事態力なんです。

>> 戦をする場所、其の戦場の地形、補給計画、精密な地図は、其れを持っている方が、はるかに有利になります。

ですから大砲以前に必要な情報は、人と物の移動に関するものだけでしょう。
それは直線距離や方位ではなく、道のりとその状況に関するものでしょう。
この地域は荷車が通るのかどうか、馬はどうか、人は何列横隊で勧めるか、どれくらいの時間がかかるか。
重要地点から重要地点への移動に関することでしょう。
戦場であれば、歩兵の突撃は可能か、騎兵の攻撃は可能かといったことで、幾何学的情報は必要ない。

>> 幕府のシーボルト事件など、
>> 各政府は、地図について恐ろしくやかましかった。

この時代まさに大砲を積んだ軍艦に対する海防が国家的関心事だったからです。
船がどのあたりに来たら何処が射程に入るのか、何処に砲台を設置したら外国船の侵入を食い止められるか。
したがって当然のことです。

>> 旧ソ連政府なんか、モスクワの観光地図さえ容認しなかったようですし。

これも時代が違います。

>> つまり、権力者の立場のみに精密な地図が、限定で渡されていたと思うのです。
>> 其の立場によって、精密度や内容が違うと言うわけです。
>> そして、敗戦や降伏する場合など、必ず廃棄するまたは其のシルしに渡されると考えます。
>> ならば、残っていないのも推測されるからです。
>> 落城の再に、故意に火をかけるでしょう。
>> 民間に出ているもので、其れほどのものは無いでしょうし残らないでしょう。

幕府の作った国家機密の地図も後の世には残ったわけです。
なぜ古代の測量による広域地図はひとつも残っていないのでしょう。


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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月22日(金)00時26分11秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月22日(金)00時14分02秒 ]

>> 幕府の作った国家機密の地図も後の世には残ったわけです。

イギリスに強く要求されしぶしぶ見せたことがあるので、これが既に秘密でなくなったからでは?

>> なぜ古代の測量による広域地図はひとつも残っていないのでしょう。

写本のように文章は書き写したが、地図にはそのような習慣はなかったのではないでしょうか?


248

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月22日(金)01時09分15秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月21日(木)22時11分14秒 ]

>> >> どんな実例が残っていますか。

>> ありません。が状況を考えれば地図があっても不思議は無いと思っているだけです。
>> 逆になかったと言う証拠でもありますか?

どのような状況でしょうか。
一度でも正確な地理観が出来ていれば、中世に至るまで変な地図が作られることも無かったでしょう。

>> >> なにを根拠に分かっていたと思われるのでしょう。

>> 「『漢書』に県はおよそ方百里であり」と書いてあると書きました。
>> 県の広さは(平均すると)おおよそ方百里であると言っている訳で、県の面積は分かっていたと考えるのが普通じゃないですか?

これは滅茶苦茶大雑把ですね。
これくらいのことは分かっていたと思いますよ。

>> >> 太閤検地でも租税徴収のための測量は行われましたが、幾何学的に正確な地図は作られませんでした。
>> >> つまり長射程の兵器が大量に使用されるまでそんなものは不要だったのでしょう。

>> 正確な地図でなくても良いんです。ずっと前からそういっています。
>> ±20%も狂った地図などそれで日本地図書いたら奇天烈な地図になる事請け合いです。

日本の古い地図は奇天烈な形状に書いてありますね。

>> 韓国みたいに単純な形状なら±20%狂っても韓国と判る程度でしょうが。
>> その程度の地図はあって当然だろうと思いますよ。

測量に基づかない地図はあったんですよ。
人と物の移動に基づく情報を表した地図が。

>> その程度の地図がなくて戦争なんか出来ないでしょう。
>> 作戦も練れやしない。

要所要所の間の人と物の移動に関する知識があれば十分です。

>> 戦争は線でやるものではなく面でやるのです。
>> 道のりだけでは戦争はやれません。

秀吉の中国大返しのときに、畿内までの方位と距離が重要だったでしょうか。
途中の道のりがどうで、徒歩の移動にどれだけかかるか、馬はどうか、物資の移動はどうか、それがわかれば他に何が必要ですか。
戦場の選択、戦場における陣形などは、地図レベルの情報ではなく、もっと詳細な局所地形が重要でしょう。
騎兵の突撃は可能か、歩兵の移動はどうか、輜重兵はどう動かすか。
いずれも要所間の道のり、または詳細な局所地形が重要で、直線距離や方位は関係ありません。

しかしもしこの時代、日本に射程の長い大砲が有って、両軍とも有力な砲兵を持っていたとしたらどうでしょう。
秀吉は戦場に到着する前に、戦場付近の詳細な地形図を欲したでしょう。
なぜならそれによって、敵砲兵がどのあたりにいたらどの地域が射程内になるのか、自軍の砲兵をどう展開したら敵を征圧できるか、ある程度見通しが利くからです。
この目的のためには、測量による正確な地図が重要です。
したがってそういう時代以降、膨大な労力をはらって、しばしば国家事業として、測量に基づく正確な地図が作られ始めるわけでしょう。

>> >> 現にそんな地図は残っていない上に古い時代の広域の地理観がしばしば無茶苦茶なことがそれを証明しています。

>> 馬韓の反乱で太守弓遵が戦死したのは地図がなかったせいだとでも言うのでしょうか。

何のことでしょう。
そんなことは言っていません。
この時代に測量に基づいた地図があっても、勝敗に関係しなかったでしょう。

>> >> ようするにどういう風に行くのか、どれだけかかるかだけが関心だったのでしょう。

>> どうして三世紀の人の関心が地勢や面積に無いと判るのでしょう。
>> 東夷伝にも地勢や面積に韓する記載が沢山あるのに。

地勢や面積に関心は有ったでしょう。
しかし実際に人と物が動くことに関する関心、収穫量に関する関心では有っても、相互の地点間に関する幾何学的な情報に関する関心ではなかったでしょう。
そんなものは日常必要が無いのです。
我々が日常見る、お店や、役所、観光地などの案内地図は、どう行けばいいのか、どれくらいかかるのかを中心に書いてあって、幾何学的な形状はほとんど無視されています。
むしろ到着するために必要な部分を拡大してくれた方が分かりやすいです。
ドライブする際に目的地が自分の家からどちらの方位に何キロ有るかはどうでもいい情報です。
むしろどうやっていくのか、高速は使えるのか、途中の道が入り組んでいないか、極端に細い道でないか、時間はどれくらいかかるのかが重要です。

土地や建物の測量を行ったとしても、人家もまばらな山や谷を越えて順次測量を行い、その結果をまとめて広域に渡る幾何学形状を明らかにするのは、全くレベルの違う話です。
技術があるからやったはず、というのは暴論で、我々は現在月に人間を送る技術は持っていますが、かっての国家威信のような、それを行う理由がなくなったので行わなくなりました。
今現時点で、月に人を送るコストとリスクに対して、みあうものが無いからです。

近代に入る前に、広域に渡って測量をもとにした地図が一つでも示されればともかく、あったはずといわれてもとても信じられません。
船の航路を基にした、港から港への距離と方位を正確に表現するための地図は、近代以前に知られていますが、むしろそれは海上の道のりマップが結果として比較的正確になったというだけで、測量に基づいたものではありません。

まずは古代の測量に基づいた広域地図が一例でも示されてから議論を続けたいと思います。


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Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月22日(金)01時22分58秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月22日(金)00時26分11秒 ]

>> >> なぜ古代の測量による広域地図はひとつも残っていないのでしょう。

>> 写本のように文章は書き写したが、地図にはそのような習慣はなかったのではないでしょうか?

ではなぜ測量によらない地図だけが残っているのですか。


25

Re: 決定事項について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月7日(木)09時34分54秒]

元の発言 [ 決定事項について ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 3月6日(水)06時46分42秒 ]

>> >>  いくら何でも、出入り禁止はかわいそすぎると思います。

>> 決定以降24時間程度様子をみさせていただきましたが、反省の言葉が聞けませんでした。
>> 確定といたします。

おにりんさんはこの掲示板に多大な貢献をされてきたと思います。
小生の厨房な発言に誰もレスを付けてくれない時にもマメにレスを付けてくれていました。
おにりんさんの参加がなければこの掲示板も寂しくなるような気がします。

確かに不快な発言もありましたが最近は少なくなっていたように感じます。
おにりんさんは内心反省してもそれが言えない人なのだと思います。

ALEXさんとのやりとりについては嫌がる相手に挑発を続け、ちょっとしつっこかった感じが無きにしも非ずですが。
出入り禁止と言うほどでもないような。

中途参加の新参者が言うのも変ですがお互いに少し頭を冷やしていい解決法を見出せないかと願うものです。


250

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月22日(金)01時23分12秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月22日(金)01時09分15秒 ]

>> まずは古代の測量に基づいた広域地図が一例でも示されてから議論を続けたいと思います。

日本での実例は知りませんが、エジプトのプトレマイオス
とか、ギリシャ・ローマにはあったようですね。



251

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月22日(金)01時38分15秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月22日(金)01時23分12秒 ]

>> >> まずは古代の測量に基づいた広域地図が一例でも示されてから議論を続けたいと思います。

>> 日本での実例は知りませんが、エジプトのプトレマイオス
>> とか、ギリシャ・ローマにはあったようですね。

これは測量に基づいた地図ではないです。


252

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [3月22日(金)07時56分01秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月21日(木)10時52分39秒 ]

>> つまり、権力者の立場のみに精密な地図が、限定で渡されていたと思うのです。
>> 其の立場によって、精密度や内容が違うと言うわけです。
>> そして、敗戦や降伏する場合など、必ず廃棄するまたは其のシルしに渡されると考えます。
>> ならば、残っていないのも推測されるからです。
>> 落城の再に、故意に火をかけるでしょう。
>> 民間に出ているもので、其れほどのものは無いでしょうし残らないでしょう。

日本の地図ですが、戦国時代くらいの地図を見ると正確な物
ではないですね。
局地的なものですが、例えば賤ヶ岳の合戦の地図は、山とか
湖とかかなりいい加減に描かれています。一応、重要な部分
については、山から山まで何町、湖の東西、南北が何町とか
書いてありますが、形は適当、中には描かれていない湖や川
があったり、描かれていても位置がかなりずれている湖があ
ったりします。
関ヶ原の地図は決戦地だけではなく、清洲城、岐阜城なども
描かれていますが、城と道と陣が描かれている程度ですね。
大まかな位置関係を把握する為の物だったのでしょう。

正確な地図があったけど残らなかったというのは、かなり苦
しいのではないでしょうか?
賤ヶ岳の古図は、賤ヶ岳七本槍の1人脇坂安治の家に伝わっ
た物であり、民間に出ている物ではないです。正確な地図を
使用したのであれば、指揮官、参謀クラスは皆持っていたで
しょう。それらが全て失われるというのは無理があるのでは
ないかという気がします。


253

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月22日(金)08時13分56秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月18日(月)12時01分13秒 ]

>> このあたりの理屈をもっとちゃんとやらないと説得できないでしょう。
>> また四国説を証明するのに四国説を前提にしていては根拠なしです。

説得できないだろうことは、皆さんの様子をみてたらわかります。
ただ、私にとっては他に良い比定案が一つもないというだけで
十分ですけどね。

地名の数が十分あれば、西日本あたりならどこの地名の
データベースでも近い値となるはずです。
かえって地名の類似があるという地域のデータベースを用いる方が、
類似確率は低くなり辛くなります。

>> どのように考慮されているのでしょうか。
>> はっきり示すべきでしょう。
>> また連続比定の確立計算は単純すぎます。
>> ちゃんと場合の数を計算すべきです。

えっと「確率」でお願いします。
場合の数が何を意味するか良く分かりませんが、
これはそれほど問題にならないんですよ。
比定地域を2倍にすると、その中の有力地名も
2倍になるかというと、そうはならないですから。
もちろん、比定案を絞った後には、考古学的に
その地域がクニとしてまとまっていたか可能性が
あるかどうか調べる必要があります。
地名対応はあくまで下調べです。

>> 悪く言うつもりは無いですが、やましさんの比定をみてこれは
すごいと思う人は少数派でしょう。

そうですね。みなさんの反応みてたらよく分かります。
しかし、不思議だと思いません?
比定地論争というわりに地図も地名もそれほどでてこない。
なにをもって比定と言っているのか、私には謎です。

それで、比定なんですが、順不同では有意性はいえません。
30ケ所の比定可能な地域があるなら30!もの任意性を許しますから。
九州鴫沢説の地図も途中を飛ばしたり逆転しています。
対応地名がないのもあります。
途中の順番を逆転させて対応地名があるといっても、
何らか意味があるとも思えません。
逆転を許すと相当な自由度を与えてしまいます。

ネット上で見られる比定案を集めてみました。
全部見比べてみて下さい。
以下のことを満たす説は他にありますか?
(1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。
(2)21国が順番になっており、国名が主要地名に対応する。
(3)狗奴国は第二奴国、邪馬台国の南にある。
(4)第二奴国は女王国の境界の尽きる所にある。
(5)他の国が旁国としてでてこない理由が説明できる。
(6)東に海を渡って千里で倭種の国を比定できる。

山門説地図
http://homepage1.nifty.com/history/history/kodainihonn/30koku.html
畿内説、九州鴫沢説地図
http://www.yu-ji.com/kuni.htm
宇佐説地図
http://member.nifty.ne.jp/Washizaki/011.htm
大和説地図
http://www.kamnavi.net/ym/ymenzetu.htm
http://www.kamnavi.net/ym/route1.gif
宮崎説地図
http://www1.gateway.ne.jp/~kojin/1wakoku.html
エジプト説地図
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjf1899/tondemo/kim_map.html
八女説
http://village.infoweb.ne.jp/~bbf/30culture.html
愛媛松前説
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/3280/yamatz.html
大和説
http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/earlyjapan/Yamatai/gi-geo.html


254

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月22日(金)09時26分39秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月22日(金)01時38分15秒 ]

>> >> >> まずは古代の測量に基づいた広域地図が一例でも示されてから議論を続けたいと思います。

>> >> 日本での実例は知りませんが、エジプトのプトレマイオス
>> >> とか、ギリシャ・ローマにはあったようですね。

>> これは測量に基づいた地図ではないです。

ギリシャ-ヘレニズムの伝統を継いだローマ時代のプトレマイオスの地図は、科学的な地球観と作図図法に基づいたものですが、測定データはわずかでした。
つまり彼等の学問的興味から、作られたもので、少ないデータに基づいた割には、まともなものが出ていますが、測量に基づく多くのデータを元にしたものではありません。
水陸の地形もずいぶんゆがんだものです。(しかもこの地図が近代以前においてグローバルな地理観を得るために、もっとも重要な物だったようです。)
要するに知識や理論でなく、事業としての測量が必要なのです。
ギリシャ人にはそのような公共の事業の概念は乏しいようですし、かりにやろうとしても誰がそのコストを請け負ったでしょう。
一方のローマ人は、その水道、ローマ街道の事業からして、相当広範な測量を行ったことは確実で、もしも彼等が射程の長い兵器を持っていたら、全土にわたる測量網を組織し、後世を驚かすような緻密な地図を作ったかもしれません。
しかし大砲も持たず、現実的なローマ人は、拠点間を移動するための道路マップしか残していません。
土地の測量は文明発生以来行われていますが、測量に基づく地図は近代まで現われていません。

無論中国でもヨーロッパでも、近代以前に方位と距離に基づいた、おおよそ正しい地図は作られています。
しかしそれは道のり情報を精密化して得られたもので、測量による地図ではありません。
そのような地図であれば存在したでしょう。

古代にあって何百キロも遠く離れた二点間の距離と方位を、道のりによる概算でなく、測量データの積み上げで表した例を知りませんし、洋の東西を問わず世界史の例をみても、実用的でなかったことは明らかと思います。
したがって確実な反例がなければ考えを変える理由もありません。


255

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月22日(金)09時35分33秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月22日(金)08時13分56秒 ]

>> ネット上で見られる比定案を集めてみました。
>> 全部見比べてみて下さい。
>> 以下のことを満たす説は他にありますか?
>> (1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。
>> (2)21国が順番になっており、国名が主要地名に対応する。
>> (3)狗奴国は第二奴国、邪馬台国の南にある。
>> (4)第二奴国は女王国の境界の尽きる所にある。
>> (5)他の国が旁国としてでてこない理由が説明できる。
>> (6)東に海を渡って千里で倭種の国を比定できる。

第三者の立場になってみると、こうゆう仮定が唐突に出てくることが既についていけないと思います。
どう思いますか?


256

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月22日(金)11時13分03秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月22日(金)09時35分33秒 ]

>> >> 以下のことを満たす説は他にありますか?
>> >> (1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。
>> >> (2)21国が順番になっており、国名が主要地名に対応する。
>> >> (3)狗奴国は第二奴国、邪馬台国の南にある。
>> >> (4)第二奴国は女王国の境界の尽きる所にある。
>> >> (5)他の国が旁国としてでてこない理由が説明できる。
>> >> (6)東に海を渡って千里で倭種の国を比定できる。

>> 第三者の立場になってみると、こうゆう仮定が唐突に出てくることが
既についていけないと思います。
>> どう思いますか?

ついていけないといわれても倭人伝の文章の主要な解釈ですけど・・・。

(1)それぞれ大国だけど、ひとつの国なんだから文化的に近いんじゃないですか。
(2)「次有・・国次有・・国」というのは位置くらいしか思いつかないんだけど。
(3)「その南に狗奴國有り」は、奴国か邪馬台国かよくわからないですが、どちらかの南でしょ。
(4)「此れ女王の境界の尽くる所なり」は他にどう解釈します?
(5)なぜこの21国のリストなのか、解釈できたほういいでしょ。傍らの国を全てリストアップしたとか。
(6)「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」でしょ。

もちろん解釈問題なので、他の解釈でもうまく文章が説明
できればいいとは思うんですけど。

なお、この地理感覚は、私だけがいってることではなくて、高橋善太郎氏
の解釈に近いものです。邪馬台国基本論文集IIIにありますから
論文を一度よんでみてください。
しっかりとした良い論文ですよ。


257

銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月22日(金)12時59分30秒]

この会議室では、銅鐸が話題に上ることが極めてまれです。
銅鐸の国の歴史を仮説としてきちんと構築なさっている方はおられませんか。
なんとなく流行として銅鐸の祭祀がダサくなって、鏡の祭祀がありがたくなったのだ、というような議論を見かけますが、それはあまりに安直。
鏡の国の侵略者(神武)がナガスネヒコの国(銅鐸の国か?)を征服したという記紀の神話は、この意味で興味深いものがありますが、これがどこまで歴史を反映しているかはもちろん分らないし。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月22日(金)20時08分07秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月20日(水)23時16分22秒 ]

こんにちは。

>>  魏志倭人伝は、なぜ千余戸と書き換えたんでしょうね?
>>  単なる誤記ではないと思う。ひとめ見て、やっぱり先余戸が妥当かな?と。

#陳寿の「魏志」魚カンの「魏略」成立はほぼ同じ時期らしい。この二人が何を基準にしたかいうと王沈の
「魏書」だったんだそうです。この「魏書」を読めば
どっちが間違った記録をつけてるかわかる筈なんやけど
もう現存してないんやて。唐の時代まではあった事が確認されとるんやけどな。まさに「唐の昔」になくなっとるわけやね。
 おやじギャグは置いといてや。郭公さんの言っとることで大筋あっていると思う。前回僕は
「札ビラでしばき倒して云々」という発言をしたがこれは伊都国が経済的に力のあったクニということをいいたかったんや。当然港湾都市の中で経済力がぬきんでるためには郭公さんの言う「制海権」が必要なわけです。
 倭人伝の中では伊都国に「王」がいると書かれている。奴国には行政官とその副官についての記述があるだけで、王の存在については記録されていない。「王」の記述は少なくて魏志倭人伝に出てくる「王」は3人しかおらん。今言った「伊都国国王」の他に「卑弥呼」と「卑弥弓呼」だけや。
 ところがクニごとに置かれた官名に一貫性が無い。クニによってばらばら。むしろクニごとに独自の行政官が置かれそれぞれ独立していたようにも見える。
 僕はクニごとに王様はいたと考える。ただ、外国人の視点から、その中でも更に王と呼ぶにふさわしい3人を王として記録したと思う。「KING OF KING」やね。
 それが卑弥呼を共立したのは前回も言ったけど、宗教を権力に取り込んでその安定化を目指した。
「倭国の大乱」はそれほど深刻なものだったのでしょう。この後、用済みになった卑弥呼を殺し、宗教からはなれようとして失敗したのは前回も言いました。
 このあと、台与を共立して混乱を押さえたのは魏志倭人伝にあるとおりです。
 実はこれも「馬の骨」やないかと思ってるんです。毛も生えそろってないようなガキを女王として即位させるにはそれなりの根拠が無ければいかんので、主催者側の発表として「卑弥呼の一族」としたんとちゃうやろか。
 このことを書くとかなり脱線するから別の機会に書きたいと思います。
気になるんは「台与」(とよ)という名前。僕は
「台与」は「豊」に通じていて、地名から来とるんやないかと思うんです。そして、卑弥呼はその豊に葬られその祭祀をやったんが「台与」ではなかったかと思う。
 「卑弥呼は豊に葬られ・・・」という発言をしておいてちょっとずれた事を言うけど、宇佐神宮の建っている「亀山」こそが卑弥呼の墓やないか?確かに「豊」からは少しずれた位置にあるけど、大昔の話やしこれくらいなら許容範囲かなと思っとる。  



261

Re: 平原の諸問題

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月22日(金)21時30分11秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月20日(水)22時58分09秒 ]

>>  たとえば、出雲の加茂神原神社古墳に「景初三年」銘の陳さんが作った三角縁神獣鏡が副葬されていますが、どうやらこの古墳もそれほど古くないらしいのです。四世紀らしい。

この古墳、実際見にいきました。めずらしく川のそばにあるのですよ。4世紀半ばとのことです。
この古墳の鏡は三角縁の中でも特殊です。神獣が重列式に配置されてる。森浩一氏はこの鏡の形式に限っていえば、中国での製作かもしれない、とのこと。

>> 青龍三年銘の方格規矩鏡を副葬した太田南5号墳も四世紀らしいです。もっともこれらが踏み返し鏡ならばの話ですけど、原鏡が副葬されたもっと古い墓があってもよさそうにも思っています。

踏み返し鏡だと思ってます。Lの向きが逆だし。

>>  そうしますと、年号の入った最古の三角縁神獣鏡は景初三年(239年)ですから、それから大和で三角縁神獣鏡が副葬されるまで10年から20年前後の時間差があります。

その前にー 年号が入った鏡は黒塚や椿井大塚山では出てません。これはちょっと注意が必要になるのかも。なぜ古いといわれる三角縁年号鏡が発生期の古墳から出土してないのだろう。

>>  纏向の西に鏡作神社が数社ありますので、大和に入ったのは間違いないと思います。

いま地図で調べたら以外と近いんですね。なぜ平地に居をかまえたのか。鋳型の問題かな。

>>  僕は、山陰から福知山、西脇、播磨の山間を経たルートがひとつ、若狭から琵琶湖を経て大阪、奈良のルート、琵琶湖から関ケ原を越えて濃尾平野のルートなどが考えられると思いますが、もちろん、北部九州への渡来もあったかもしれません。

問題はその時期ですね。その前の船載とよばれる優品は北部九州での製作と考えていますが。工人がすぐ大和に来てすぐ優秀品が製作できるのかどうか。
というのはもしその時期が3世紀後半としたら、まだ政権はできたばかりですし。大和政権の基盤がまだ安定していない、と思ってるからです。

まあ平原からいえるのは、すでに北部九州では大型鏡を製作する技術があったとはいえます。


262

伊都国にはない(伊都国と奴国)

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月22日(金)21時42分40秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月20日(水)23時16分22秒 ]

>> 伊都国からと津屋崎からと郡までボートレスをやって伊都国が勝ったなんてどうです?
>>  制海権を伊都国が押さえたんだろうと思います。

博多と関門海峡の中間には古代海上豪族・宗像氏がいる。そして宗像神社。
博多湾東部には和白に安曇氏がいる。そして志賀海神社。
さて伊都国は?
うーん沿岸には海上系の神社、無いですね。
これも伊都国の特徴。
やっぱ伊都国東遷か?




263

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月22日(金)22時04分46秒]

元の発言 [ 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月22日(金)12時59分30秒 ]

江戸時代の論争には銅鐸は大国主命を祭った宝器でそれが神武に滅ぼされる、みたいなこと言ってたような。
銅鐸は、古いのは中国地方以西で出土してますし。新しいのは畿内中心ですね。
銅鐸は製作技術は高かった、とのこと。薄さは約2ミリですが、これほどの薄さはいまの技術をもってしても、出来上がったさいに中を削らなければならないそうです。


264

Re: 伊都国にはない(伊都国と奴国)

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月22日(金)22時07分54秒]

元の発言 [ 伊都国にはない(伊都国と奴国) ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月22日(金)21時42分40秒 ]


>> >> 伊都国からと津屋崎からと郡までボートレスをやって伊都国が勝ったなんてどうです?
>> >>  制海権を伊都国が押さえたんだろうと思います。

>> 博多と関門海峡の中間には古代海上豪族・宗像氏がいる。そして宗像神社。
>> 博多湾東部には和白に安曇氏がいる。そして志賀海神社。
>> さて伊都国は?
>> うーん沿岸には海上系の神社、無いですね。
>> これも伊都国の特徴。
>> やっぱ伊都国東遷か?

馬頭鬼です。
こんばんは、割り込み失礼します。

二つお聞きした員ですけど、
地元で聞きましたが、志賀島にあったという住吉の神社と
平原のそばに有る今は、祭神がわからなくなっている神社は、
どう考えられているんです。
女神が、祭神だと言う事は、伝えられているようですけど?




265

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月22日(金)22時12分52秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 3月22日(金)07時56分01秒 ]

>> >> つまり、権力者の立場のみに精密な地図が、限定で渡されていたと思うのです。
>> >> 其の立場によって、精密度や内容が違うと言うわけです。
>> >> そして、敗戦や降伏する場合など、必ず廃棄するまたは其のシルしに渡されると考えます。
>> >> ならば、残っていないのも推測されるからです。
>> >> 落城の再に、故意に火をかけるでしょう。
>> >> 民間に出ているもので、其れほどのものは無いでしょうし残らないでしょう。

>> 日本の地図ですが、戦国時代くらいの地図を見ると正確な物
>> ではないですね。
>> 局地的なものですが、例えば賤ヶ岳の合戦の地図は、山とか
>> 湖とかかなりいい加減に描かれています。一応、重要な部分
>> については、山から山まで何町、湖の東西、南北が何町とか
>> 書いてありますが、形は適当、中には描かれていない湖や川
>> があったり、描かれていても位置がかなりずれている湖があ
>> ったりします。
>> 関ヶ原の地図は決戦地だけではなく、清洲城、岐阜城なども
>> 描かれていますが、城と道と陣が描かれている程度ですね。
>> 大まかな位置関係を把握する為の物だったのでしょう。

>> 正確な地図があったけど残らなかったというのは、かなり苦
>> しいのではないでしょうか?
>> 賤ヶ岳の古図は、賤ヶ岳七本槍の1人脇坂安治の家に伝わっ
>> た物であり、民間に出ている物ではないです。正確な地図を
>> 使用したのであれば、指揮官、参謀クラスは皆持っていたで
>> しょう。それらが全て失われるというのは無理があるのでは
>> ないかという気がします。

そうなんですか?
ただ当時は、抱え筒や棒火矢なんて結構射程の有る書きも有り。
勾配などでの射程の変化やナンかは、かなりのものがあるように思えますが、
どう考えられておられます?



266

↑三河 太郎さん すいません

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月22日(金)22時19分11秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月22日(金)22時12分52秒 ]

また起っちゃいました。

すみませんが再度の記述を、お長居します。


267

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月22日(金)22時20分30秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月20日(水)22時08分37秒 ]

上の投稿がトラブッたので再投稿。

>> よく思い出してください。
#何を思い出すのですか?御貴殿と一緒に思い出すことは持ち合わせていませんが。

>> 伊勢神宮は、式年遷宮の時には、全ての神宝他を新しく作りなおすのが、慣わしどと言う事です。
>> つまり、別の品物でも、其れを身体と認めて魂入れすれば、其れが本物になるのですから。
#仰るように、式年遷宮にあわせて御神宝、御装束を新し作り直すことは知っています。両方あわせて、約、700種、1600点にも及びます。宇治橋も20年おきに架け替えるようです。
博物館には、お下げした御装束、御神宝の一部が展示されています。
しかし、これらと御神体の作り直しは全く別のことだと思いますが。特例として、御神体が焼失したり、破壊されたりして、形がなくなったときには作り直して入魂しますが、鏡がくもっただけで作り直しをするのはどうでしょうか?本当にそうであれば、大変興味深いです。もう少し詳しく教えていただけませんか。

>> 草薙の剣の例などご存知ですよね。
>> 有る意味これが神道と言うものなのでしょう。
#草薙の剣の例とは良く知らないですが。例の盗難事件に纏わる話ですか?。
私は、神道などに関しては、全くの素人です。御教示いただくと大変ありがたいです。



268

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月22日(金)23時04分20秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月22日(金)22時20分30秒 ]

>> 上の投稿がトラブッたので再投稿。

>> >> よく思い出してください。
>> #何を思い出すのですか?御貴殿と一緒に思い出すことは持ち合わせていませんが。


失礼しました。
記入が足りませんでした。
具体例は、出せませんが、古事記などで、各国の神宝が、
朝廷へ、謙譲させられている事は、ご存知でしょう。

で、謙譲した部族が、祭祀を完全に無くした形跡は有りません。
そして、朝廷にしたがってはいますが、其の国での実権は、持っているようです。
神宝を失えば、祭祀による政治は、出来ないはずです。
では、如何したのでしょう。

推測でしかありませんが、コピーに魂写しして祭祀を続けたと見ています。

>> >> 伊勢神宮は、式年遷宮の時には、全ての神宝他を新しく作りなおすのが、慣わしどと言う事です。
>> >> つまり、別の品物でも、其れを身体と認めて魂入れすれば、其れが本物になるのですから。
>> #仰るように、式年遷宮にあわせて御神宝、御装束を新し作り直すことは知っています。両方あわせて、約、700種、1600点にも及びます。宇治橋も20年おきに架け替えるようです。
>> 博物館には、お下げした御装束、御神宝の一部が展示されています。
>> しかし、これらと御神体の作り直しは全く別のことだと思いますが。特例として、御神体が焼失したり、破壊されたりして、形がなくなったときには作り直して入魂しますが、鏡がくもっただけで作り直しをするのはどうでしょうか?本当にそうであれば、大変興味深いです。もう少し詳しく教えていただけませんか。

私も、以前読んだ記憶があるだけですが、
災害が起り、神社の御神体の鏡が曇ったとき、
其の曇り具合で、神魂が、御神体より離れたと判断された時、
新たな鏡を作り、魂込めを行い、新たな御神体として迎えたと言う事があったそうです。

>> >> 草薙の剣の例などご存知ですよね。
>> >> 有る意味これが神道と言うものなのでしょう。
>> #草薙の剣の例とは良く知らないですが。例の盗難事件に纏わる話ですか?。
>> 私は、神道などに関しては、全くの素人です。御教示いただくと大変ありがたいです。

盗難事件では有りませんが、草薙の剣は、宮中と熱田に二つ祭られているわけです。
熱田には、ホホホの祭りと言うのが伝わっているそうです。
崇神天皇でしたか?どの天皇高は、忘れましたが、一時剣を取り上げて、
宮中か何処かに祭ってあったのを、返したことの祭りだそうです。
はっきりは覚えてないのですが、これ以後、だったか、
宮中では、別の剣を祭っているようです。

災害などが、起り、御神体に異常が出たなどと言うと、御神体を新しくすると言うのは、あっるようです。


269

思いつき

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月22日(金)23時36分52秒]

元の発言 [ 櫛羅 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月18日(月)18時58分46秒 ]

 和名抄での大和國城下郡「黒田」郷の訓は「久留多」です。
 で、「鬼」の音は、藤堂では「kIu6r」(6はeの反対)ですが、もしかして、これって「くる」と読めないでしょうか。
 「黒田」は開墾が進んでから後になって呼び替えられた地名で、元は「黒野(くるな)」で、倭人伝にいう「鬼奴」國だったりして。

 唐古・鍵遺跡のすぐ近くに黒田という地名があって、黒田廬戸宮を営んだ孝霊天皇は「唐古・鍵」のクニの王ではなかったのかという話もありまして、・・

 唐古・鍵が鬼奴國だった!わけない?



27

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月7日(木)12時07分15秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月7日(木)02時04分56秒 ]

 こんにちは!

>> この室津はどこの室津でしょうか?
>> 揖保郡なのか津名郡なのか。
>> 揖保郡ならば途中に明石などもあり寄港できないということは考えにくいです。

 相生市に隣接する室津のようです。で、上記のような話が出ているのですが、翌日には神戸に停泊していたりします。当初は一気に大阪湾を渡るつもりだったけど危ないから海岸沿いに航路を切り替えたのかもしれませんね。まあ、よくわかりません。
 まあ、大阪湾ですら寄港地がないルートは危険なのですから、密に海岸に沿って進むことには意味があるのだといいたいわけです。


270

Re: 平原の諸問題

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月22日(金)23時37分10秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月22日(金)21時30分11秒 ]

>> この古墳、実際見にいきました。めずらしく川のそばにあるのですよ。4世紀半ばとのことです。

たしか川の改装に伴って移築したんでした。
それでも50mほどかな。

>> 森浩一氏はこの鏡の形式に限っていえば、中国での製作かもしれない、とのこと。

初耳です。文献にありますか?

>> 踏み返し鏡だと思ってます。Lの向きが逆だし。

Lの向きが逆であることと踏み返しとは関係ないです。

>> その前にー 年号が入った鏡は黒塚や椿井大塚山では出てません。これはちょっと注意が必要になるのかも。なぜ古いといわれる三角縁年号鏡が発生期の古墳から出土してないのだろう。

発生期の古墳はもっと古いでしょう。
紀年鏡はもとより三角縁神獣鏡そのものが出ていない。

>> 問題はその時期ですね。その前の船載とよばれる優品は北部九州での製作と考えていますが。工人がすぐ大和に来てすぐ優秀品が製作できるのかどうか。

具体的にはどの鏡でしょう?


272

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月22日(金)23時42分50秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月22日(金)08時13分56秒 ]

やましさん こんばんは

私からも質問させてください。(といいつつ、ほとんどマルセの意見になっていますが。)


>> (1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。

#30か国以外の國も、日本列島にいた人を倭種としているのですから、中国人から見れば、九州も四国も本州も大差のない同一文化圏だったのでは?

>> (2)21国が順番になっており、国名が主要地名に対応する。

 #魏使が行っていない、聞いた話の國ですから、これらの國の並びが地理的な順番になっているという保証はないと思いますが。
 それは置いといても、やましさんの比定したように、大国の周囲をぐるっと小国が取り囲んで存在したというのはどうでしょうか。
 それに、地理的に並んでいるとしても、必ずしも一つの数珠のように國が並んでいなければ、国名を「次・・・次・・・」と挙げられないわけではないと思います。例えば、西海道諸国を並べて書くときは「筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩(肥と豊が逆のときもある)」のようになりますが、これは別に数珠つなぎに並べた順ではありません。
 また、倭人伝にあげられている国名が実のところ地名である保証もありません。旁国21か国の中で「奴」で終る國名が「彌奴國」「姐奴國」「蘇奴國」「華奴蘇奴國」「鬼奴國」「烏奴國」「奴國」と7か国、33%もあるのに、和名類聚抄の中であげられている594郡で「な」で終る郡は14、「の」で終る郡は25と、「な」「の」の両方を足しても、6.6%に過ぎません。明らかに、「奴」が多すぎます。「奴」が「野」で、後に開墾されて「田」になった可能性もありますけれど、そうだとしても多すぎると思います。「奴」のつく7か国の幾つかの「奴」は地名に含まれない部分の可能性があると思います。


>> (3)狗奴国は第二奴国、邪馬台国の南にある。
>> (4)第二奴国は女王国の境界の尽きる所にある。

#原文では「次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國」となっているところですが、ここをどう解釈するかですよね。
 「境界」というのは、「自分の勢力のおよぶ範囲」という意味でしょうから、ここの文意は「次に奴國が有り、ここまでで女王の勢力範囲は終わりである。女王の勢力範囲の南に狗奴國がある」とするのが妥当と思います。とすると、狗奴國は、その前にあげられている29國のどれか(一つもしくは複数)より南であれば良く、必ずしも第二奴國や邪馬臺國より「緯度が南」の必要はありません。また、狗奴國はどれかの國に接していなければならないという制限もありませんから、極端な話、別の島でもいいような気もします。
 はっきりいって、これらの國の位置関係は何とでも解釈できるような・・・


++++++++++++++++++++++++
 それと、これらとは別の問題ですが、やましさんは戸数の問題はどう考えているのですか?
 1戸の人数を何人とするかですが、1戸4人としても、四国の中に「投馬國5万戸+邪馬臺國7万戸+α」があれば、50万人くらいの人口にはなるわけです。和名類聚抄の四国の水田面積は3.2万町ですから、平安時代でも四国の人口は30万人くらいしかないんですが。
 ちなみに、九州は10.5万町、畿内+近江は8.9万町であって、これらの地域に比べると四国はだいぶ扶養可能な人口は少なさそうです。


*********************************
参考資料

「な」で終る郡名
 伊勢國桑名郡、参河國八名郡、遠江國濱名郡、遠江國山名郡、武蔵國橘樹郡
 安房國朝夷郡、美濃國恵奈郡、信濃國伊那郡、信濃國更級郡、信濃國埴科郡
 備後國安那郡、淡路國津名郡、伊豫國浮穴郡、肥後國玉名郡

「の」で終る郡名
 山城國葛野郡、大和國吉野郡、河内國交野郡、伊勢國安濃郡、伊勢國飯野郡
 遠江國佐野郡、美濃國大野郡、飛騨國大野郡、上野國緑野郡、越前國大野郡
 越後國魚沼郡、丹後國竹野郡、丹後國熊野郡、因幡國巨濃郡、伯耆國日野郡
 石見國安濃郡、石見國美濃郡、備前國御野郡、備後國甲奴郡、周防國都濃郡
 阿波國板野郡、讃岐國三野郡、筑後國竹野郡、豊後國大野郡、薩摩國頴娃郡

「田」で終る郡名
 河内國茨田郡、伊賀國山田郡、尾張國山田郡、参河國額田郡、遠江國豊田郡
 遠江國磐田郡、下総國豊田郡、近江國坂田郡、美濃國池田郡、美濃國席田郡
 飛騨國益田郡、上野國新田郡、上野國山田郡、下野國梁田郡、陸奥國刈田郡
 陸奥國柴田郡、陸奥國菊田郡、陸奥國新田郡、陸奥國小田郡、陸奥國遠田郡
 出羽國秋田郡、丹波國桑田郡、丹波國天田郡、美作國勝田郡、備中國小田郡
 備後國葦田郡、安藝國沼田郡、安藝國高田郡、安藝國沙田郡、紀伊國在田郡
 讃岐國山田郡、讃岐國刈田郡、筑前國席田郡、肥後國飽田郡、壱岐嶋石田郡
 遠江國長上郡(旧長田郡)、遠江國長下郡(旧長田郡)
 美作國苫西郡(旧苫田郡)、美作國苫東郡(旧苫田郡)


273

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [3月22日(金)23時50分38秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月21日(木)08時35分20秒 ]

馬頭鬼さん、こんばんわ。

当時(紀元前1世紀から3世紀あたり)の科学を以ってすれば、お話のことは技術的には可能でしょう。それであれば何も日の出入りまで考えなくても、棒を一本立てれば正確に方位は判定できますし、測定点で日の出を見るという事は星が出ている時刻に定点にいると言うことに他なりません。

であれば、北極星から北方向を決めることもできたはずですね。




274

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月22日(金)23時56分24秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月22日(金)20時08分07秒 ]

>>  僕はクニごとに王様はいたと考える。ただ、外国人の視点から、その中でも更に王と呼ぶにふさわしい3人を王として記録したと思う。「KING OF KING」やね。

世々王あるも…
の「世々」ですが、伊都国の時系列としてではなく、対海国、一大国,末盧国、伊都国というふうに面的な意味には読めないのかしらね。それぞれの国に王がいるけれど、すべて女王に統属する、というふうに。

>>  それが卑弥呼を共立したのは前回も言ったけど、宗教を権力に取り込んでその安定化を目指した。
>> 「倭国の大乱」はそれほど深刻なものだったのでしょう。

 たぶん、いい加減疲れて、この辺で手を打とうやって手打ち式みたいなものだったのではないかと思います。
 結局、男王が立てば国同士の面子が立たないから、権力者としてではなく権威、象徴の意味があったんだと思います。このあたりは、今でも残ってる日本的なるものみたいなもののような気がしています。
 
十三の台与が王になると言うことは実務者レベルというか行政組織は一応機能していたと考えてよいわけだから、これまた象徴的な、権威的な意味合いがあったんでしょう。

>>  宇佐神宮の建っている「亀山」こそが卑弥呼の墓やないか?確かに「豊」からは少しずれた位置にあるけど、大昔の話やしこれくらいなら許容範囲かなと思っとる。

 時代的には、ちょっと新しいらしいですよ。


276

Re: 平原の諸問題

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月23日(土)01時17分46秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月22日(金)23時37分10秒 ]

>> >> この古墳、実際見にいきました。めずらしく川のそばにあるのですよ。4世紀半ばとのことです。

>> たしか川の改装に伴って移築したんでした。
>> それでも50mほどかな。

>> >> 森浩一氏はこの鏡の形式に限っていえば、中国での製作かもしれない、とのこと。

>> 初耳です。文献にありますか?

こんばんわ。
割り込みしユ礼します

そういえば、読んだ事があります。
改修で、未発掘のまま水に沈んだり、壊された古墳の事を、
其のため、関係者の方が、自決されととか。
失礼記入すべきではなかったかもしれません。


277

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月23日(土)01時25分18秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 3月22日(金)23時50分38秒 ]

>> 馬頭鬼さん、こんばんわ。

>> 当時(紀元前1世紀から3世紀あたり)の科学を以ってすれば、お話のことは技術的には可能でしょう。それであれば何も日の出入りまで考えなくても、棒を一本立てれば正確に方位は判定できますし、測定点で日の出を見るという事は星が出ている時刻に定点にいると言うことに他なりません。

>> であれば、北極星から北方向を決めることもできたはずですね。

確かにそうです。
ただ、夏至と冬至の線や彼岸の線など野イメージが強すぎまして、
あと、平行の直線と言う事で、そちらの方から考えてしまいました。

しかし考えてみると、このことで隋の煬帝の運河工事なんか、
どの程度の測量をされたのかに、興味が沸いてきます。




278

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月23日(土)07時56分55秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月22日(金)23時42分50秒 ]

マルセさん、おはようございます。

>> 私からも質問させてください。(といいつつ、ほとんどマルセの意見になっていますが。)

>>
>> >> (1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。

>> #30か国以外の國も、日本列島にいた人を倭種としているのですから、中国人から見れば、九州も四国も本州も大差のない同一文化圏だったのでは?

中国人から見れば似ていたでしょうね。
ただ、それぞれが国を名乗っている以上、
それぞれの国の中での文化は同一で、
その中での交流は特に活発だろうという考えです。

邪馬台国も大国とはいえ、自然な形で一つの国として
まとまっていたと期待したいのです。
たとえば、その国内での一般的な物資の交流は他国に対するよりも
盛んであろうし、祭器もそれほど変化はないだろうという期待です。
それと同様にもうひとつの大国の投馬国もそういうことを
期待したい、ということです。

>> >> (2)21国が順番になっており、国名が主要地名に対応する。

>>  #魏使が行っていない、聞いた話の國ですから、

なぜ聞いただけで行っていないことが断言できるのでしょう。
行かずに済むわけがないということは、他の史料からもうかがえますが。

>> これらの國の並びが地理的な順番になっているという保証はないと思いますが。

もし、正史で接続詞を使っているのに地理的に順番でないという例が多いのなら
そういってもよいでしょうが、そうではありません。

>>  それは置いといても、やましさんの比定したように、大国の周囲をぐるっと
小国が取り囲んで存在したというのはどうでしょうか。

「旁国」なんですから、傍らの国でいいんじゃないですか?
まあ、ほかの解釈もあるでしょうけど。
もし、私が比定地の国々の地理を述べるなら、倭人伝のようにしますが、
他にどういう順番で述べられるでしょうか?

>> 例えば、西海道諸国を並べて書くときは「筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・
大隅・薩摩(肥と豊が逆のときもある)」のようになりますが、これは別に数珠つなぎに
並べた順ではありません。

正式に地理を述べるときに上の並びで「次に・・・次に・・・」
と記述しませんよね。韓伝においても、国々が述べられていますが、
接続詞が使われていません。韓伝での国々は順番で表せるような配置でなく、
倭人伝での国々は順番だったということでしょう。

>>  また、倭人伝にあげられている国名が実のところ地名である保証もありません。
旁国21か国の中で「奴」で終る國名が「彌奴國」「姐奴國」「蘇奴國」「華奴蘇奴國」
「鬼奴國」「烏奴國」「奴國」と7か国、33%もあるのに、和名類聚抄の中であげられている
594郡で「な」で終る郡は14、「の」で終る郡は25と、「な」「の」の両方を足しても、
6.6%に過ぎません。明らかに、「奴」が多すぎます。「奴」が「野」で、後に開墾されて
「田」になった可能性もありますけれど、そうだとしても多すぎると思います。「奴」のつく
7か国の幾つかの「奴」は地名に含まれない部分の可能性があると思います。

「奴」は確かに多いですね。接続詞の「の」ではないかと主張される方もいますが、
使われてない国もあるので変ですよね。もちろん、可能性がないとはいえません。
ただ、私の比定案では地名の中にある「な」だったという主張です。

弥生時代あたりでは「山」や「島」と同様な地形名「な」だったのでしょう。
しかし、上代になると各地域の交流が盛んになり、
区別がつかないような地名は郡名としては好まれなかったということ
も考えていいと思います。
あと、以下のような佳字二字化の影響などもあるかもしれません。
『古い音読みの撥音にはmとnがあり、それらに母音を付けたもので地名を表記
することがある。元明天皇の和銅六年(713)5月2日の官命において、
「畿内、七道の諸国は、郡、郷の名には好き字をつけよ」とされたことに由来する。
「しなの」の場合は「信」のn撥音にaをつけて「信濃」に、 「なにわ」の場合は
「難」にiをつけて「難波」となった。 面白い例として「なましな」=「男信」
(上野国利根郡?)は、mとn両方を適用している。』

>> >> (3)狗奴国は第二奴国、邪馬台国の南にある。
>> >> (4)第二奴国は女王国の境界の尽きる所にある。

>> #原文では「次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國」となっているところですが、
ここをどう解釈するかですよね。
>>  「境界」というのは、「自分の勢力のおよぶ範囲」という意味でしょうから、
ここの文意は「次に奴國が有り、ここまでで女王の勢力範囲は終わりである。
女王の勢力範囲の南に狗奴國がある」とするのが妥当と思います。とすると、
狗奴國は、その前にあげられている29國のどれか(一つもしくは複数)
より南であれば良く、必ずしも第二奴國や邪馬臺國より「緯度が南」の必要はありません。
また、狗奴國はどれかの國に接していなければならないという制限もありませんから、
極端な話、別の島でもいいような気もします。
>>  はっきりいって、これらの國の位置関係は何とでも解釈できるような・・・

そういうあいまいな解釈もありえないことはないでしょう。
ただ、極南界「奴国」とかいうのもあるし、わざわざ一文を追加したのだから
何らかの意味があるのだろうと思いたくもなります。
あと、邪馬台国と狗奴国は敵対していたのだから、それほど遠い距離には
なかっただろうと推測しています。

>>  それと、これらとは別の問題ですが、やましさんは戸数の問題はどう考えているのですか?
>>  1戸の人数を何人とするかですが、1戸4人としても、四国の中に「投馬國5万戸+
邪馬臺國7万戸+α」があれば、50万人くらいの人口にはなるわけです。和名類聚抄の四国
の水田面積は3.2万町ですから、平安時代でも四国の人口は30万人くらいしかないんですが。
>>  ちなみに、九州は10.5万町、畿内+近江は8.9万町であって、これらの地域に比べると
四国はだいぶ扶養可能な人口は少なさそうです。

そうですね。戸数の実数に関しては、難しい部分ですね。
「奴国」の比定範囲をどうとるかで変化しますが、
単純な面積では3.5倍、2.5倍と考えても悪くなさそうです。
しかし平地が少ないので水田面積からいえば50万人には到達しませんね。

この問題に関しては「可七万余戸」「可五万余戸」というあいまいな記述
が気になります。どのように戸数を割り出したが分かればいいのですけど。
これに関しては、いまは正確なことは述べられそうにありません。


279

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [3月23日(土)08時51分50秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月22日(金)22時12分52秒 ]

>> >> 日本の地図ですが、戦国時代くらいの地図を見ると正確な物
>> >> ではないですね。
>> >> 局地的なものですが、例えば賤ヶ岳の合戦の地図は、山とか
>> >> 湖とかかなりいい加減に描かれています。一応、重要な部分
>> >> については、山から山まで何町、湖の東西、南北が何町とか
>> >> 書いてありますが、形は適当、中には描かれていない湖や川
>> >> があったり、描かれていても位置がかなりずれている湖があ
>> >> ったりします。
>> >> 関ヶ原の地図は決戦地だけではなく、清洲城、岐阜城なども
>> >> 描かれていますが、城と道と陣が描かれている程度ですね。
>> >> 大まかな位置関係を把握する為の物だったのでしょう。

>> >> 正確な地図があったけど残らなかったというのは、かなり苦
>> >> しいのではないでしょうか?
>> >> 賤ヶ岳の古図は、賤ヶ岳七本槍の1人脇坂安治の家に伝わっ
>> >> た物であり、民間に出ている物ではないです。正確な地図を
>> >> 使用したのであれば、指揮官、参謀クラスは皆持っていたで
>> >> しょう。それらが全て失われるというのは無理があるのでは
>> >> ないかという気がします。

>> そうなんですか?
>> ただ当時は、抱え筒や棒火矢なんて結構射程の有る書きも有り。
>> 勾配などでの射程の変化やナンかは、かなりのものがあるように思えますが、
>> どう考えられておられます?

抱大筒が多用されたという話は知りませんねえ。
信長が使った大筒の中に、これがあったのではないかと言う
説は知っていますが、恐らく珍しい武器だったのではないで
しょうか。戦国時代の射程距離についても私には分かりませ
ん。恐らくそれ程長くはなかったと思いますが。江戸時代の
記録は残っているようです。
棒火矢は江戸時代になってから発明された武器だったと思い
ます。


28

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月7日(木)12時27分30秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月6日(水)21時57分58秒 ]

>> 最近の考古学の成果は記紀と一致することがおおく、
#例えばどんな成果ですか。後学のために教えてください。


280

Re: 平原の諸問題

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月23日(土)10時56分40秒]

元の発言 [ Re: 平原の諸問題 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月22日(金)21時30分11秒 ]

こんにちは。
出雲の加茂神原神社古墳の「景初三年」銘三角縁神獣鏡について
>> この古墳の鏡は三角縁の中でも特殊です。神獣が重列式に配置されてる。

昨晩読んだときに「おやっ?」と思ったのです。
調べてみましたが、同向式に分類されています。
重列式の画文帯神獣鏡は写真で何枚か見ましたが、趣が違います。この三角縁神獣鏡は重列式ではないと思います。
他の鏡と勘違いされてませんか?

この景初三年銘の三角縁神獣鏡ですが、僕も実物を見たことがあります。印象としてはどうも鈍い。
陳さんが雑なのかもしれませんが、踏み返しの可能性もありはしないかと思っています。


281

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月23日(土)11時26分07秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月22日(金)22時04分46秒 ]

東奈良遺跡ではそうとう遅くまで銅鐸が作られていたらしい。
奈良盆地で前方後円墳が作られている時代に、東奈良ではまだ銅鐸が作られていたのだろうか。二つの「文化圏」はどの程度厳しく対立していたのだろうか。


282

Re: 土佐説(21カ国比定)

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月23日(土)14時36分58秒]

元の発言 [ Re: 承前 土佐説(邪馬四さんへ) ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月10日(日)19時46分36秒 ]

>> >> 大論争でも里程論については、ずいぶん議論がされていますが、「土佐耶馬台国論」
 における里程が、魏志倭人伝の記述に対し、方位、距離ともに合致する可能性が
 もっとも高いのではないかと考えています。
>> >> 四国説の場合は、ぜひこのルートも検討してみてください。

>> そうですね。方向は土佐が一番近いので、この説があるのも理解できます。
 土佐はこの当時仁淀川あたりを境にして、西土佐と東土佐が
 文化的に分れていたようですが、両方が邪馬台国の範囲でしょうか?
 「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」は、
 きっと本州とするわけですね。
>> 狗奴国が第一の問題になるのですが、どうされていますか?
 あと、どの説だろうと最大の難関なのですが、
 旁国21国をどのように配置しますか?
 地図を作ってみると、他の人にもわかりやすいです。

不充分ながら、これ以上考えても時間を費やすばかりで、完成出来そうもないので、引き続き不明なところは考えていくことにします。
21カ国については、いままであまり重要視していませんでしたが、やってみるといろいろ勉強になりました。

私の比定の方針としては、

@ 「奴」は「野」としてかんがえました。
  平野部の少ない四国ではもっとも広いと思われる松山平野を奴国にあて、
  讃岐平野は「蘇」の文字から蘇奴とし、「蘇」の続く9から12は香川県としました。

A 21カ国の始まりは、2、3番目の伊尾木(いおき)、祖谷(いや)のつながりから、
  1番目の斯馬国を高知県室戸市付近とし、四国の南東から北東、南西、北西へ順次配置しました。

B 13から17までの高知県の部分は、高知県の実際の地名との対応はさせていません。
  倭国が土佐から奈良へ日本国として遷都した際に、地名も移動したと考えます。
  当時は、倭国の都を邪馬壹として、東方に紀路の国として、木国、紀の国などがあり、
  西方に春日国があったが、現在の地名には残っていないと考えます。

C 国名の音は私にはわからないので、やましさんのものを使わせていただきました。  

   国名   音     比定地          類似地名(対応音)

 1 斯馬   しま    高知県室戸市 島 (しま)地形名
 2 已百支  じぱき   高知県安芸市       伊尾木(いおき)
 3 伊邪   いや    徳島県三好郡       祖谷 (いや)
 4 都支   たき    徳島県阿南市、那賀郡 牟岐、由岐、木岐などと関連
 5 彌奴   みな    徳島県美馬郡、三好郡   三野 (みの)
 6 好古都  ほかた   徳島県徳島市、名東名西郡 名方 (なかた)
 7 不呼   ぷは    徳島県阿波郡、麻植郡 阿波に関連した名称か?
 8 姐奴   しぁな   徳島県板野郡、鳴門市 板野 (いたの)
 9 對蘇   とゐさ   香川県小豆島 土庄 (とのしょう)
10 蘇奴   さな    香川県高松市 讃岐 (さぬき)
11 呼邑   はよぷ   香川県綾歌郡 綾 (あや)
12 華奴蘇奴 ふぁなさな 香川県三豊郡、愛媛県川之江市  対応不明 
13 鬼    くゐ    高知県長岡郡 木  (き)地形名
14 爲吾   わんが   高知県香美郡北部 韮生 (にろう)
15 鬼奴   くゐな   高知県香美郡南部     紀乃 (きの)
邪馬壹  やまと   高知県高知市、南国市
16 邪馬   やま    高知県土佐郡、吾川郡北部 山  (やま)地形名
17 躬臣   くずん   高知県土佐市、吾川郡南部 春日 (かすが)
18 巴利   ぱり    高知県幡多郡、高岡郡 幡多 (はた)
19 支惟   きゆゐ 愛媛県宇和島市、南宇和郡 対応不明
20 烏奴   をな    愛媛県宇和郡 宇和 (うわ)
21 奴    な     愛媛県松山市 野  (の)地形名
22 狗奴   こな    愛媛県周桑郡、浮穴郡   久万 (くま)

配置は下記のような具合です。
見にくいですが、四国の地図を思い浮かべて見てください
      對蘇
       蘇奴
奴    華奴蘇奴 呼邑  
狗奴 彌奴 不呼 姐奴  
邪馬  鬼  伊邪  好古都
  烏奴 爲吾  都支
躬臣 邪馬壹  鬼奴  已百支
巴利    斯馬
 支惟

やましさんが女王国に比定されている、那賀郡の付近は私としては出雲国があるはずだと考えていました。
徳島県の神社名は高知県に比べて古い時代の名称がついていると思われますし、剣山の周辺の地域が神話の舞台として適当かと考えたためです。
また現在の地名における、安芸(広島県)と出雲(島根県)の位置関係も高知県の安芸市と徳島県の那賀郡の南北のならびに一致しています。

そこで、21カ国のなかに出雲の地名をさがしてみるものの見つかりませんでした。

今回、斯馬国を室戸市付近に比定したことで、那賀郡付近に都支国があてはまることになりました。
ここで思いついたのは、志摩に対する伊勢が、室戸市(斯馬国)に対する海部郡(伊勢)にあたるのではなかろうかということです。
古代の徳島県には阿波国とは別に、古代の出雲、伊勢を含む国として、都支国(古事記には都祁の名が見えます)が神々を祭る国として存在したようにも思えます。


283

Re: すみません地図が失敗でした

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月23日(土)14時46分50秒]

元の発言 [ Re: 土佐説(21カ国比定) ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月23日(土)14時36分58秒 ]

>> 配置は下記のような具合です。
>> 見にくいですが、四国の地図を思い浮かべて見てください

全く地図になっていないので無視してください。
それに21カ国の表も見にくいですね。

本当はもっとそれらしく見えるかと思ったのですが。




284

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月23日(土)18時54分04秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月23日(土)07時56分55秒 ]

こんばんは 


>>自然な形で一つの国としてまとまっていたと期待したいのです。
>>投馬国もそういうことを期待したい

#つまり、「(1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。」のところは、24か国比定に必要な条件ではなくて、「そうだったらいいな」というやましさんの願望ということですね?

+++++++++++++++++++++++++++++++
>>なぜ聞いただけで行っていないことが断言できるのでしょう。

#「自女王國以北其戸數道里可得略載。其餘旁國遠絶不可得詳」と書いてあるのですから、「旁國については、国名以外は基本的な事項すらもわからない」ってことではないのですか?魏使が行って現地を確認しているならば、「不可得」と書くのは変と思います。「不要」というならわかりますけれど。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>行かずに済むわけがないということは、他の史料からもうかがえますが。

#具体的に、どういう史料を指しているのでしょう?

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>もし、正史で接続詞を使っているのに地理的に順番でないという例が多いのなら
>>そういってもよいでしょうが、そうではありません。

#「次」とあるので、「順不同ではなくて、何らかの意味のある順番で並んでいる」という考え方は理解できますけれど、

>>韓伝においても、国々が述べられていますが、接続詞が使われていません。韓伝での国々は順番で表せるような配置でなく、倭人伝での国々は順番だったということでしょう。

#『単に国名を並べてあげるときは、数珠つなぎでなく、「次有・・次有・・」として国名をあげるときは、数珠つなぎに並んでいる』という明確なルールが存在しているということですね?私には、そのようなルールがあったとはとても思えないのですが、これは、なにか具体例があって仰っているのでしょうか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>「旁国」なんですから、傍らの国でいいんじゃないですか?
>>まあ、ほかの解釈もあるでしょうけど。
>>もし、私が比定地の国々の地理を述べるなら、倭人伝のようにしますが、
>>他にどういう順番で述べられるでしょうか?

#そういうことではなくて、「大国の周りをぐるっと取り囲んで,数珠つなぎに小国が21もある」という「状態」がそもそも不自然ではないかということです。例えば、四国の西側は小国が分裂していて、東側は一つの国だったというなら、まだ話がわかりますが。ソ連時代のロシアの周りの衛星国みたいなものですか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>あと、以下のような佳字二字化の影響などもあるかもしれません。

#ここ以降の仰る意味がわかりません。「佳字二字化によって、地名の読み方が替わった」ということでしょうか?
 「男信」についてはわかりませんが、「信濃」や「難波」は佳字二字化の前から「科野」と「難波」ですので、それぞれの「しなの」や「なにぱ」という読み方が、二字化によって変化したようには思えませんが。
 また、書紀や木簡資料から、二字化前に3字以上で書き表された地名を集めてみますと、尾張國「年魚市」評、近江國「阿佐為」評、上野國「大荒城」評、若狭國「小丹生」評、隠岐國「知夫利」評、肥國「玉杵名」邑などがあります。これらは、和名抄では、それぞれ、愛知(阿伊知)郡、浅井(阿佐井)郡、邑楽(於波良岐)郡、遠敷(乎爾不)郡、知夫(訓なし、ただし現在でも知夫里島)郡、玉名(多萬伊奈)郡と漢字二字で書き表されていて、推定される読み方は「a-yu-chi」→「a-i-chi」、「a-sa-wi」→「a-sa-wi」、「O-pu-a-la-ki」→「o-fa-la-ki」、「wO-ni-pu」→「wo-ni-fu」、「chi-bu-li」→「chi-bu-li」、「ta-ma-ki-na」→「ta-ma-i-na」です。ここからは、奈良から平安にかけての一般的な変化を超えて音韻が変化した様子は伺えません。佳字二字化は、あくまで表記の変更に過ぎず、これの影響を受けて、地名の読み方自体が変わってしまったなんてことはないでしょう。
 これ以外のニ字化のパターンとしては、「春日部」→「春部」とか「磯城上」→「城上」とかの漢字を1字無理やり取り去ったものもありますけれど、この場合も読み方は特に変化していません。

 それに、和銅六年以前に見られる地名でも二字が多いので、このときの官命によって強引に二字になった地名は少ないのでは。
 倭語の地名を漢字に直したときに、
  1)基本は1音を1字で表記
  2)漢字に丁度よい文字がある一部の2音の組み合わせは、2音分を1字で表記
  3)これらの工夫をしてもうまく短く書けない地名の場合は訓で表記
といった具合で、もともと、地名は2文字くらいになるようにしていたように思えます。

 2音分を1字で表す例
−m  男(なむ)  品(ほむ)  覧(らむ)
−n  難(なに)  信(しな)  印(いな)  君(くに)  丸(わに)
−k  博(はか)  筑(つく)
−ng  香(かが)  相(さが)  當(たぎ)
−t  越(をち)  八(はち)


285

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月23日(土)21時24分13秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月22日(金)01時09分15秒 ]

>> >> 県の広さは(平均すると)おおよそ方百里であると言っている訳で、県の面積は分かっていたと考えるのが普通じゃないですか?

>> これは滅茶苦茶大雑把ですね。
>> これくらいのことは分かっていたと思いますよ。

大雑把な直線距離も判っていた。

>> >> 正確な地図でなくても良いんです。ずっと前からそういっています。
>> >> ±20%も狂った地図などそれで日本地図書いたら奇天烈な地図になる事請け合いです。

>> 日本の古い地図は奇天烈な形状に書いてありますね。

>> >> 韓国みたいに単純な形状なら±20%狂っても韓国と判る程度でしょうが。
>> >> その程度の地図はあって当然だろうと思いますよ。

>> 測量に基づかない地図はあったんですよ。
>> 人と物の移動に基づく情報を表した地図が。

ようやくピクポポデミさんのおっしゃっている事が判りました。
要するに伊能忠敬のように広範囲に測量をして作った地図は無かったということですね。
そして不正確な地図はあった。

私も伊能忠敬のように精密な測定を積み上げた地図があったとは考えません。
そして±20%程度の不正確な地図はあった。
その程度の地図に基づいて直線距離を倭人伝の中に表記したのだろうと。

>> >> その程度の地図がなくて戦争なんか出来ないでしょう。
>> >> 作戦も練れやしない。

>> 要所要所の間の人と物の移動に関する知識があれば十分です。

>> >> 戦争は線でやるものではなく面でやるのです。
>> >> 道のりだけでは戦争はやれません。

>> 秀吉の中国大返しのときに、畿内までの方位と距離が重要だったでしょうか。
>> 途中の道のりがどうで、徒歩の移動にどれだけかかるか、馬はどうか、物資の移動はどうか、それがわかれば他に何が必要ですか。
>> 戦場の選択、戦場における陣形などは、地図レベルの情報ではなく、もっと詳細な局所地形が重要でしょう。
>> 騎兵の突撃は可能か、歩兵の移動はどうか、輜重兵はどう動かすか。
>> いずれも要所間の道のり、または詳細な局所地形が重要で、直線距離や方位は関係ありません。

関係あるかどうかはともかく秀吉以下全ての武将がそのあたりの地理は地図の有無に関わらず皆判っていたでしょう。
あまり参考になりません。

賎ケ岳の戦いの方が戦略上の説明には面白いかも。

>> >> どうして三世紀の人の関心が地勢や面積に無いと判るのでしょう。
>> >> 東夷伝にも地勢や面積に韓する記載が沢山あるのに。

>> 地勢や面積に関心は有ったでしょう。
>> しかし実際に人と物が動くことに関する関心、収穫量に関する関心では有っても、相互の地点間に関する幾何学的な情報に関する関心ではなかったでしょう。
>> そんなものは日常必要が無いのです。

日常の必要で国書を書くのですか?過去の国の事なんか日常に何の関係もないでしょう?
国勢を表す指標として国の面積や人口、兵力なども調査してあるでしょう。
倭国については軍人の性格など記載していませんから将来中国の脅威にならないとの判断から邪馬台国の細かい調査はしなかったかもしれませんが。
調査は日常の必要ではなく将来の脅威に備えるものです。

>> 我々が日常見る、お店や、役所、観光地などの案内地図は、どう行けばいいのか、どれくらいかかるのかを中心に書いてあって、幾何学的な形状はほとんど無視されています。
>> むしろ到着するために必要な部分を拡大してくれた方が分かりやすいです。
>> ドライブする際に目的地が自分の家からどちらの方位に何キロ有るかはどうでもいい情報です。
>> むしろどうやっていくのか、高速は使えるのか、途中の道が入り組んでいないか、極端に細い道でないか、時間はどれくらいかかるのかが重要です。

目的地はいつも邪馬台国なんですか?
辰韓で戦争した事もあります。
当然この地の地理も詳しくなっていた筈です。
韓国内が目的の旅も多かったのではないでしょうか?
途中の国の地理はどうでも良かったとは考えられません。

>> 技術があるからやったはず、というのは暴論で、我々は現在月に人間を送る技術は持っていますが、かっての国家威信のような、それを行う理由がなくなったので行わなくなりました。

技術があって必要があればやるでしょう。
必要に応じて精密だったり大雑把だったり。

必要は全く無いとはいえないでしょう。
単なる知識欲と言う程度でもやるかもしれない。
伊能忠敬だって始めから幕府の命令で測量した訳じゃ無かったと思いましたが。


287

Re: 思いつき

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月23日(土)22時58分22秒]

元の発言 [ 思いつき ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月22日(金)23時36分52秒 ]

>>  和名抄での大和國城下郡「黒田」郷の訓は「久留多」です。
>>  で、「鬼」の音は、藤堂では「kIu6r」(6はeの反対)ですが、もしかして、これって「くる」と読めないでしょうか。

どうもIuぐらいで日本語のウに近くなるらしいです。
ですからクまではいけそうに思っています。
子音韻尾が残っていたかどうかは疑問ですが。

>>  「黒田」は開墾が進んでから後になって呼び替えられた地名で、元は「黒野(くるな)」で、倭人伝にいう「鬼奴」國だったりして。

>>  唐古・鍵遺跡のすぐ近くに黒田という地名があって、黒田廬戸宮を営んだ孝霊天皇は「唐古・鍵」のクニの王ではなかったのかという話もありまして、・・

このはなしは面白そうなんです。

>>  唐古・鍵が鬼奴國だった!わけない?

唐古・鍵は地形的には邪馬じゃなさそうですよね。
ちょっと悩ましい所です。




288

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [3月23日(土)23時17分44秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月23日(土)11時26分07秒 ]

おじゃまします。
トンデモの佐留です。

>> 東奈良遺跡ではそうとう遅くまで銅鐸が作られていたらしい。
>> 奈良盆地で前方後円墳が作られている時代に、東奈良ではまだ銅鐸が作られていたのだろうか。二つの「文化圏」はどの程度厳しく対立していたのだろうか。

毎度おなじみのパターンですが、

銅鐸圏=狗奴国=日本国=前方後円墳国家=ついでに騎馬民族国家だと考えます。

前方後円墳の多く存在する場所と銅鐸の多く出土する地域に注目してください。

岡山県に前方後円墳が多いとすると兵庫県に銅鐸が多く出土しています。
香川県に対する徳島県、大阪府に対する京都府、滋賀県、また奈良県に対する和歌山県など、前方後円墳の多く存在する場所のとなりの府県に多くの銅鐸が出土しています。
そして銅鐸も前方後円墳と同じく東から西に移動していきます。

これは何を意味するでしょう。
あたりまえの話ですが、古墳を持って逃げるわけにはいけませんが、銅鐸ならなんとか持ち運び可能です。
しかし追っ手の追撃が長く続くと、どこかに埋めて身軽な体で逃げたほうが身のためではないでしょうか。

前方後円墳国家は三角縁神獣鏡に見られるように、銅の鋳造技術はお得意です。銅鐸も彼らの祭器としてつくられたものではないでしょうか。
前方後円墳国家の東への敗走が、銅鐸の出土地域の分布と埋蔵という状況を生んだものと思われます。

というわけで、土佐説的には倭国との戦いにやぶれた日本国(狗奴国)の東行が前方後円墳と銅鐸の位置関係にあらわれており、
二つの「文化圏」の対立とは倭国大乱そのものであると考えます。

前方後円墳の九州北部や四国北部への拡散により、銅鐸文化圏=日本国側の有利に始まった倭国大乱でしたが、前方後円墳と銅鐸の動きでわかるように、銅矛文化圏=倭国側の反撃により日本国側の負け戦となっていったと考えます。

追伸 土佐説のほうの議論は、やましさんとの21カ国比定を先にすましてからと思い、
   少しおやすみさせてもらっています。



289

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月23日(土)23時41分28秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月21日(木)22時36分08秒 ]


>> >> (一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。中臺圓形座也。圓外日天八座。)

周代の小尺=咫=18cm
(18X八咫)÷3.14(円周率)=45.86cm(直径)≒46.5cm(平原の超大型内行花文鏡)

ほらね。(^o^)

ま、八咫が、とにかく大きいと言う意味の比喩かもしれませんけれど。


290

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月24日(日)00時23分14秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月22日(金)09時26分39秒 ]

>> 一方のローマ人は、その水道、ローマ街道の事業からして、相当広範な測量を行ったことは確実で、もしも彼等が射程の長い兵器を持っていたら、全土にわたる測量網を組織し、後世を驚かすような緻密な地図を作ったかもしれません。

一つ気付いたんですが、道路建設用の地図とか、水道建設用の地図、
都市の上下水道建設地図なんか残っていないのでしょうか。
道路はともかく、水道となれば土地の高低など正確にわかってないと水は巧く流れませんよね。
今でも使われている水道橋を含む水道設備とか。
地図なしでどの様にコースを決めたのでしょう?
また建設には、地盤の問題を有りますよね。

>> しかし大砲も持たず、現実的なローマ人は、拠点間を移動するための道路マップしか残していません。
>> 土地の測量は文明発生以来行われていますが、測量に基づく地図は近代まで現われていません。

>> 無論中国でもヨーロッパでも、近代以前に方位と距離に基づいた、おおよそ正しい地図は作られています。
>> しかしそれは道のり情報を精密化して得られたもので、測量による地図ではありません。
>> そのような地図であれば存在したでしょう。

>> 古代にあって何百キロも遠く離れた二点間の距離と方位を、道のりによる概算でなく、測量データの積み上げで表した例を知りませんし、洋の東西を問わず世界史の例をみても、実用的でなかったことは明らかと思います。
>> したがって確実な反例がなければ考えを変える理由もありません。

では、万里の長城や運河の建設用の地図なんかも無かったのでしょうか?

そう言えば、インカ帝國の水道や都市計画なんて凄いものがありますが、
地図とか図面とか、使わずにあれだけのものを使ったのでしょうか?



291

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月24日(日)00時55分44秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月23日(土)11時26分07秒 ]

>> 東奈良遺跡ではそうとう遅くまで銅鐸が作られていたらしい。
>> 奈良盆地で前方後円墳が作られている時代に、東奈良ではまだ銅鐸が作られていたのだろうか。二つの「文化圏」はどの程度厳しく対立していたのだろうか。

失礼します。
まづ考えなければ成らないのは、銅鐸による祭儀の内容ではないでしょうか?

私は、銅鐸と銅矛や鏡の文化は、そんなに対立はしないのではないかと考えます。

銅鐸自体を祭っていたのならともかく、如何も銅鐸は、祭器であり、御神体とは、おもえないからです。
後期になると権力を誇る威信財になっているようですが、
それにしても、埋葬時に輻輳されている例を聞かないなど、
特異な位置にある祭器です。

銅鐸は、祭りの時以外は箱に入れ埋納しておくものらしい事が判っています。

あと、中国の戦国時代に似たような楽器が使われている事です。
天を祭る旋律を奏でるために使われたらしいですが、
祭りの時に、感謝を込めて調べを奏でたと思います。

つまりは、鏡や剣や鉾と言ったものとともに祭りながら、
聖なる調べを奏でると言った事も想像できるからです。

銅鐸は鋳造技術においては、鏡など比べ物にならないほど高度なものです。
ヤタノ鏡と言われるような、大きく薄いものなって始めて匹敵するようなものです。

ですが、如何して九州では、出土が少ないのでしょうね?
トンでも的には、かなり後期まで使われていたのではないかと考えます。
そして、仏教の伝来とともに神仏習合の中で鋳直されて撓ったのではないか?
星野 宣 先生の「ヤマタイカ」が如何もダブってしまうんです。


292

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月24日(日)07時04分11秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月23日(土)18時54分04秒 ]

こんばんは。

>> >>自然な形で一つの国としてまとまっていたと期待したいのです。
>> >>投馬国もそういうことを期待したい

>> #つまり、「(1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。」のところは、
24か国比定に必要な条件ではなくて、「そうだったらいいな」というやましさんの
願望ということですね?

原始的な国ならば自然にそうなると思います。
九州北部で比定された国々もそうなっているようだし。
もちろん現代では文化的に異なる地域を強引にまとめて
線引きしている場合もありますけど、
弥生時代にそういうことがあったとは認めにくいです。
これは別に私独自の説ではないと思いますが。

>> +++++++++++++++++++++++++++++++
>> >>なぜ聞いただけで行っていないことが断言できるのでしょう。

>> #「自女王國以北其戸數道里可得略載。其餘旁國遠絶不可得詳」と書いてあるのですから、
「旁國については、国名以外は基本的な事項すらもわからない」ってことではないのですか?
魏使が行って現地を確認しているならば、「不可得」と書くのは変と思います。「不要」
というならわかりますけれど。

なるほど、旁国に行ったかどうかということですか。
邪馬台国には行かねばならなかっただろうと言いたかったのです。
旁国には正式には行っていないだろうと思います。
邪馬台国に行く途中にいくつかの国に寄港したか
滞在期間中に訪問したかもしれない程度ですね。

>> ++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>> >>行かずに済むわけがないということは、他の史料からもうかがえますが。

>> #具体的に、どういう史料を指しているのでしょう?

「汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。
これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、
金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。
汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。」
とされている邪馬台国には行っただろうというのはOKですか?

>> #『単に国名を並べてあげるときは、数珠つなぎでなく、「次有・・次有・・」として
国名をあげるときは、数珠つなぎに並んでいる』という明確なルールが存在しているという
ことですね?私には、そのようなルールがあったとはとても思えないのですが、これは、
なにか具体例があって仰っているのでしょうか?

接続詞がないからといって順番でないとはいえませんが、
あるなら順番に見るのが普通の文章解釈ですし、反例を知りません。
接続詞の用法については、高橋善太郎氏「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」
を読んで下さい。正史における里程記事のいろんな例が比較されていますので。

>> #そういうことではなくて、「大国の周りをぐるっと取り囲んで,数珠つなぎに小国が
21もある」という「状態」がそもそも不自然ではないかということです。例えば、
四国の西側は小国が分裂していて、東側は一つの国だったというなら、まだ話がわかりますが。
ソ連時代のロシアの周りの衛星国みたいなものですか?

それは、考古学的に調べないと分からないことでしょう。
これまでの考古学的な事実、例えば日本の古代遺跡シリーズとかを読んで、
そうでないという証拠があるなら教えて下さい。
四国の東側は、東阿波式土器、朱、勾玉の交流によって
ひとつの銅鐸文化圏を形成しているし、
西側は銅矛文化でひとつの文化圏を形成しています。
旁国にあてたところは、銅剣+「銅矛、銅鐸」混在地域です。
ひとつひとつの地域を見ていかないといけませんが、
前期古墳の在り方を見ても比定地域がひとつの国を形成していた
としても問題はないと思っています。
基本的に小国の統合による大国への発展が
時代の流れだと思います。

>> #ここ以降の仰る意味がわかりません。
「佳字二字化によって、地名の読み方が替わった」
ということでしょうか?

たとえば、弥生時代に「島」「山」という単純な国名があった場合、
「*島」「島*」「*山」「山*」とされた可能性もあるということと、
逆に長いと省略された例もあるだろうということです。

>>  これ以外のニ字化のパターンとしては、「春日部」→「春部」とか
「磯城上」→「城上」とかの漢字を1字無理やり取り去ったものもありますけれど、
この場合も読み方は特に変化していません。

字面が変わっても地名の音が残るという好例ですね。
ただ、本によって読みが違うという場合がありますよね。
あれはどういうことだと思いますか?
表記に引きずられる可能性もあると思うのですが。

>>  それに、和銅六年以前に見られる地名でも二字が多いので、このときの官命によって
強引に二字になった地名は少ないのでは。
>>  倭語の地名を漢字に直したときに、
>>   1)基本は1音を1字で表記
>>   2)漢字に丁度よい文字がある一部の2音の組み合わせは、2音分を1字で表記
>>   3)これらの工夫をしてもうまく短く書けない地名の場合は訓で表記
>> といった具合で、もともと、地名は2文字くらいになるようにしていたように思えます。

では質問ですが、「わなさな」という地名があったときに、
2字で表記する場合どうしたと思いますか?


293

Re: Title測量と地図と眺望

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月24日(日)08時50分36秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月24日(日)00時23分14秒 ]

>> >> 一方のローマ人は、その水道、ローマ街道の事業からして、相当広範な測量を行ったことは確実で、もしも彼等が射程の長い兵器を持っていたら、全土にわたる測量網を組織し、後世を驚かすような緻密な地図を作ったかもしれません。

>> 一つ気付いたんですが、道路建設用の地図とか、水道建設用の地図、
>> 都市の上下水道建設地図なんか残っていないのでしょうか。
>> 道路はともかく、水道となれば土地の高低など正確にわかってないと水は巧く流れませんよね。
>> 今でも使われている水道橋を含む水道設備とか。
>> 地図なしでどの様にコースを決めたのでしょう?
>> また建設には、地盤の問題を有りますよね。

測量は確実に行われたでしょう。
でも必要なだけおこなわれたので、地図にはならなかったのだと思います。
地図にするには網羅的に測量する必要があります。

>> >> しかし大砲も持たず、現実的なローマ人は、拠点間を移動するための道路マップしか残していません。
>> >> 土地の測量は文明発生以来行われていますが、測量に基づく地図は近代まで現われていません。

>> >> 無論中国でもヨーロッパでも、近代以前に方位と距離に基づいた、おおよそ正しい地図は作られています。
>> >> しかしそれは道のり情報を精密化して得られたもので、測量による地図ではありません。
>> >> そのような地図であれば存在したでしょう。

>> >> 古代にあって何百キロも遠く離れた二点間の距離と方位を、道のりによる概算でなく、測量データの積み上げで表した例を知りませんし、洋の東西を問わず世界史の例をみても、実用的でなかったことは明らかと思います。

>> >> したがって確実な反例がなければ考えを変える理由もありません。

>> では、万里の長城や運河の建設用の地図なんかも無かったのでしょうか?

建設用の局所的な地図があったかもしれませんが、広域に渡る地図があったとは思いません。
要するに建設経路を決めた後、それにそった測量だけを行ったのでしょう。
測量結果で都合の悪いところがみつかれば、経路を修正すればいいのです。
全体に渡る測量を行うより、その方が測定回数は少ない筈です。

>> そう言えば、インカ帝國の水道や都市計画なんて凄いものがありますが、

土地とか都市とかそのレベルの測量は行ったに決まっています。
ようするに各地の測量結果を接続する為の人家もまばらな山野の測量を行ったか否かです。
インカの場合には文字もなかったのですよ。

>> 地図とか図面とか、使わずにあれだけのものを使ったのでしょうか?

できたと思います。
地図がなければ出来ない理由はあるでしょうか。
建設の場合必要なだけ行えばよいのであって、網羅的に行う地図の場合は桁違いの労力になります。



294

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月24日(日)19時47分45秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月23日(土)23時17分44秒 ]

>> 銅鐸圏=狗奴国=日本国=前方後円墳国家=ついでに騎馬民族国家だと考えます。
#で、古墳からは銅鐸が出ないことを、以下に説明しているわけですね。

>> 前方後円墳国家は三角縁神獣鏡に見られるように、銅の鋳造技術はお得意です。銅鐸も彼らの祭器としてつくられたものではないでしょうか。
>> 前方後円墳国家の東への敗走が、銅鐸の出土地域の分布と埋蔵という状況を生んだものと思われます。
#で、鏡は埋納した、銅鐸は持って逃げた、ですか。
すみませんが、やっぱりあほくさいです。


295

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月24日(日)19時48分57秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月23日(土)07時56分55秒 ]

こんばんは 


>>自然な形で一つの国としてまとまっていたと期待したいのです。
>>投馬国もそういうことを期待したい

#つまり、「(1)邪馬台国、投馬国の比定範囲が当時同一文化圏。」のところは、24か国比定に必要な条件ではなくて、「そうだったらいいな」というやましさんの願望ということですね?

+++++++++++++++++++++++++++++++
>>なぜ聞いただけで行っていないことが断言できるのでしょう。

#「自女王國以北其戸數道里可得略載。其餘旁國遠絶不可得詳」と書いてあるのですから、「旁國については、国名以外は基本的な事項すらもわからない」ってことではないのですか?魏使が行って現地を確認しているならば、「不可得」と書くのは変と思います。「不要」というならわかりますけれど。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>行かずに済むわけがないということは、他の史料からもうかがえますが。

#具体的に、どういう史料を指しているのでしょう?

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>もし、正史で接続詞を使っているのに地理的に順番でないという例が多いのなら
>>そういってもよいでしょうが、そうではありません。

#「次」とあるので、「順不同ではなくて、何らかの意味のある順番で並んでいる」という考え方は理解できますけれど、

>>韓伝においても、国々が述べられていますが、接続詞が使われていません。韓伝での国々は順番で表せるような配置でなく、倭人伝での国々は順番だったということでしょう。

#『単に国名を並べてあげるときは、数珠つなぎでなく、「次有・・次有・・」として国名をあげるときは、数珠つなぎに並んでいる』という明確なルールが存在しているということですね?私には、そのようなルールがあったとはとても思えないのですが、これは、なにか具体例があって仰っているのでしょうか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>「旁国」なんですから、傍らの国でいいんじゃないですか?
>>まあ、ほかの解釈もあるでしょうけど。
>>もし、私が比定地の国々の地理を述べるなら、倭人伝のようにしますが、
>>他にどういう順番で述べられるでしょうか?

#そういうことではなくて、「大国の周りをぐるっと取り囲んで,数珠つなぎに小国が21もある」という「状態」がそもそも不自然ではないかということです。例えば、四国の西側は小国が分裂していて、東側は一つの国だったというなら、まだ話がわかりますが。ソ連時代のロシアの周りの衛星国みたいなものですか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>>あと、以下のような佳字二字化の影響などもあるかもしれません。

#ここ以降の仰る意味がわかりません。「佳字二字化によって、地名の読み方が替わった」ということでしょうか?
 「男信」についてはわかりませんが、「信濃」や「難波」は佳字二字化の前から「科野」と「難波」ですので、それぞれの「しなの」や「なにぱ」という読み方が、二字化によって変化したようには思えませんが。
 また、書紀や木簡資料から、二字化前に3字以上で書き表された地名を集めてみますと、尾張國「年魚市」評、近江國「阿佐為」評、上野國「大荒城」評、若狭國「小丹生」評、隠岐國「知夫利」評、肥國「玉杵名」邑などがあります。これらは、和名抄では、それぞれ、愛知(阿伊知)郡、浅井(阿佐井)郡、邑楽(於波良岐)郡、遠敷(乎爾不)郡、知夫(訓なし、ただし現在でも知夫里島)郡、玉名(多萬伊奈)郡と漢字二字で書き表されていて、推定される読み方は「a-yu-chi」→「a-i-chi」、「a-sa-wi」→「a-sa-wi」、「O-pu-a-la-ki」→「o-fa-la-ki」、「wO-ni-pu」→「wo-ni-fu」、「chi-bu-li」→「chi-bu-li」、「ta-ma-ki-na」→「ta-ma-i-na」です。ここからは、奈良から平安にかけての一般的な変化を超えて音韻が変化した様子は伺えません。佳字二字化は、あくまで表記の変更に過ぎず、これの影響を受けて、地名の読み方自体が変わってしまったなんてことはないでしょう。
 これ以外のニ字化のパターンとしては、「春日部」→「春部」とか「磯城上」→「城上」とかの漢字を1字無理やり取り去ったものもありますけれど、この場合も読み方は特に変化していません。

 それに、和銅六年以前に見られる地名でも二字が多いので、このときの官命によって強引に二字になった地名は少ないのでは。
 倭語の地名を漢字に直したときに、
  1)基本は1音を1字で表記
  2)漢字に丁度よい文字がある一部の2音の組み合わせは、2音分を1字で表記
  3)これらの工夫をしてもうまく短く書けない地名の場合は訓で表記
といった具合で、もともと、地名は2文字くらいになるようにしていたように思えます。

 2音分を1字で表す例
−m  男(なむ)  品(ほむ)  覧(らむ)
−n  難(なに)  信(しな)  印(いな)  君(くに)  丸(わに)
−k  博(はか)  筑(つく)
−ng  香(かが)  相(さが)  當(たぎ)
−t  越(をち)  八(はち)


296

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月24日(日)19時49分23秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月24日(日)00時55分44秒 ]

馬頭鬼さん、こんにちは。

>> 私は、銅鐸と銅矛や鏡の文化は、そんなに対立はしないのではないかと考えます。
#でも現に、奈良盆地では鏡の時代に銅鐸は使われません。銅鐸のようなユニークな祭器が使われなくなるには、それなりの理由があったように思います。

>> 銅鐸自体を祭っていたのならともかく、如何も銅鐸は、祭器であり、御神体とは、おもえないからです。
#???
鏡は御神体である、という理解ですか? 確かに、××神社の祭壇には鏡が祭ってありますが、あの鏡だって別にご神体というわけではないのじゃありませんか。

>> 銅鐸は、祭りの時以外は箱に入れ埋納しておくものらしい事が判っています。
#そうかなー。

>> つまりは、鏡や剣や鉾と言ったものとともに祭りながら、
>> 聖なる調べを奏でると言った事も想像できるからです。
#でも現に、奈良盆地では鏡の時代に銅鐸は使われません。銅鐸のようなユニークな祭器が使われなくなるには、それなりの理由があったように思います(と、しつこく繰り返す)。

>> 銅鐸は鋳造技術においては、鏡など比べ物にならないほど高度なものです。
#ふむふむ。その高度な鋳造技術はどこへいってしまったのでしょう。


297

Re: Title超大型の内行花文鏡

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月24日(日)20時45分55秒]

元の発言 [ Re: Title超大型の内行花文鏡 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月23日(土)23時41分28秒 ]

今晩は。

>> 周代の小尺=咫=18cm
>> (18X八咫)÷3.14(円周率)=45.86cm(直径)≒46.5cm(平原の超大型内行花文鏡)

>> ほらね。(^o^)

#いやー、もうこれで確定です。何処にも異議をはさむとこがありません。§^。^§
それにしても、数字がピッタリなのと当時、円周率を知っていたのは怖い。
それで、この文書はどこかの旧家の屋根裏から出てきたものだった利して・・・。



298

↑すみません。二重投稿です。

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月24日(日)22時43分58秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月24日(日)19時48分57秒 ]

投稿後、一度切断して、再接続したときに、
なぜか再送信されてしまいました。
申し訳ありませんでした。


299

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月24日(日)22時46分03秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月24日(日)07時04分11秒 ]

やましさん こんばんは。明日から仕事で香川県。しばらく留守になりますが。。。


>> 原始的な国ならば自然にそうなると思います。
>> 九州北部で比定された国々もそうなっているようだし。
>> 弥生時代にそういうことがあったとは認めにくいです。

#戸数1000戸くらいの國ならそういう話でしょうけれど、7万戸の國(?)の場合も同じなのですか?2万戸の奴國の範囲についても定説はありませんし。

++++++++++++++++++++++++++++++
>> なるほど、旁国に行ったかどうかということですか。
>> 邪馬台国には行かねばならなかっただろうと言いたかったのです。
>> 邪馬台国には行っただろうというのはOKですか?

#誤解があったようですね。この件については了解です。魏使が女王の都まで行ったとは、マルセも思っています。「行き先の都の名前は邪馬臺でなかった可能性が高い」とも思ってますけれど。
 で、話を戻しますけれど、マルセが始め書いた「魏使が行っていない、聞いた話の國ですから、これらの國の並びが地理的な順番になっているという保証はない」というのは、「魏使が実際に行って確認したわけではなく、たぶん倭人が話した国名を書き留めただけであるので、魏使、その報告を受けて記録した者、陳寿ほか誰かが、21國の順を地理的なものと誤解した可能性がある。」ということです。

++++++++++++++++++++++++++++++
>> 接続詞がないからといって順番でないとはいえませんが、
>> あるなら順番に見るのが普通の文章解釈ですし、反例を知りません。
>> 接続詞の用法については、高橋善太郎氏「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」
>> を読んで下さい。正史における里程記事のいろんな例が比較されていますので。

#『「次」という言葉が國に使われるときには、地理的な順以外には一切使われず、しかも、一つの数珠のように繋がって國が並んでいる場合にのみ使われる用語である』=『自明』ということですね。
 書名は創元学術双書「邪馬台国基本論文集 3」(佐伯有清/編、創元社、1982年)ということでよろしいでしょうか。この本なら図書館(ちょっと遠いので取り寄せるまで時間がかかりそうですが)にあるようですので、今度借りてみます。

+++++++++++++++++++++++++++++++
>> それは、考古学的に調べないと分からないことでしょう。

#「大国の周りをぐるっと取り囲んで,数珠つなぎに小国が21もあるという状態は不自然」という意見はかえませんが、どんな不自然なことでも不自然だから有り得ないかといえば、そうは言い切れません。やましさんが「不自然でもそうなのだから仕方がない」と仰るのであれば、反論しようがありませんので、この話題についてはもうやめたいと思います。

++++++++++++++++++++++++++++++++
>> たとえば、弥生時代に「島」「山」という単純な国名があった場合、
>> 「*島」「島*」「*山」「山*」とされた可能性もあるということと、
>> 逆に長いと省略された例もあるだろうということです。

#「地名は時代とともに変化する」ということについてはマルセも当然のことと思っています。

>> ただ、本によって読みが違うという場合がありますよね。
>> あれはどういうことだと思いますか?

#著者がそういう読みだと思っていたか、書き間違え、写し間違えなどが原因だと思いますが。

>> 表記に引きずられる可能性もあると思うのですが。

#これもよくある話だと思いますよ。ただ、和銅六年を境にして大きい変化が起こったとは思ってないだけで。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
>> では質問ですが、「わなさな」という地名があったときに、
>> 2字で表記する場合どうしたと思いますか?

#奈良時代の日本人なら「丸讃」とか「椀讃」くらいですか?中国人なら、別でしょうけれど。


3

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ 梶山泥舟 ] 発言日時 [3月6日(水)00時32分18秒]

元の発言 [ 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月6日(水)00時05分15秒 ]

>> 天皇という言葉は日本書紀からだといいますが、大和朝廷が万世一系であることにこだわる理由がわかりません。

はじめまして。
古代の歴史書作りはそのころ日本だけでなく、高句麗や百済、新羅なんかも一大ブームだったんじゃないでしょうか?
各国の書記の家柄のひとどうしも交流があったりして、そんな中でみんな親戚万世一系路線っていうのも各国共通路線になっていて、ただちゃんと残ったのが記紀だけだったとかいうことじゃないかなと思うのです。

こんな考え方はどうでしょうか?


300

銅鐸祭祀について

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月25日(月)00時26分14秒]

元の発言 [ 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月22日(金)12時59分30秒 ]

 こんばんは。

 銅鐸の祭祀は「雷神」祭祀ではないでしょうか?
 流水紋銅鐸には明瞭に雷神信仰がうかがえますね。
 目的は、直接的には雨乞い、もっと広く解釈して、豊饒祈願でしょう。

 銅鐸を製作し、教義・祭式と共に、売り歩いた集団があったようですね。
 銅鐸の分布圏とは、彼等の商圏でしょう。
 彼等とは別に、巫祝・巫医などもいたのではないでしょうか?
 弥生の宗教は一つとは限らないと思いますよ。
 また、宗教も生業の一つだと思います。

 銅鐸分布圏を支配する王権があったとは考えにくいですね。
 銅鐸製作集団の拠点の一つは、唐古・鍵遺跡だと思いますが。
 考古学者の中には、ヤマト朝廷が銅鐸を配布した、と唱える方もいますがねぇ。
 
 銅鐸廃絶の問題は、纏向遺跡の建設者の性格如何の問題に繋がりますね。
 
 世俗的権力者なら、銅鐸を廃絶させる理由が見当たりません。
 銅鐸を使用する雨乞いを禁止して、無用の抵抗を引き起こすこともないでしょう。

 纏向遺跡を、王権の所在地ではなく、教権の本拠地と考える理由のひとつです。

 銅鐸祭祀より高次の宗教を彼等が持ち込んだのではないかと想像します。
 
 銅鐸の埋納法は一定しませんね。普通は粗雑に埋められるようです。
 しかし、徳島の矢野遺跡では、木製容器に納められていたらしく、また、近くに柱穴が検出されています。
 大阪の跡部銅鐸は、ある場所で祭祀をし、そこで銅鐸内に土を詰め、埋納地に運んだようです。奇妙ですね。
 加茂岩倉とか大岩山の大量埋納もありますから、これらを一義的に説明するのは困難でしょう。
 銅鐸の本質の一つが埋納にあるのですから、これらを説明できないと、銅鐸論は未完成のままということになりますね。




301

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月25日(月)07時19分58秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月22日(金)23時56分24秒 ]

 おはようございます。えらい上にきてもうたね。

>> 世々王あるも…
>> の「世々」ですが、伊都国の時系列としてではなく、対海国、一大国,末盧国、伊都国というふうに面的な意味には読めないのかしらね。それぞれの国に王がいるけれど、すべて女王に統属する、というふうに。

#僕は「世々」でもいいと思うんです。「卑弥呼」が女王になって70年近く、仮に「卑弥呼」が一個人でとても長生きだったとしても、他の王まで長生きとは限らない。何代か交代してるために「世々」という表現が使われとると思う。
 ついでに言うと「卑弥呼」が長命だったことも僕には疑わしいと思っとる。「゛卑弥呼"は官職名である」という説を唱える人もおるけど、僕はそこまで言わん。ただ人前に姿をあらわさんでいい人なんやから何人でも交代することは可能やと思うで。
 

>>  たぶん、いい加減疲れて、この辺で手を打とうやって手打ち式みたいなものだったのではないかと思います。
>>  結局、男王が立てば国同士の面子が立たないから、権力者としてではなく権威、象徴の意味があったんだと思います。このあたりは、今でも残ってる日本的なるものみたいなもののような気がしています。
>> 十三の台与が王になると言うことは実務者レベルというか行政組織は一応機能していたと考えてよいわけだから、これまた象徴的な、権威的な意味合いがあったんでしょう。

#僕もそう思います。

>> >>  宇佐神宮の建っている「亀山」こそが卑弥呼の墓やないか?確かに「豊」からは少しずれた位置にあるけど、大昔の話やしこれくらいなら許容範囲かなと思っとる。
>>  時代的には、ちょっと新しいらしいですよ。

#どのくらい新しいんかね?


302

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月25日(月)07時46分34秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月24日(日)22時46分03秒 ]

マルセさん、こんばんは。
私も次は4月になりそうです。

>> #戸数1000戸くらいの國ならそういう話でしょうけれど、
7万戸の國(?)の場合も同じなのですか?
2万戸の奴國の範囲についても定説はありませんし。

7万戸であろうと国として名乗っていた以上、
何らかのまとまりがあったのでは?
他国にくらべれば自国内の流通は盛んだろうし、
別の祭祀形態というのも妙なことだと思います。
邪馬台国がどのくらい続いたのかということも関係しますけど。
奴国の範囲はぜひ議論したい問題ですね。

>>  で、話を戻しますけれど、マルセが始め書いた「魏使が行っていない、聞いた話の國
ですから、これらの國の並びが地理的な順番になっているという保証はない」というのは、
「魏使が実際に行って確認したわけではなく、たぶん倭人が話した国名を書き留めただけで
あるので、魏使、その報告を受けて記録した者、陳寿ほか誰かが、21國の順を地理的なもの
と誤解した可能性がある。」ということです。

う〜ん、そういい始めると、自説に不利な所はすべて誤解とか誤写で切り抜けられそうですね。
もし、正史である「三国志」がそんなにいい加減なものであることが、「倭人伝」以外の部分で
はっきりしているならその主張は分かります。しかし、そんなことはないでしょう?
私は、「倭人伝」は様々な史料の寄せ集めをそのまま記載したもので、
複雑ではあるけれども、それぞれの文章についてはかなり正確であるという考えです。

そこで、誤解の可能性ですが、「韓伝」では「次有・・国次有・・国」
となっていませんね。なぜ、そこでは誤解しなかったのでしょうか?
倭人伝だけ誤解したというのは、理解できません。
はっきり分からなかったならば、「次」を使用しなければいいのです。
それなのに、21個も「次」を使用しているわけなのだから、
かなりはっきりした理由で記述したと考えるのが妥当でしょう。

>> #「大国の周りをぐるっと取り囲んで,数珠つなぎに小国が21もあるという状態は不自然」
という意見はかえませんが、どんな不自然なことでも不自然だから有り得ないかといえば、
そうは言い切れません。やましさんが「不自然でもそうなのだから仕方がない」
と仰るのであれば、反論しようがありませんので、この話題についてはもうやめたいと思います。

不自然といわれたままで終わるのは嫌なので、答えを期待せずに反論します。
「不自然」というのはどういう意味か考えましょう。
(1)考古学的に不自然である。
(2)倭人伝の記述に対し不自然である。

(1)は、弥生時代−古墳時代の遺跡、遺物を検討する限り、
問題はないと考えます。きちんと、そのような検討をした上で
「不自然」であると主張されているのでしょうか?
(2)は、「旁国」「次有・・国次有・・国」とある以上、
大国の傍らに取り囲む形で順序通り国々があることに、なんら問題はないと思いますが。
どうしても他の解釈しかありえないというならば、その解釈を正確に示してください。

マルセさんがいわれる「不自然」には、根拠がないと思います。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>> >> ただ、本によって読みが違うという場合がありますよね。
>> >> あれはどういうことだと思いますか?

>> #著者がそういう読みだと思っていたか、書き間違え、
写し間違えなどが原因だと思いますが。

著者に読みが分からなくて、しかもその地域が遠く調査が困難な場合、
どのように読みを示したのだろうかと疑問なのです。
いくつかの読みがあるのは、少なくとも現地人がどのように
読んでいたかということを、正確に調査しなかったことを示している
と思います。つまり、著者自身の読み方なのだろうと。

>> >> では質問ですが、「わなさな」という地名があったときに、
>> >> 2字で表記する場合どうしたと思いますか?

>> #奈良時代の日本人なら「丸讃」とか「椀讃」くらいですか?
中国人なら、別でしょうけれど。

こういう地名が地方にあったとして、和名抄あたりの著者に
その読み方が分からなかった可能性はあると思われますか。


303

参考資料(和名抄郡名母音の分布)

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月25日(月)10時04分54秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月22日(金)23時42分50秒 ]

あ段 764 44.4%
い段 402 23.4%
う段 263 15.3%
え段 69 4.0%
お段 222 12.9%
全数 1720

万葉集、日本書紀、出雲の神社名、古語辞典の見出しとほぼ一致。
どちらかといえばア段が多いのが特長か。
郷名なら何か変わるかな。
倭人伝国名はア段が異常に多い(60%)。

それにしても何で倭人伝は全体としてはイ段が多いんでしょう。(推定30%程度か)
母数が少ないせいも有るでしょうが。
これはとくに人名、官名の特長ともいえる。(推定50%弱)
上代日本語の官名、人名のサンプルで適当なのはないかな。


304

Re: 銅鐸祭祀について

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月25日(月)11時40分10秒]

元の発言 [ 銅鐸祭祀について ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月25日(月)00時26分14秒 ]

>>  こんばんは。

こんばんは。

>>  纏向遺跡を、王権の所在地ではなく、教権の本拠地と考える理由のひとつです。

この場合祭祀と世俗の王権がどのくらい分離していたかが焦点でしょうね。




305

Re: 銅鐸祭祀について

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月25日(月)12時38分09秒]

元の発言 [ 銅鐸祭祀について ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月25日(月)00時26分14秒 ]

たかとりさん、まとまった情報・ご意見をありがとうございます。

>>  銅鐸を製作し、教義・祭式と共に、売り歩いた集団があったようですね。
#興味深いご意見です。私は、「三角縁は陳葬儀社が流行らせた、葬儀の花輪のようなものだ」という思いつき(たいした根拠なし)を提案していますので、このご意見はよく分ります。
しかし、祭祀というのは、当時はもう少し政治との関連が強かったのではないだろうか、完全に支配権から切り離した「教義・祭式と共に、売り歩いた集団」を想定してよいのでしょうか(鏡は個人の葬儀の問題ですから)。
なんと言っても、マツリゴトと祭りは同じ言葉ですからね。

このご意見は、当然、
>>  銅鐸分布圏を支配する王権があったとは考えにくいですね。
という結論を想定してのことだと思います。そうかなー。

>>  銅鐸製作集団の拠点の一つは、唐古・鍵遺跡だと思いますが。
#私はどうも、神武神話に引っ張られて、銅鐸の終焉は支配者の交代であるように考えてしまいます。「そうすると、唐古・鍵は神武の侵略以前から栄えていたのか。で、神武以降はどうなったのだろう。」とか。

>>  銅鐸祭祀より高次の宗教を彼等が持ち込んだのではないかと想像します。
#そうかなー。

>>  加茂岩倉とか大岩山の大量埋納もありますから、これらを一義的に説明するのは困難でしょう。
#例外なく埋められているのですから、一義的な説明ができるはずではありませんか。

>>  銅鐸の本質の一つが埋納にあるのですから、これらを説明できないと、銅鐸論は未完成のままということになりますね。
#そうそう。それで、銅鐸を説明できもしないのに、「邪馬台国論争は終わった」などとよく言うよ、というのが私の本音です。


306

Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月25日(月)14時47分44秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月22日(金)08時13分56秒 ]

>> >> ちゃんと場合の数を計算すべきです。

>> えっと「確率」でお願いします。

いえ確率を計算するには、ちゃんと数え上げる必要があります。

>> 場合の数が何を意味するか良く分かりませんが、
>> これはそれほど問題にならないんですよ。
>> 比定地域を2倍にすると、その中の有力地名も
>> 2倍になるかというと、そうはならないですから。
>> もちろん、比定案を絞った後には、考古学的に
>> その地域がクニとしてまとまっていたか可能性が
>> あるかどうか調べる必要があります。
>> 地名対応はあくまで下調べです。

現時点での対応が生まれる確立について、数学的に厳密な説得力がある説明がありません。

そうでなければ、例えば全国に渡って作為を感じさせない比定をおこなって、自動的に四国に収斂するとかやってみないと乗ってくる人は無いと思います。

正直な印象、ページを開いた直後から四国説前提の匂いをぷんぷん感じてしまいます。
大方の人は、開いてすぐに、引いて閉じるで終わっちゃうと思いますよ。


307

Re: 銅鐸祭祀について

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月25日(月)19時30分33秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸祭祀について ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月25日(月)12時38分09秒 ]

>> >>  銅鐸祭祀より高次の宗教を彼等が持ち込んだのではないかと想像します。
>> #そうかなー。


まず,

銅鐸は一般に幾何学紋や絵だったりしますが,
漢字が使用された例はありますか。

#だれか御存知ですか?

>> #私はどうも、神武神話に引っ張られて、
>> 銅鐸の終焉は支配者の交代であるように考えてしまいます。
>> 「そうすると、唐古・鍵は神武の侵略以前から栄えていたのか。
>> で、神武以降はどうなったのだろう。」とか。


谷川説では,神武前後の人物に見られる「ミミ」という呼称,
これが江南系の銅鐸派らしいです。

神武東遷の時期は,いつ頃を想定していますか?

>> >>  加茂岩倉とか大岩山の大量埋納もありますから、
>> >> これらを一義的に説明するのは困難でしょう。
>> #例外なく埋められているのですから、
>> 一義的な説明ができるはずではありませんか。


たぶん,記紀神話から,
出雲派などが神宝を大和朝廷に差し出すのを嫌って,
埋めて隠したのだろう,
という推理が一般化していると思います。

しかし,その前に,中国の例などから,
もともと埋納儀礼を伴う祭器であったはず,
という考え方が流行っています。

谷川説だと,地霊を鎮めるのが銅鐸埋納の目的です。

他の権力から隠す目的であった場合にも,
もともとの埋納儀礼を参考にしたのでは?


ちなみに,

大野説では,タミル語の takaram という語が,
日本語の「たから(宝)」の語源ということです。

タミル語の takaram には錫など金属の意味があり,
けっこう興味深い対応の例です。




308

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月25日(月)19時57分05秒]

元の発言 [ 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月22日(金)12時59分30秒 ]

銅鐸と対置できるのは広型銅矛ではありませんか?
銅鐸と鏡は同時出土例もあるし、多紐細紋鏡や連弧文鏡が銅鐸圏に古くあることからも、鏡に対する信仰は銅鐸と同時期にあったのでは?
鏡の入手容易な北部九州には、早くから多く現われただけでは?
その銅矛と銅鐸も二世紀後半にはほぼ同じく消えてゆくと思います。
それに対して重要な役割を果たしたのは、山陰、吉備と考えています。
この地域は、青銅器祭祀の衰退が早い上、どちらも大型墳丘墓を発達させます。
とくに吉備は環濠集落の衰微も早いというか、発達しなかった。
一時期、祭祀=政治の形態的にもっとも先進的だったのではないでしょうか。

私もある意味で東遷説なのですが、二世紀末葉に吉備主導で、東部瀬戸内/大阪湾岸+伊勢湾西岸を実働部隊とする、大和盆地討ち入りがあったと思っています。
原因は東方交易と考えています。
弥生後期から、東北北部では、水田農耕が放棄され、移動性の高い文化が現われます。
もともと北海道で発生した土器が、新潟や福島あたりまで南下してきます。
恐らく気候の寒冷化により、南方の稲作文化圏に対抗する、狩猟文化圏がうまれ、生業的分業と交易の活発化が起こったのではないでしょうか。
北方産品の海獣の毛皮や琥珀などは、構成でも中部以南では珍重されます。
この交易が、弥生後期の経済的中心の北部九州と東北を結ぶ最短経路の、日本海航路を中心として拡大したと考えます。
中部以東への鉄器の流入路も、弥生後期には日本海経由になるようです。

これに対して、社会変革をとげた吉備が独自に東方交易路を開こうとしたのだと思います。
東部瀬戸内/大阪湾岸+伊勢湾西岸は地理的理由で、大和を通る交易路を望み、吉備主導の構想に乗ったのだと考えています。
淀川を遡り、近江を経由し、関が原から濃尾平野へ抜ける経路は、距離も遠く、摂津や近江南部に有力な勢力があって困難だったのでは。
ここで一旦大和の青銅祭祀に断絶が起こった後、北部九州の介入、もしくは播磨/出雲の仲介による北部九州の権威の大和への移入があって、初期大和政権へ繋がる王権の確立があったと考えています。
ここでは伊勢湾西岸から、東海、関東(千葉)にいたる地域は、王権にとって有力な人的資源/軍事力を提供する地域であったと考えます。
したがって王都の場所は、東方世界への入り口である必要があったのでは無いでしょうか。
これが纒向であると思います。

北部九州の権威が持ち込まれた段階で、吉備は連合から脱落し、早々に戦争があったものと思います。
この結果、大和側は勝利し、播磨の揖保川流域を山陰/北部九州への連絡路として確保し、戦勝を記念してこの地域の胎土を用いて、庄内土器を製作することになったのではないでしょうか。
この段階からが庄内期であると思っています。

この段階での王権は、東部瀬戸内/大阪湾岸を政治的基盤とし、東海を人的資源/軍事力の源とし、北部九州、山陰勢力の支持を受けながらも、吉備は西部に依然として勢力を残し、山城や近江南部、北陸にも向背定かならぬ勢力があったものと思います。
しかし布留0式に入る直前、劇的な政治状況の改善があり、これを記念して北陸の胎土をもって焼かれ始めたのが、布留式の始まりと考えています。
ここにおいて王権は磐石なものとなり、北部九州や、出雲は急速に地方政権に転落してゆきます。
やがて大和王権の力に組み伏せられることになったのでしょう。

纒向は当初単なる政治/祭祀センターであったものが、各地の人、物、情報が集まり、東方の人的資源を活用した大規模土木事業が連続すると、後背地の大きさもあって、やがて北部九州を上回る経済的実力おも持つようになったのではないでしょうか。

政権において鏡の果たした役割は、古くから東方にもあった鏡信仰を利用した、北部九州権威の展開であると思います。

なお大阪湾岸には、古くはあまり大勢力は無かったようですが、在地勢力としてよりも、庄内期の大量の庄内式土器の状況などから見て、王権の流通拠点として重要であることは疑いないと思います。

こんなところが今の私の頭の中のスケッチですが、根拠はございませんので、お粗末様でした。


309

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月25日(月)20時41分40秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月24日(日)19時49分23秒 ]

>> 馬頭鬼さん、こんにちは。

>> >> 私は、銅鐸と銅矛や鏡の文化は、そんなに対立はしないのではないかと考えます。
>> #でも現に、奈良盆地では鏡の時代に銅鐸は使われません。銅鐸のようなユニークな祭器が使われなくなるには、それなりの理由があったように思います。

では、何時頃まで、祭祀に使われたと思っておられるのです?
九州では、作られていることは確かなのに、発見例は、現在のところ、非常に少ない。
大和では、何時頃まで使われているのでしょうか?
確か、東と北限は、現在のところ、長野県塩尻のようですね。
また東海地方までの様です。

>> >> 銅鐸自体を祭っていたのならともかく、如何も銅鐸は、祭器であり、御神体とは、おもえないからです。
>> #???
>> 鏡は御神体である、という理解ですか? 確かに、××神社の祭壇には鏡が祭ってありますが、あの鏡だって別にご神体というわけではないのじゃありませんか。

御神体である場合とカタシロである場合があると聞いています。

>> >> 銅鐸は、祭りの時以外は箱に入れ埋納しておくものらしい事が判っています。
>> #そうかなー。

色々有るようですが、大事に埋められている事も確かのようですね。

>> >> つまりは、鏡や剣や鉾と言ったものとともに祭りながら、
>> >> 聖なる調べを奏でると言った事も想像できるからです。
>> #でも現に、奈良盆地では鏡の時代に銅鐸は使われません。銅鐸のようなユニークな祭器が使われなくなるには、それなりの理由があったように思います(と、しつこく繰り返す)。

使われていないかどうか難しいところだと思っています。

>> >> 銅鐸は鋳造技術においては、鏡など比べ物にならないほど高度なものです。
>> #ふむふむ。その高度な鋳造技術はどこへいってしまったのでしょう。

これは恒に悩むところでしょう。
例えば、大珠、玉や勾玉は何故作られなくなったのか?
工房のあった村と人達は、作り懸けの玉や原石や未だ使える道具捨てて何処へ行ってしまったのか?
玉自体、原石自体、価値の有るものなのに?
何故、高価な翡翠が、千年以上忘れられてしまったのか?

縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?

如何も判らない事だらけですね。


31

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ 小鳥遊 ] 発言日時 [3月7日(木)18時14分19秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月6日(水)21時29分18秒 ]

はじめまして。大論争ROM派の超ビギナーです。
小鳥も遊べるようになったみたいなので、ドキドキしながらカキコしてみました。

>> 古事記編纂は711年から、日本書紀編纂は681年からだそうですが、(以下省略)

古事記って、完成目前の日本書紀の要約版ということなのでしょうか。
二つも国史を編纂した意図は何なのでしょう。

#低レベルなことを言ってすみません。鷹が現れたら、また隠れています。


310

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [3月25日(月)22時07分06秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月25日(月)20時41分40秒 ]

EKさん、 馬頭鬼さん、こんばんは。

>> >> >> 銅鐸は、祭りの時以外は箱に入れ埋納しておくものらしい事が判っています。
>> >> #そうかなー。
>> 色々有るようですが、大事に埋められている事も確かのようですね。
 同じ埋められているのでも、埋納(銅鐸)と副葬(銅鏡、銅矛・戈)では性格が違うのではないでしょうか。
 階級性の弱い村社会(埋納)と階級分化の進んだ「クニ」(副葬)の違いと見るのが一般的では?
>> >> >> 銅鐸は鋳造技術においては、鏡など比べ物にならないほど高度なものです。
>> >> #ふむふむ。その高度な鋳造技術はどこへいってしまったのでしょう。
 三角縁地鏡?

>> 縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
>> 航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?
 難破の量が多いことをおっしゃてるのだと思いますが、
 半島に沿って「水行」するのと、東中国海を「渡海」する危険度の差でしょう。


311

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月25日(月)22時55分30秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月24日(日)19時49分23秒 ]


>> >> 銅鐸は、祭りの時以外は箱に入れ埋納しておくものらしい事が判っています。
>> #そうかなー。


始まりとしては,埋納儀礼説のほうが流行りでしょうね。

といって他説が否定されるわけではありませんが。

>> #でも現に、奈良盆地では鏡の時代に銅鐸は使われません。銅鐸のようなユニークな祭器が使われなくなるには、それなりの理由があったように思います(と、しつこく繰り返す)。


記紀から推理すると,天照・天孫降臨神話の中に,
銅鏡ハイテク集団による政権樹立の主張がある,
ということになるでしょう。


>> >> 銅鐸は鋳造技術においては、鏡など比べ物にならないほど高度なものです。
>> #ふむふむ。その高度な鋳造技術はどこへいってしまったのでしょう。


ここらは,推理になるわけですが,
使われていたんじゃないか,
というような説もあるでしょう。

谷川説では,例えば,
垂仁天皇の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)に注目,
その末裔である和気氏が金属関連であること,
本拠地である備前国から銅鐸が出土していることから,
「鐸石別命も銅鐸と無縁ではあるとは思われない。」
とのことです。谷川健一著『青銅の神の足跡』(集英社文庫)

というように,
このように記紀・伝承を読み解く手法も必要でしょう。

それと,よく話題になるのは,

古事記の顕宗天皇と置目老媼の逸話に,
次のような歌謡があります。

「浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも」

この中の「鐸」が銅鐸だとしたら・・・!?

浅茅原というのは,モモソヒメの居た所だろうか,
とかなんとかの,いろんな推理です。


312

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月25日(月)23時18分49秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月25日(月)20時41分40秒 ]

馬頭鬼さん、今晩は。割り込み失礼します。

>> では、何時頃まで、祭祀に使われたと思っておられるのです?

古墳時代の始まる直前まででしょう?

>> 九州では、作られていることは確かなのに、発見例は、現在のところ、非常に少ない。

九州では祭器としてはあまり使われていないので。
九州は大きい銅鐸でも20cmくらいで小さいのは10cmくらい。いずれも音を出すようになっていた。

大和のやつも東奈良のものは音を出していたらしいが他のものはどうでしょう?
東奈良のやつはひょっとすると九州から持ち込まれたかも知れません。
鋳型がずれて失敗作らしいのに使いこまれている。

大和で作られた物は音を出さない祭器ですよね。

>> 何故、高価な翡翠が、千年以上忘れられてしまったのか?

翡翠が宝石として縄文時代からそこそこの価値は認められていたでしょうが、現在のように高い価値を認められるようになったのは
西太后が翡翠を熱狂的に愛したからだと台湾旅行の時のお土産ショップで聞きました。

>> 縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
>> 航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?
>> 如何も判らない事だらけですね。

漁業より米作農業に重点が移り、職業が固定化世襲化し、身分の上下がはっきりし、官僚化していき、船乗りの身分が下げられた為ではないでしょうか。
そんな気がします。


313

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月25日(月)23時46分22秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月25日(月)22時55分30秒 ]

>> ここらは,推理になるわけですが,
>> 使われていたんじゃないか,
>> というような説もあるでしょう。

>> 谷川説では,例えば,
>> 垂仁天皇の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)に注目,
>> その末裔である和気氏が金属関連であること,
>> 本拠地である備前国から銅鐸が出土していることから,
>> 「鐸石別命も銅鐸と無縁ではあるとは思われない。」
>> とのことです。谷川健一著『青銅の神の足跡』(集英社文庫)

>> というように,
>> このように記紀・伝承を読み解く手法も必要でしょう。

>> それと,よく話題になるのは,

>> 古事記の顕宗天皇と置目老媼の逸話に,
>> 次のような歌謡があります。

>> 「浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも」

>> この中の「鐸」が銅鐸だとしたら・・・!?

木鐸もあれば鉄鐸もありますから。
畿内の銅鐸は音を出す物じゃないでしょう?
「鐸響く」だったら木鐸、鉄鐸でしょうね。


314

Re: 纏向遺跡の性格

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月26日(火)00時06分34秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸祭祀について ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月25日(月)11時40分10秒 ]

 こんばんは。

>> この場合祭祀と世俗の王権がどのくらい分離していたかが焦点でしょうね。

 中国で、道教教団が国家を造りますね。そういう類のものを想定しています。

 卑弥呼の鬼道をどう捉えるかにも、関わってくるのですが、倭人伝に「鬼道」と
明確に書いているのですから、やはり、初期道教でしょう。
 たまたま、邪馬台国にカリスマ性の強烈な巫女が出現した、というのではなく、
そういう教団組織があり、その組織が各「国」の調整的役割、或いは、盟主的役割
を担ったのではないかと思います。

 纏向もそのようなものではないでしょうか。
 纏向遺跡の性格の問題になりますが、今のところ、いやに宗教性が濃厚ですね。
 将来の発掘調査で、王権の性格も、より明らかになるとは思いますが・・。



315

Re: 物部氏?

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月26日(火)00時12分12秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸祭祀について ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月25日(月)12時38分09秒 ]

 こんばんは。

>> このご意見は、当然、
>> >>  銅鐸分布圏を支配する王権があったとは考えにくいですね。
>> という結論を想定してのことだと思います。そうかなー。

 各集落・集落群では農耕作業も農耕祭祀も不可分のものでしょう。祭政一
致に似た状況でしょう。
 しかし、銅鐸分布圏を支配する権力を想定しますと、それに見合う都邑と
か、墓等があってしかるべきですね。そういう遺構があるのでしょうか。

 また、王権を想定する場合、環濠集落、特に高地性集落にうかがわれる抗
争を、どう捉えるかが問題になりますね。

 まあ、この辺りは、過渡期としていろんな状況が考えられでしょうね。

>> #私はどうも、神武神話に引っ張られて、銅鐸の終焉は支配者の交代であるように考えてしまいます。「そうすると、唐古・鍵は神武の侵略以前から栄えていたのか。で、神武以降はどうなったのだろう。」とか。

 唐古・鍵と纏向に断絶があるのですから、外部勢力の侵入を想定するのは
自然でしょう。侵入者がどこから来たか、どういう侵入だったのかがはっき
りしませんね。
 何より纏向遺跡の実年代が問題なのですが、最近、議論があるようですね。
 最も信頼できる説では、いつ頃始まるとされているのでしょうか?
 
 私には日本書紀の神武東征記事が弥生から古墳への史実とは思えません。
 谷川健一説では、銅鐸祭祀族・神武以前の居住者は物部氏ですね。
 しかし、一方で、物部氏は五世紀以後とする説があります。
 私は後者の説の従います。

>> >>  銅鐸祭祀より高次の宗教を彼等が持ち込んだのではないかと想像します。
>> #そうかなー。

 より高次の宗教の、葬祭部分が前方後円墳ではないでしょうか。
 農耕祭祀部分に於いても、発展を想定してもいいのではないでしょうか。

 銅鐸祭祀にしても、銅鐸以前の、おそらく、蛇信仰の変容だと思います。



316

銅鐸圏の中心

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月26日(火)10時21分19秒]

元の発言 [ Re: 物部氏? ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月26日(火)00時12分12秒 ]

>>  こんばんは。

わりこみすいません。

>>  各集落・集落群では農耕作業も農耕祭祀も不可分のものでしょう。祭政一
>> 致に似た状況でしょう。
>>  しかし、銅鐸分布圏を支配する権力を想定しますと、それに見合う都邑と
>> か、墓等があってしかるべきですね。そういう遺構があるのでしょうか。

銅鐸圏が一つの政治勢力だったとは私も思えないんですが、近江の伊勢遺跡や唐子鍵などは有力な候補と思います。
いわゆる見る銅鐸の鉛の同位体比がファインチューニングだそうで、集中的に作られ配布されたと言う説もありますね。
一つの政治勢力というより、他と比べれば仲間意識のある、緩やかな連合を考えています。

>>  唐古・鍵と纏向に断絶があるのですから、外部勢力の侵入を想定するのは
>> 自然でしょう。侵入者がどこから来たか、どういう侵入だったのかがはっき
>> りしませんね。
>>  何より纏向遺跡の実年代が問題なのですが、最近、議論があるようですね。
>>  最も信頼できる説では、いつ頃始まるとされているのでしょうか?

いろいろ説がありますが、遅い方で寺澤氏の210年、早い方で石野氏の170年というのを見ました。
おおよそ二世紀末葉に纏向が始まり、一世代弱で庄内式が始まるという感覚で捕らえています。
庄内式の前には、吉備の土器が出雲や、加美、唐子鍵、纏向など近畿によく現われるようですが、庄内式期に入ると逼塞してしまいます。(石野さんの本によると)
その後布留段階になると、古墳の祭祀土器として再び現われるわけで、このあたりの動きが面白いです。


317

記録と文字

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月26日(火)12時47分30秒]

元の発言 [ Re: Title測量と地図と眺望 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月24日(日)08時50分36秒 ]

>> >> 道路はともかく、水道となれば土地の高低など正確にわかってないと水は巧く流れませんよね。
>> >> 今でも使われている水道橋を含む水道設備とか。
>> >> 地図なしでどの様にコースを決めたのでしょう?
>> >> また建設には、地盤の問題を有りますよね。

>> 測量は確実に行われたでしょう。
>> でも必要なだけおこなわれたので、地図にはならなかったのだと思います。
>> 地図にするには網羅的に測量する必要があります。

>> >> では、万里の長城や運河の建設用の地図なんかも無かったのでしょうか?

>> 建設用の局所的な地図があったかもしれませんが、広域に渡る地図があったとは思いません。
>> 要するに建設経路を決めた後、それにそった測量だけを行ったのでしょう。
>> 測量結果で都合の悪いところがみつかれば、経路を修正すればいいのです。
>> 全体に渡る測量を行うより、その方が測定回数は少ない筈です。

プランニングを行う地図も無かったわけですね。

>> >> そう言えば、インカ帝國の水道や都市計画なんて凄いものがありますが、

>> 土地とか都市とかそのレベルの測量は行ったに決まっています。
>> ようするに各地の測量結果を接続する為の人家もまばらな山野の測量を行ったか否かです。
>> インカの場合には文字もなかったのですよ。

文字は、無かったようですが、記録は有ったようですね。
この場合、キープと呼ばれる物が有ったようですね。

>> >> 地図とか図面とか、使わずにあれだけのものを使ったのでしょうか?

>> できたと思います。
>> 地図がなければ出来ない理由はあるでしょうか。
>> 建設の場合必要なだけ行えばよいのであって、網羅的に行う地図の場合は桁違いの労力になります。

つまりは、網羅的地図ではなく、街道周辺、運河周辺など、維持管理用の地図も無いのでしょうか?

あと、インカ帝国の例からすると、記録には、文字は、必須ではないようですね。
ここでは、キープが変わりをしていたのですが、
思い付きですけど、日本にも結いと言う物が有りましたね。
これ、元はキープと同じように文字の一種かも?


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Re: 記録と文字

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月26日(火)13時12分02秒]

元の発言 [ 記録と文字 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月26日(火)12時47分30秒 ]

>> プランニングを行う地図も無かったわけですね。

あ、誤解があります。
私の無いといっているのは、測量による地図です。
したがって幾何学的に正確でない、概念図に道のりを記入したようなものはあったはずですし、現に残っています。
とうぜんこっからこっちへ水道をひくよー、とか大まかに大とか川とか都市とか書いた概念図で考えたと思います。
大雑把な距離感と方位もつかめていたと思います。
ただ実際の建設に際しては、測量を行ったのはもう絶対確実と思います。
にもかかわらず測量にもとずく広域の地図があったとは思えません。
ゆがんだ地図が現に残っていますから。
そんな作図事業を起こす理由がなかったのでしょう。

>> >> >> そう言えば、インカ帝國の水道や都市計画なんて凄いものがありますが、

>> >> 土地とか都市とかそのレベルの測量は行ったに決まっています。
>> >> ようするに各地の測量結果を接続する為の人家もまばらな山野の測量を行ったか否かです。
>> >> インカの場合には文字もなかったのですよ。

>> 文字は、無かったようですが、記録は有ったようですね。
>> この場合、キープと呼ばれる物が有ったようですね。

おもに数字の記録用の縄です。
結び目や縄の色で数字を表したそうです。

>> >> >> 地図とか図面とか、使わずにあれだけのものを使ったのでしょうか?

>> >> できたと思います。
>> >> 地図がなければ出来ない理由はあるでしょうか。
>> >> 建設の場合必要なだけ行えばよいのであって、網羅的に行う地図の場合は桁違いの労力になります。

>> つまりは、網羅的地図ではなく、街道周辺、運河周辺など、維持管理用の地図も無いのでしょうか?

地形はずいぶんひずんでますが、要所要所の道のりマップが残っています。
あ、これはインカではなくローマの話でした。
インカではなかったですが、アステカの地図を見たことがあったと思います。
うろ覚えですが、やはり概念図でした。

>> あと、インカ帝国の例からすると、記録には、文字は、必須ではないようですね。
>> ここでは、キープが変わりをしていたのですが、
>> 思い付きですけど、日本にも結いと言う物が有りましたね。
>> これ、元はキープと同じように文字の一種かも?

数字など記録するのに、何か工夫していたとしても不思議ありませんが、現存するものを知りません。
個人的には木の板に傷をつけてゆくとか、有りそうに思うんですが。
ある意味で、土器や銅鐸の模様は記録性があったのかもしれませんね。(うそかなー。)


319

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月26日(火)17時32分01秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月25日(月)23時46分22秒 ]

>> 木鐸もあれば鉄鐸もありますから。
>> 畿内の銅鐸は音を出す物じゃないでしょう?
>> 「鐸響く」だったら木鐸、鉄鐸でしょうね。

岩波版記紀の注によると,

「大鈴」(記)「駅鈴」(紀)ということなので,

いわゆる木鐸や鉄鐸のような感じでいいと思いますが,
それだけでは詰まらないので,
あれこれ推理することになります。

まず,銅鐸から木鐸へ,という流れがなかったかどうか。> 舌

当然,技術の伝承という視点も出てきます。

顕宗関連には,記紀ともに,金属伝承の暗示が出ていますから。


次に,歌謡の内容が,遠い伝承を示唆していないかどうか。

「浅茅原 小谷を過ぎて」「百伝ふ 鐸響くも」(記)
「浅茅原 小石角を過ぎ」「百伝ふ 鐸ゆらくもよ」(紀)

という,この辺りが示唆する内容についてです。



32

Re: 伊勢神宮について

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月7日(木)18時57分30秒]

元の発言 [ Re: 伊勢神宮について ] お名前 [ 司馬叡 ] 日付 [ 3月6日(水)15時42分31秒 ]

司馬叡さん今晩は。はじめましてで良かったでしょうか?。

神宮の博物館「徴古館」にて仕入れたことを少し、情報提供と言うことで。
社殿の柱は全長の1/3を地中に埋めて2/3が地上に出ているそうです。で、柱の寿命ですが70年や80年は十分にもつと言っていました。
戦乱によって15世紀半ばから120数年にわたって遷宮が中断された時期がありますが、耐えていたそうです。
社殿が建立されている場所が、地形も地質も水捌けの良いところなのでしょう。

それと、話はそれますが平成の遷宮で総費用は360億円近くかかったそうですよ。


320

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月26日(火)20時27分35秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月26日(火)17時32分01秒 ]

>> >> 木鐸もあれば鉄鐸もありますから。
>> >> 畿内の銅鐸は音を出す物じゃないでしょう?
>> >> 「鐸響く」だったら木鐸、鉄鐸でしょうね。


>> 岩波版記紀の注によると,

>> 「大鈴」(記)「駅鈴」(紀)ということなので,

>> いわゆる木鐸や鉄鐸のような感じでいいと思いますが,
>> それだけでは詰まらないので,
>> あれこれ推理することになります。

>> まず,銅鐸から木鐸へ,という流れがなかったかどうか。> 舌

>> 当然,技術の伝承という視点も出てきます。

木鐸というと仏教で使われる事が多いようで仏教の伝来以降に使われるようになったんじゃないでしょうか?
鉄鐸で言えば神道の方かな。
木鐸よりは古くて古墳時代後期の遺跡から発掘例があるそうで銅鐸から木鐸へより鉄鐸から木鐸への可能性の方が強いのでは?
銅鐸から鉄鐸への移行は時代が隔たり過ぎて技術の伝承と言っても無理じゃないでしょうか?
畿内の銅鐸には舌が無かったし。

>> 顕宗関連には,記紀ともに,金属伝承の暗示が出ていますから。

>>
>> 次に,歌謡の内容が,遠い伝承を示唆していないかどうか。

>> 「浅茅原 小谷を過ぎて」「百伝ふ 鐸響くも」(記)
>> 「浅茅原 小石角を過ぎ」「百伝ふ 鐸ゆらくもよ」(紀)

>> という,この辺りが示唆する内容についてです。

遠い伝承ですか。
私には難しくてなんともいえません。


321

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月26日(火)22時24分51秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月26日(火)20時27分35秒 ]

>> 銅鐸から鉄鐸への移行は時代が隔たり過ぎて技術の伝承と言っても無理じゃないでしょうか?


そうでした。

銅鐸〜鉄鐸〜木鐸,くらいの流れに直します。

特に金属技術との絡みで鉄鐸との関連はどうか,
といった見方です。

>> 畿内の銅鐸には舌が無かったし。


その辺りは,何とも分かりません。

特に邪馬台国関連などの古代史には,考古学ですら,
組み立てに前提があっての一つの情報整理術に過ぎないようですから,
そこから臆断すると,後で塗り替えられたりなんかして。

顕宗関連では,近飛鳥(大阪河内),淡海,播磨など,
妖しい関連地名が・・・。


次のような記事もあります。

--------------------------------------------------------------

日本史・弥生時代
http://www2s.biglobe.ne.jp/~l-city/trace/histr/jp001.html

大阪府茨木市教育委員会、同市東奈良にある弥生時代の環濠集落跡
「東奈良遺跡」で、弥生時代前期末(紀元前180年ごろ)に作られた
小銅鐸が出土したと発表。朝鮮式小銅鐸に似た形状ながら、表面に
文様が施されるなど日本の銅鐸の特徴も併せ持つ。内側につるして音
を出す棒状の舌(ぜつ)も見つかり、長年音を鳴らした痕跡もあった。

--------------------------------------------------------------


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月26日(火)22時38分24秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月25日(月)07時19分58秒 ]

 こんばんは。
>えらい上にきてもうたね。

 ほんまですなぁ。おかげさまでほぼひと月楽しませてもろたっちゅうことですね。

さて、
>> >>  宇佐神宮の建っている「亀山」こそが卑弥呼の墓やないか?確かに「豊」からは少しずれた位置にあるけど、大昔の話やしこれくらいなら許容範囲かなと思っとる。
>>  時代的には、ちょっと新しいらしいですよ。
>
>#どのくらい新しいんかね?

 石棺は割竹形石棺、舟形石棺、長持形石棺、家形石棺と変遷すると言われています。
 平原は割竹形木棺、津古生掛は組合せ式木棺。「亀山」が上記の石棺のいずれかであればもっと新しいと言えるでしょう。
 ただし、箱式石棺であれば別です。赤塚古墳は箱式石棺で、三世紀末(柳田康雄)から四世紀前半(田村圓澄)あたり。だから、「亀山」が箱式石棺ならばもっと古い可能性もありますね。

 手元の資料をあちこちひっくり返してみましたが、「亀山」の石棺の形式がわかりません。「新しいらしい」と書いたのは、箱式石棺ではなくその後の石棺である、と読んだ記憶があるのです。もうすこし調べてみます。わかればまた書きます。
 市村其三郎は第三神殿(祭神は神功皇后)の石棺が卑弥呼の墓だと言ってますね。


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Re: 銅鐸に関する言葉

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月26日(火)23時25分48秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸祭祀について ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月25日(月)19時30分33秒 ]

 こんばんは。

>> 銅鐸は一般に幾何学紋や絵だったりしますが,
>> 漢字が使用された例はありますか。

 銅鐸に漢字が彫られていたかどうか解りません。
 しかし、銅鐸の形そのものが漢字の「雷」ですね。
 古い字体では一目瞭然です。流水紋銅鐸そっくりです。

>> 大野説では,タミル語の takaram という語が,
>> 日本語の「たから(宝)」の語源ということです。

>> タミル語の takaram には錫など金属の意味があり,
>> けっこう興味深い対応の例です。

 タミル語で「神」「雷」「蛇」を何と言うかご存知でし
たらご教示下さい。
 もしも「サナギ」とか「クスミ」に近い言葉なら面白い
ことになりますね。

 それと、銅鐸と「加茂」地名の関わりもよく言われるの
ですが、「カモ」はタミル語ではどういう意味の言葉にな
りそうですか?




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Re: 記録と文字

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月26日(火)23時57分25秒]

元の発言 [ Re: 記録と文字 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月26日(火)13時12分02秒 ]

>> >> あと、インカ帝国の例からすると、記録には、文字は、必須ではないようですね。
>> >> ここでは、キープが変わりをしていたのですが、
>> >> 思い付きですけど、日本にも結いと言う物が有りましたね。
>> >> これ、元はキープと同じように文字の一種かも?

>> 数字など記録するのに、何か工夫していたとしても不思議ありませんが、現存するものを知りません。
>> 個人的には木の板に傷をつけてゆくとか、有りそうに思うんですが。
>> ある意味で、土器や銅鐸の模様は記録性があったのかもしれませんね。(うそかなー。)

これって、結局楔形文字やルーン文字になっちゃいませんか?


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Re: 銅鐸圏の中心

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月27日(水)01時00分23秒]

元の発言 [ 銅鐸圏の中心 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月26日(火)10時21分19秒 ]

 こんばんは。

>> 銅鐸圏が一つの政治勢力だったとは私も思えないんですが、近江の伊勢遺跡や唐子鍵などは有力な候補と思います。
>> いわゆる見る銅鐸の鉛の同位体比がファインチューニングだそうで、集中的に作られ配布されたと言う説もありますね。
>> 一つの政治勢力というより、他と比べれば仲間意識のある、緩やかな連合を考えています。

 銅鐸の工房は、終わり頃には近畿式と三遠式の2グループになったそうです。
 三遠式銅鐸など見事な出来映えで、出雲が銅鐸王国なら、三河・遠江も銅鐸
王国と称しても良さそうなものですが、あまり喧伝されませんね。
 「奴国」が金印を貰っているのですから、そういう程度の、銅鐸を祀る「国」
が各地にあってもおかしくはないのですがね。
 国と国との関係が問題になりますが。

>> いろいろ説がありますが、遅い方で寺澤氏の210年、早い方で石野氏の170年というのを見ました。

 そんなに早くなっていましたか。
 どちらの説にしても、卑弥呼の時代には纏向は成立していたということにな
りますね。

 神武東遷を史実とし、纏向遺跡に掛けようとする説がありますが、早くは
170年に年代を合わせなければなりませんね。
 それとも、纏向の廃絶の時期に合わせるかですね。
 纏向が古くなって、困っているのではないでしょうかねぇ。



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Re: 銅鐸に関する言葉

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月27日(水)12時42分57秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸に関する言葉 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月26日(火)23時25分48秒 ]

ちょっと一服 さん、こんにちは。

>> 谷川説では,神武前後の人物に見られる「ミミ」という呼称,
>> これが江南系の銅鐸派らしいです。
#ミミは九州にも多いんじゃありませんでしたっけ。

>> 神武東遷の時期は,いつ頃を想定していますか?
#卑弥呼の時代よりは前だと考えています。説得力のある根拠は持ち合わせていませんが。

>> もともと埋納儀礼を伴う祭器であったはず,
>> という考え方が流行っています。
#最後に埋納した後、2度と取り出されなかった理由が解明できれば、おのずと埋納の理由も分るでしょうが、上記の説では2度と取り出されなかった理由は分りませんね。

たかとり さん、こんにちは。

>> >> 銅鐸は一般に幾何学紋や絵だったりしますが,
>> >> 漢字が使用された例はありますか。
>>  銅鐸に漢字が彫られていたかどうか解りません。
>>  しかし、銅鐸の形そのものが漢字の「雷」ですね。

#漢字が鋳出された銅鐸はないと思います。
したがって、銅鐸の形そのものを漢字と結びつける考えにも賛成できません。


327

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月27日(水)21時25分30秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月26日(火)22時24分51秒 ]

>> >> 銅鐸から鉄鐸への移行は時代が隔たり過ぎて技術の伝承と言っても無理じゃないでしょうか?

>> そうでした。

>> 銅鐸〜鉄鐸〜木鐸,くらいの流れに直します。

銅鐸と鉄鐸の時間差が2,300年ありますが伝承し得たのでしょうか?

>> 特に金属技術との絡みで鉄鐸との関連はどうか,
>> といった見方です。

>> >> 畿内の銅鐸には舌が無かったし。

>> その辺りは,何とも分かりません。

>> 特に邪馬台国関連などの古代史には,考古学ですら,
>> 組み立てに前提があっての一つの情報整理術に過ぎないようですから,
>> そこから臆断すると,後で塗り替えられたりなんかして。

>> 顕宗関連では,近飛鳥(大阪河内),淡海,播磨など,
>> 妖しい関連地名が・・・。

よく判らないんですがどういう関連ですか?

>> 次のような記事もあります。

>> --------------------------------------------------------------

>> 日本史・弥生時代
>> http://www2s.biglobe.ne.jp/~l-city/trace/histr/jp001.html

>> 大阪府茨木市教育委員会、同市東奈良にある弥生時代の環濠集落跡
>> 「東奈良遺跡」で、弥生時代前期末(紀元前180年ごろ)に作られた
>> 小銅鐸が出土したと発表。朝鮮式小銅鐸に似た形状ながら、表面に
>> 文様が施されるなど日本の銅鐸の特徴も併せ持つ。内側につるして音
>> を出す棒状の舌(ぜつ)も見つかり、長年音を鳴らした痕跡もあった。
>>
>> --------------------------------------------------------------

東奈良の銅鐸は九州から持ち込まれたもののような気がしています。
畿内から同じ形の物がいくつも出ていれば畿内製でいいでしょうが。
畿内のほかの銅鐸より小さいし、鋳造ミスがあった不良品らしいですね。

前にも書いた事がありますが始めは漢半島にあった朝鮮式無紋銅鐸が九州にきて紋様が加えられ、それが畿内に伝わり変質し、舌が無くなって
大型化したという順だと思われます。

したがって東奈良のものは九州から伝えられた銅鐸であると言うのが妥当な見方ではないでしょうか?


328

Re: 銅鐸に関する言葉

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月27日(水)22時21分36秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸に関する言葉 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月26日(火)23時25分48秒 ]


>>  しかし、銅鐸の形そのものが漢字の「雷」ですね。
>>  古い字体では一目瞭然です。流水紋銅鐸そっくりです。

むかし読んだ銅鐸研究の本に,
「葦の根には錫か何か金属の小塊が付着していることがあり,
銅鐸埋納の起源に関わるのではないか」
という意味の指摘がありました。

これが事実だとすると,
葦原に雷が落ちた場合,
その小塊が熔けて一塊の金属素材に変容するとか,
そういうことは起こり得るのだろうか,と。

ここの辺り,谷川説に言う伊福部,小子部,雷神,
蛇神の関連なども参考になりますですね。

もし,起こり得るのであれば,平野埋納の謎を解く場合とか,
けっこう興味深い対応だと思います。

>>  タミル語で「神」「雷」「蛇」を何と言うかご存知でし
>> たらご教示下さい。

大野晋著『日本語の起源』(岩波新書)によると,

日本語の「神」は,そのまま「雷」を指すことが多い,とあり,
対応するタミル語として,koman という語を紹介,
その意味は,「雷電のような神秘的な威力を持つ支配者」とあります。
第193頁参照。

つまり,形と意味が対応するそうです。

「蛇」については,日本語 fabu ,タミル語 pampu の対応。

「雷」を「神鳴り」とした場合,日本語の「鳴る」は,
タミル語の naral (音がする)に対応しています。

日本語の「かね(銅・鐘)」は,タミル語の kan (銅・青銅)に対応。

>>  それと、銅鐸と「加茂」地名の関わりもよく言われるの
>> ですが、「カモ」はタミル語ではどういう意味の言葉にな
>> りそうですか?


分かりませんでしたが,
前掲書では,タミル語から日本語への変化として,
kom→kam という対応を想定していますから,
あるいは前出の koman などが,
候補になるカモしれません。

だとしたら,決まりすぎカモしれませんが。



329

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月27日(水)22時52分49秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月27日(水)21時25分30秒 ]

>> 銅鐸と鉄鐸の時間差が2,300年ありますが伝承し得たのでしょうか?


ないとは言えません。

# 今んとこそれだけ。

>> よく判らないんですがどういう関連ですか?


金属関連かもなー,という意味です。

銅鐸とか鉄鐸を含みます。綿密な調査が必要なので,
まだ調べている最中です。


以下,

その辺りの組み立ては,いろいろ可能でしょうから,
なんとも分かりません。


個人的な印象としては,いわゆる葬られた銅鐸観は,

『扶桑略記』の記事が一人歩きしている。
銅鐸文化圏などの古い考古学的知見が一人歩きしている。
記紀政権争いからの推理が一人歩きしている。

というような感じです。観点を否定するのではなく,
組み立てあっての仮説のはずが,
結論として一人歩きしているのはどうか,
という意味です。


330

Re: 銅鐸に関する言葉

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月27日(水)23時24分15秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸に関する言葉 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月27日(水)12時42分57秒 ]

>> #ミミは九州にも多いんじゃありませんでしたっけ。


はい,そうです。

谷川氏の著作は安直な構成ではなく,
要約紹介しがたいですので,御研究下さい。

>> #最後に埋納した後、2度と取り出されなかった理由が解明できれば、
>> おのずと埋納の理由も分るでしょうが、
>> 上記の説では2度と取り出されなかった理由は分りませんね。

埋納した切りの作法があったとすればどうでしょう。

奉納・封印,といったところでしょうか。


一つの推理としては,地震対策の呪法とか。

山陰とか静岡のほうは地震地帯ゆえか・・・ははは。

というのは半分冗談ですが,鏡の信仰を天照神話から推理すると,
スサノヲの狼藉ということで,岩戸隠れ,
世の中が真っ暗になる,

つまり異常気象の曇天続きか火山の噴煙かしれませんが,
そういうことがあって太陽への希求が意識的に強まった結果,
鏡の価値が高まるという心理学を想定する必要があるかもしれません。

銅鐸の場合,地霊を鎮める,という目的であったのなら,
地震か何かに悩まされていた共同体の信仰か,
とかいった視点になりますですね。

いろいろ書きたいんですが,
パソコン調整中でドスボケ,またの機会に。

ま,引き続き考えてみます。


331

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月28日(木)00時09分16秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸に関する言葉 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月27日(水)22時21分36秒 ]


>> むかし読んだ銅鐸研究の本に,
>> 「葦の根には錫か何か金属の小塊が付着していることがあり,
>> 銅鐸埋納の起源に関わるのではないか」
>> という意味の指摘がありました。

 真弓常忠『古代の鉄と神々』のことだと思います。
 「スズ」というのは褐鉄鉱のことです。
 大阪府泉南町では「壷石」というそうで、氏が採集した壷石の
中には銅鐸そのままの形状のものもあったそうです。
 「スズ」の生成を望んで、同類(つまり銅鐸)を埋祭した、と
いうのが真弓説なのですが、農耕に直接関連しないのが難点です
ね。
 また、銅鐸の時代、褐鉄鉱を使用する製鉄が、銅鐸圏に普遍的
に行われていたかどうかも疑問ですね。

>> ここの辺り,谷川説に言う伊福部,小子部,雷神,
>> 蛇神の関連なども参考になりますですね。

 谷川説には魅力がありますね。金属関連の民は古代史で重要な
位置を占めると思います。しかし、銅鐸の工人、銅鏡の工人、製
鉄や鍛冶民、各々時代も系譜も異なるのではないかと思います。
 大阪の恩智辺りでは、銅鐸の鋳型も出土し、後には製鉄も行わ
れていたのですが、同じ系譜のものかどうかよく解りませんね。
 この辺り、一応は物部氏の本拠地となっているのですが・・。

>> 前掲書では,タミル語から日本語への変化として,
>> kom→kam という対応を想定していますから,
>> あるいは前出の koman などが,
>> 候補になるカモしれません。

 「加茂」には、対応する可能性があるかも知れませんね。
 銅鐸の倭語を「サナギ」とする説が有力なのですが、タミル語
には直接対応する言葉はなさそうですね。


332

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月28日(木)12時20分57秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月28日(木)00時09分16秒 ]

割り込み失礼します。
何かだ読んだのにミスズかる信濃と言う言葉が有ったと思います。

諏訪のモレヤの神だったかが、出雲から来たタケミナカタと戦うのにモレヤはスズを、
タケミナカタは、藤蔓をもって戦いタケミナカタが勝利するって話なんですが

関係あるかな?

>> >> むかし読んだ銅鐸研究の本に,
>> >> 「葦の根には錫か何か金属の小塊が付着していることがあり,
>> >> 銅鐸埋納の起源に関わるのではないか」
>> >> という意味の指摘がありました。

>>  真弓常忠『古代の鉄と神々』のことだと思います。
>>  「スズ」というのは褐鉄鉱のことです。
>>  大阪府泉南町では「壷石」というそうで、氏が採集した壷石の
>> 中には銅鐸そのままの形状のものもあったそうです。
>>  「スズ」の生成を望んで、同類(つまり銅鐸)を埋祭した、と
>> いうのが真弓説なのですが、農耕に直接関連しないのが難点です
>> ね。

さて、農耕と言えば芋もそうでしょう、だったら考えられるんでは?

>>  また、銅鐸の時代、褐鉄鉱を使用する製鉄が、銅鐸圏に普遍的
>> に行われていたかどうかも疑問ですね。

>> >> ここの辺り,谷川説に言う伊福部,小子部,雷神,
>> >> 蛇神の関連なども参考になりますですね。

>>  谷川説には魅力がありますね。金属関連の民は古代史で重要な
>> 位置を占めると思います。しかし、銅鐸の工人、銅鏡の工人、製
>> 鉄や鍛冶民、各々時代も系譜も異なるのではないかと思います。
>>  大阪の恩智辺りでは、銅鐸の鋳型も出土し、後には製鉄も行わ
>> れていたのですが、同じ系譜のものかどうかよく解りませんね。
>>  この辺り、一応は物部氏の本拠地となっているのですが・・。

>> >> 前掲書では,タミル語から日本語への変化として,
>> >> kom→kam という対応を想定していますから,
>> >> あるいは前出の koman などが,
>> >> 候補になるカモしれません。

>>  「加茂」には、対応する可能性があるかも知れませんね。
>>  銅鐸の倭語を「サナギ」とする説が有力なのですが、タミル語
>> には直接対応する言葉はなさそうですね。

諏訪大社にサナギと呼ばれるスズが有るのですが、これ銅鐸にも関係しているのでしょうか?
出雲系では有りますが。


333

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月28日(木)12時27分06秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月27日(水)22時52分49秒 ]

知識不足で、皆さんの議論になかなかついていけません。

>> 『扶桑略記』の記事が一人歩きしている。
>> 銅鐸文化圏などの古い考古学的知見が一人歩きしている。
>> 記紀政権争いからの推理が一人歩きしている。

このあたりを、来月号ででも、もう少し詳しくお聞きしたい気がします。


334

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月28日(木)17時25分20秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月28日(木)12時20分57秒 ]

忘れてました。
十五夜のことを、古来芋名月と呼ぶような事も有る、農耕祭祀だった出すね。
付け加えときます。


335

銅鐸と鉄鐸と鏡

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月28日(木)20時40分15秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月28日(木)12時20分57秒 ]

 こんばんは。

>> 諏訪大社にサナギと呼ばれるスズが有るのですが、これ銅鐸にも関係しているのでしょうか?
>> 出雲系では有りますが。

 鉄鐸と銅鐸に、直接的な関係はないと思いますが、底流には通じるものがあると思います。

 吉野裕子『蛇』によりますと、諏訪大社の神体は蛇だそうであります。
 また小野神社の高鉾(鉄鐸が六個付いています)は蛇の象徴だそうであります。

 弥生時代は(もしかすると縄文時代から)「蛇」を信仰していたようですね。
 吉野氏によりますと、注連縄は蛇が絡まった形、鏡餅は蛇がとぐろを巻いている形を象徴するものだそうです。こういう信仰は各地に今でも見られますね。

 弥生時代がそのような信仰社会なら、やはり、銅鐸もその枠内で考えるべきだと思います。
 つまり、銅鐸を、「蛇」「龍」「雷」を象徴する祭器と見る所以です。
 「龍=雷」とは民俗学の常識だそうですね。
 
 後世には、鏡を池に沈めて龍神に雨乞いをする行事が見られるようになります。

 蛇神信仰、雷神信仰、龍神信仰、天神信仰、それぞれ形は違いますが、底流に流れる思想は同じでしょう。
 銅鐸、鉄鐸、鏡その他の祭器の違いは、信仰の変化に対応したものではないでしょうか。

 銅鐸をそのような位置づけで考えています。特に、銅鐸だけを、特異な祭器、特異な信仰だと見なくてもいいと思います。


336

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月28日(木)20時40分31秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月26日(火)22時38分24秒 ]

こんばんは。


>>  ほんまですなぁ。おかげさまでほぼひと月楽しませてもろたっちゅうことですね。

#楽しかったです。ただ、九州説の人が(僕もそうだけど)大半というのがきにかかるところですね。畿内説の人ももっとたくさん投稿してもらいたいですね。

>>  石棺は割竹形石棺、舟形石棺、長持形石棺、家形石棺と変遷すると言われています。
>>  平原は割竹形木棺、津古生掛は組合せ式木棺。「亀山」が上記の石棺のいずれかであればもっと新しいと言えるでしょう。
>>  ただし、箱式石棺であれば別です。赤塚古墳は箱式石棺で、三世紀末(柳田康雄)から四世紀前半(田村圓澄)あたり。だから、「亀山」が箱式石棺ならばもっと古い可能性もありますね。

>>  手元の資料をあちこちひっくり返してみましたが、「亀山」の石棺の形式がわかりません。「新しいらしい」と書いたのは、箱式石棺ではなくその後の石棺である、と読んだ記憶があるのです。もうすこし調べてみます。わかればまた書きます。

#ご教示ありがとうございました。
僕の手元の資料では「神域のため学術調査がされたことがない」とありましたので、旅客機でも突っ込まなければ調査できないかも知れまへんなぁ(笑)。
 いや、これは冗談やけど。

>>  市村其三郎は第三神殿(祭神は神功皇后)の石棺が卑弥呼の墓だと言ってますね。

#その石棺は公開されとるの?
高木彬光の本にあった目撃された石棺はこれなんやろか?興味深いね。
 あと、宇佐神宮の建立は725年聖武天皇の勅命によるもんやそうです。このとき朝廷はなんでここを選んだんやろか?単に小高い丘で見晴らしが良かったからやろうか?
 もし、ここがお墓だと知っていたとして、誰のお墓か知っていたんやろうか?
 興味の尽きないところであります。


337

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月28日(木)21時24分32秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 3月25日(月)22時07分06秒 ]

こんばんわ
如何も遅くなりすいません。
考えがまとまりませんでしたので、遅くなりました。

>> >> >> >> 銅鐸は、祭りの時以外は箱に入れ埋納しておくものらしい事が判っています。
>> >> >> #そうかなー。
>> >> 色々有るようですが、大事に埋められている事も確かのようですね。
>>  同じ埋められているのでも、埋納(銅鐸)と副葬(銅鏡、銅矛・戈)では性格が違うのではないでしょうか。
>>  階級性の弱い村社会(埋納)と階級分化の進んだ「クニ」(副葬)の違いと見るのが一般的では?

確かに。
言われて思いついたのですが、もしかすると其の国をまとめる首長的な国が、
各村に、村の祭器として配ったと見る事も出来ますね。

>> >> >> >> 銅鐸は鋳造技術においては、鏡など比べ物にならないほど高度なものです。
>> >> >> #ふむふむ。その高度な鋳造技術はどこへいってしまったのでしょう。
>>  三角縁地鏡?

如何なんでしょう?

>> >> 縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
>> >> 航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?
>>  難破の量が多いことをおっしゃてるのだと思いますが、
>>  半島に沿って「水行」するのと、東中国海を「渡海」する危険度の差でしょう。

航海術だけでなく、船です。
大きく放ってるようですが、埴輪他に比べるとチャっく成ってませんか?

縄文の昔から、こちらの航路もあったらしいんでしょから其れを考えると・・・・


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Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月28日(木)21時36分12秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月25日(月)23時18分49秒 ]

>> 馬頭鬼さん、今晩は。割り込み失礼します。

こちらこそ送れて住みません。

>> >> では、何時頃まで、祭祀に使われたと思っておられるのです?

>> 古墳時代の始まる直前まででしょう?

そうでしょうか?

>> >> 九州では、作られていることは確かなのに、発見例は、現在のところ、非常に少ない。

>> 九州では祭器としてはあまり使われていないので。
>> 九州は大きい銅鐸でも20cmくらいで小さいのは10cmくらい。いずれも音を出すようになっていた。

つまり、中国と同じように楽器として使われてた可能性も有る?
と言う事でしょうか?

ですが、私は、仏教が伝わる辺りまで使われていたのでは?
と考えています。
もしかすると、供養の後、金銅仏に鋳直されたり、
したので残ってないのではと?

>> 大和のやつも東奈良のものは音を出していたらしいが他のものはどうでしょう?
>> 東奈良のやつはひょっとすると九州から持ち込まれたかも知れません。
>> 鋳型がずれて失敗作らしいのに使いこまれている。

>> 大和で作られた物は音を出さない祭器ですよね。

>> >> 何故、高価な翡翠が、千年以上忘れられてしまったのか?

>> 翡翠が宝石として縄文時代からそこそこの価値は認められていたでしょうが、現在のように高い価値を認められるようになったのは
>> 西太后が翡翠を熱狂的に愛したからだと台湾旅行の時のお土産ショップで聞きました。

日本でも玉帯やなんかが使われていましたし、
中国人は、ビルマまで、わざわざ交易にでかけています。
また、葬る時着せるキンルとか、唐以後も結構ニーズはあります。
交易品としての価値は、非常に高いわけです。

>> >> 縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
>> >> 航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?
>> >> 如何も判らない事だらけですね。

>> 漁業より米作農業に重点が移り、職業が固定化世襲化し、身分の上下がはっきりし、官僚化していき、船乗りの身分が下げられた為ではないでしょうか。
>> そんな気がします。

成るほど、考えられますね。
ですが、交易はどうなったのでしょうか?


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Re: 銅鐸と鉄鐸と鏡

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月28日(木)21時42分35秒]

元の発言 [ 銅鐸と鉄鐸と鏡 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月28日(木)20時40分15秒 ]

>>  こんばんは。

こんばんは。

>> >> 諏訪大社にサナギと呼ばれるスズが有るのですが、これ銅鐸にも関係しているのでしょうか?
>> >> 出雲系では有りますが。

>>  鉄鐸と銅鐸に、直接的な関係はないと思いますが、底流には通じるものがあると思います。

>>  吉野裕子『蛇』によりますと、諏訪大社の神体は蛇だそうであります。
>>  また小野神社の高鉾(鉄鐸が六個付いています)は蛇の象徴だそうであります。

>>  弥生時代は(もしかすると縄文時代から)「蛇」を信仰していたようですね。
>>  吉野氏によりますと、注連縄は蛇が絡まった形、鏡餅は蛇がとぐろを巻いている形を象徴するものだそうです。こういう信仰は各地に今でも見られますね。

>>  弥生時代がそのような信仰社会なら、やはり、銅鐸もその枠内で考えるべきだと思います。
>>  つまり、銅鐸を、「蛇」「龍」「雷」を象徴する祭器と見る所以です。
>>  「龍=雷」とは民俗学の常識だそうですね。
>>  
>>  後世には、鏡を池に沈めて龍神に雨乞いをする行事が見られるようになります。

成るほど、縄文時代から、蛇と蛙の進行はあったようですから、
縄文土器の文様を見ると確かでしょうね。

>>  蛇神信仰、雷神信仰、龍神信仰、天神信仰、それぞれ形は違いますが、底流に流れる思想は同じでしょう。
>>  銅鐸、鉄鐸、鏡その他の祭器の違いは、信仰の変化に対応したものではないでしょうか。

現在も有る、稲荷信仰にも通じるものでしょうね。

>>  銅鐸をそのような位置づけで考えています。特に、銅鐸だけを、特異な祭器、特異な信仰だと見なくてもいいと思います。

稲荷は、稲光、謡曲の小鍛冶に有る通り稲妻などから来ているとすれば、
同じような事と見るべきかもしれませんね。


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Re: Title真珠

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月7日(木)19時02分17秒]

元の発言 [ Title真珠 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月7日(木)00時23分57秒 ]

>> 倭人伝に、ある真珠を調べてみました。

>> 真珠、玉と並んで和国の特産と去れているものですけど、博物館などでも発掘品が展示されているのを見た事がありません。
>> 本にも、記載が無いため調べる事も難しいのですが、海、わたつみ国である日本の重要な産物である事も確かです。

>> ネット上に有る情報から調べ始めてみたのですが、縄文の貝塚から出土しているようですね。
>> 高知県宿毛市の宿毛貝塚(後期紀文)からは、9ミリ×7ミリ 重さ 0.55gの真珠が見つかって居るそうです。
>> 考えてみれば、当然の事かもしれません。
>> 穴あけされたものも、縄文時代の貝塚から出ているようです。

>> 真珠貝と言えば、日本では、阿古屋貝とされています。
>> が、実際には、邪馬四さんが指摘されている通り、あわびからも取れますし、
>> 其れ以外からも取れます。以外なのは、蜆やハマグリなどからも取れると言う事です。

>> また、発見されている穴明き真珠には、淡水産のものもあるようです。
>> カラス貝や沼などに住むドブ貝も良質な、真珠が取れるようです。
>> つまり縄文の昔から、首飾りや腕飾り髪飾りや簪などにもされたのかもしれません。

>> そして、貝塚から見る通り、貝は、重要な食品でした。
>> 其の中から取れるものであれば、非常に重要視された事でしょう。
>> 其の上、貝は知られる様に、薬代名詞にも使い、其れを意味する女神の話もありますね。
>> キサガイヒメやウムガイヒメがそうです。
>> さらに、女性器にたとえられます。

>> 性崇拝があり、御神体や神話にも貝の女神の話などがある。
>> 其処から取れる真珠は、古代の人には、どのように見られ扱われていたのでしょう。
>> 国内あちこちで見る貝塚、であれば、かなりの真珠が、出ていたはず。

>> http://www.nihongo.com/pearl/pearl.htm

>> のことぐらいしか見つかれませんでした。

http://www.city.tamana.kumamoto.jp/mukasi/mukasi02.htm
http://www.le-collier.com/mini/sinju.htm
あたりはどうでしょう?

>> また、古墳などからの、出土例もみつかりません
>> どのような説や資料が、あるのか、ご存知の方は、教えて戴けないでしょうか。

真珠の出土例は6世紀の 福岡県宗像郡大島村沖ノ島遺跡7号古墳でもあるみたいです。

真珠については倭国内で豊富に取れた筈なのに明帝からの贈り物のリストに入っていますね。何故でしょう?
明帝の時はまだ倭国内で真珠がとれるという事が中国では知られていなかったのか?
一方、壹與は白珠五千を貢いでいます。白珠は真珠かなあ?

真珠は有機物ですから環境が悪いと劣化し、汚い石ころになってしまいますよね。
特に畿内の古墳は湿地帯にあるものが多く、人骨も残っていないのが多いですよね。
周濠なんて馬鹿な物を作って古墳の劣化速度を速めた。
それで出土例が少ないのでは?

それより古代の倭人は沢山取れすぎてそれほど真珠を有り難たがらなかったのかもしれませんね。
白珠が真珠だとして真珠を貰った倭人は「中国人はこんな物喜ぶんだ。」とか言って笑ったかもしれない。


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Re: 偶然の一致はまずありえない

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月28日(木)23時15分00秒]

元の発言 [ Re: 偶然の一致はまずありえない ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月25日(月)07時46分34秒 ]

やましさん こんばんは 帰ってきました。

>>もし、正史である「三国志」がそんなにいい加減なものであることが、「倭人伝」以外の部分で
>>はっきりしているならその主張は分かります。しかし、そんなことはないでしょう?

#これは、読んでみれば、三国志が間違いだらけなのがすぐわかります。
 中華書局版の校記では410か所も誤字・脱字などの間違いの指摘ありますし、昨年12月にも書きましたが、錯簡らしいものも含めて日付の間違いは数え切れないほどあります。
 裴松之の注にも、もとの記述に対して「そんなわけないじゃん」って感じのやつがたくさんあって、例えば一番最初の武帝紀の中には(パラパラッとめくってマルセが気がついたところだけ)、建安5年正月、同8月、8年8月、16年7月の4か所にその手の注がついてます。
 傑作なのは、建安5年正月のところで、ちくま学芸文庫の「正史三国志I」から引用すると、「臣裴松之は考える。歴史家が言葉を記す場合、潤色が多いものだ。したがって、先行の書物に述べられていることには事実でないものがある。後の作者がまたかってな考えを起こしてそれを改める。真実を失うという点で、ますます距離があくというものではないか。」裴松之のこんなボヤキが三国志の中に書かれています。


>>「不自然」というのはどういう意味か考えましょう。
>>(1)考古学的に不自然である。
>>(2)倭人伝の記述に対し不自然である。

#そうゆうことではなくて、20近い数の小国(やましさんの地図は国境線が引かれていないのではっきりしませんが15か国くらい?)が大国と隣接している国際的な政治状況が、古今東西あまり類例を見ないことを指して、言っているのです。
 しかも、小国のほうはつぶぞろいで、うねうねと21か国も、蛇のようにというか、数珠のようにというか、並んでいる。このような地図が現出する政治状況をちょっと想定できないので、それで不自然と。
 もっとも、やましさんから見ると「特に不自然には思えない」っていうことなんでしょうが。


>>著者に読みが分からなくて、しかもその地域が遠く調査が困難な場合、
>>どのように読みを示したのだろうかと疑問なのです。
>>いくつかの読みがあるのは、少なくとも現地人がどのように
>>読んでいたかということを、正確に調査しなかったことを示している
>>と思います。つまり、著者自身の読み方なのだろうと。

#「読み方を知らないので、適当なことを書いた」っていうのは、さすがに少ないとは思いますが。

>>こういう地名が地方にあったとして、和名抄あたりの著者に
>>その読み方が分からなかった可能性はあると思われますか。

#当然あると思います。和名抄は、地名の全部には読み仮名が振られてないですよね。
 ところで、和名抄の成立事情についてはよく知らないのですが、地名のところは、高山寺本とか東急本とか、本によって仮名として選ばれた漢字が異なっているのですけれど、これって、「源順が撰んだときには、地名に仮名が振られていなくて、後の時代に筆写した誰かがそれぞれ勝手に振った」ということなのでは?


参考+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
現在の世界で最も隣接国が多い国 ロシア(14)
 北朝鮮、中国、モンゴル、カザフスタン、アゼルバイジャン、グルジア、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、フィンランド、ノルウェー

日本の律令の国で最も隣接国が多い国 信濃(10)
 美濃、飛騨、越中、越後、上野、武蔵、甲斐、遠江、駿河、参河


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Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月29日(金)00時24分11秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月28日(木)21時36分12秒 ]

>> >> >> では、何時頃まで、祭祀に使われたと思っておられるのです?
>> >> 古墳時代の始まる直前まででしょう?
>> そうでしょうか?
#牛頭天王は大和と東奈良を同じ政治権力に属するものとお考えですか。私は、それはちょっと違うんじゃないかと感じています。あの近さだから必ずしも常に戦争状態にあったとは思いませんが、基本的に対等な「王」がいたんじゃないでしょうか。
大和では、銅鐸はかなり早い時期に消滅したということはないのでしょうか。

>> もしかすると、供養の後、金銅仏に鋳直されたり、
>> したので残ってないのではと?
#転地天皇の時代に銅鐸(らしきもの)が出土したが、それが何であるか誰も知らなかったということなので、これはないんじゃありませんか。


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Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月29日(金)19時15分55秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月28日(木)21時36分12秒 ]

>> >> >> では、何時頃まで、祭祀に使われたと思っておられるのです?

>> >> 古墳時代の始まる直前まででしょう?

>> そうでしょうか?

少なくとも古墳の副葬品になった事はないし、古墳時代以降の遺跡からの発掘例を私は知りません。

>> >> >> 九州では、作られていることは確かなのに、発見例は、現在のところ、非常に少ない。

>> >> 九州では祭器としてはあまり使われていないので。
>> >> 九州は大きい銅鐸でも20cmくらいで小さいのは10cmくらい。いずれも音を出すようになっていた。

>> つまり、中国と同じように楽器として使われてた可能性も有る?
>> と言う事でしょうか?

宗教行事の中の楽器の一種であった可能性は高いでしょうね。
笛とか太鼓と一緒に奏でながら交霊の儀式を行うとか。
但し、九州ではこれは神器ではなく、あくまでも道具でしかなかった。
畿内では神の宿る神器となったのではないでしょうか。
だからこれを振り回して音を出すような事はしなかった。

>> ですが、私は、仏教が伝わる辺りまで使われていたのでは?
>> と考えています。
>> もしかすると、供養の後、金銅仏に鋳直されたり、
>> したので残ってないのではと?

私はEKさんの意見と同じです。
鋳直しされたとすれば三角縁神獣鏡に、の可能性が大です。

>> >> 翡翠が宝石として縄文時代からそこそこの価値は認められていたでしょうが、現在のように高い価値を認められるようになったのは
>> >> 西太后が翡翠を熱狂的に愛したからだと台湾旅行の時のお土産ショップで聞きました。

>> 日本でも玉帯やなんかが使われていましたし、

日本ではなんと言っても生産量が少なすぎて、しかもそれほど質の高い物は取れなかったでしょう?
だから勾玉なんかガラス製が多い。

>> 中国人は、ビルマまで、わざわざ交易にでかけています。

それも西太后の頃だと聞きました。
あ、記憶違いをしてました、この情報は故宮博物院で聞いた事の間違いでした。

>> また、葬る時着せるキンルとか、唐以後も結構ニーズはあります。
>> 交易品としての価値は、非常に高いわけです。

>> >> >> 縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
>> >> >> 航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?
>> >> >> 如何も判らない事だらけですね。

>> >> 漁業より米作農業に重点が移り、職業が固定化世襲化し、身分の上下がはっきりし、官僚化していき、船乗りの身分が下げられた為ではないでしょうか。
>> >> そんな気がします。

>> 成るほど、考えられますね。
>> ですが、交易はどうなったのでしょうか?

特に大和について言える事ですが、独自文化を発展させるには交易は少ない方が良いのです。
平安時代、江戸時代と日本は独自の文化を作り上げました。
弥生時代、畿内はかなり特殊な文化を発展させました。
彼らは九州の文明を取り入れるのでさえかなり不自由していたのではないでしょうか?



343

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月29日(金)19時20分50秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月28日(木)00時09分16秒 ]

>>  真弓常忠『古代の鉄と神々』のことだと思います。
>>  「スズ」というのは褐鉄鉱のことです。


あ,思い出してきました。

「いすず」についての論考もあったかな。


>>  この辺り、一応は物部氏の本拠地となっているのですが・・。


どうも,やっぱり物部氏ですかね。外来説と土着説とあるらしい。

「モノ」という語が,どうも不思議な言葉です。
大物主神とも絡むんでしょう。

技術的には,

鉄鐸へ進化した一派と,
銅鐸芸術へ突入・退潮した一派とあったかもしれません。

とはいえ,

銅鐸派が平和の民とばかり言えるかどうか。

>>  銅鐸の倭語を「サナギ」とする説が有力なのですが、


どうも記紀における神の属性の一の相は,
金属神のような気がします。

個人的な古代史の趣味は,
実は「サナギ」の解明なもので,
その線で銅鐸・鉄鐸の類に関心があります。


344

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月29日(金)19時58分36秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月29日(金)00時24分11秒 ]

>> #牛頭天王は大和と東奈良を同じ政治権力に属するものとお考えですか。私は、それはちょっと違うんじゃないかと感じています。あの近さだから必ずしも常に戦争状態にあったとは思いませんが、基本的に対等な「王」がいたんじゃないでしょうか。

東奈良と纏向は時代が違うでしょう。
BC180年くらいの遺跡とか。

>> 大和では、銅鐸はかなり早い時期に消滅したということはないのでしょうか。

大和王権は倭人の国ではない。三世紀中ごろ魏によって滅ぼされた〇〇国の敗残兵によって作られた国である。
と言うのが私の持論ですから「大和と東奈良を同じ政治権力」ではないと思っていますよ。

つまり古墳時代直前まではあったが前方後円墳が作られた時には消滅していた。

>> >> もしかすると、供養の後、金銅仏に鋳直されたり、
>> >> したので残ってないのではと?
>> #転地天皇の時代に銅鐸(らしきもの)が出土したが、それが何であるか誰も知らなかったということなので、これはないんじゃありませんか。

私もその通りだと思います。
これは鉄鐸とも木鐸とも直接の関係は無です。


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Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月29日(金)22時08分27秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月29日(金)19時15分55秒 ]

>> 少なくとも古墳の副葬品になった事はないし、古墳時代以降の遺跡からの発掘例を私は知りません。

成るほど。

>> >> >> 九州は大きい銅鐸でも20cmくらいで小さいのは10cmくらい。いずれも音を出すようになっていた。

>> >> つまり、中国と同じように楽器として使われてた可能性も有る?
>> >> と言う事でしょうか?

>> 宗教行事の中の楽器の一種であった可能性は高いでしょうね。
>> 笛とか太鼓と一緒に奏でながら交霊の儀式を行うとか。
>> 但し、九州ではこれは神器ではなく、あくまでも道具でしかなかった。
>> 畿内では神の宿る神器となったのではないでしょうか。
>> だからこれを振り回して音を出すような事はしなかった。

でしょううか?

>> >> ですが、私は、仏教が伝わる辺りまで使われていたのでは?
>> >> と考えています。
>> >> もしかすると、供養の後、金銅仏に鋳直されたり、
>> >> したので残ってないのではと?

>> 私はEKさんの意見と同じです。
>> 鋳直しされたとすれば三角縁神獣鏡に、の可能性が大です。

其れは有得る話ですが・・・。

>> >> >> 翡翠が宝石として縄文時代からそこそこの価値は認められていたでしょうが、現在のように高い価値を認められるようになったのは
>> >> >> 西太后が翡翠を熱狂的に愛したからだと台湾旅行の時のお土産ショップで聞きました。

>> >> 日本でも玉帯やなんかが使われていましたし、

>> 日本ではなんと言っても生産量が少なすぎて、しかもそれほど質の高い物は取れなかったでしょう?
>> だから勾玉なんかガラス製が多い。

三内円山やなんかの出土品の玉なんか見ると
これには、全く同意で来ません。
現物をご覧になっての意見でしょうか?

糸魚川輪辺りに出かけられた事はございますか?
最近でも、時折素晴らしいものが出ているようですから、
知らずに漬物意思に使ってたなんてことがあるようですし。

>> >> 中国人は、ビルマまで、わざわざ交易にでかけています。

>> それも西太后の頃だと聞きました。
>> あ、記憶違いをしてました、この情報は故宮博物院で聞いた事の間違いでした。

>> >> また、葬る時着せるキンルとか、唐以後も結構ニーズはあります。
>> >> 交易品としての価値は、非常に高いわけです。

>> >> >> >> 縄文、弥生、古墳時代とあれだけ発達していた造船術、
>> >> >> >> 航海術は、遣唐使の時代は、何故あれほどに衰えてしまったのか?
>> >> >> >> 如何も判らない事だらけですね。

>> >> >> 漁業より米作農業に重点が移り、職業が固定化世襲化し、身分の上下がはっきりし、官僚化していき、船乗りの身分が下げられた為ではないでしょうか。
>> >> >> そんな気がします。

>> >> 成るほど、考えられますね。
>> >> ですが、交易はどうなったのでしょうか?

>> 特に大和について言える事ですが、独自文化を発展させるには交易は少ない方が良いのです。
>> 平安時代、江戸時代と日本は独自の文化を作り上げました。
>> 弥生時代、畿内はかなり特殊な文化を発展させました。
>> 彼らは九州の文明を取り入れるのでさえかなり不自由していたのではないでしょうか?

一つの、考え方では有りますね。
しかし、江戸時代なんか、閉鎖に見えて以外と外の要素が、
見えないように、入っていますから。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月29日(金)23時01分02秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月28日(木)20時40分31秒 ]

 こんばんは。

>#楽しかったです。ただ、九州説の人が(僕もそうだけど)大半というのがきにかかるところですね。畿内説の人ももっとたくさん投稿してもらいたいですね。

 おっしゃる通りです。
 九州説は僕も含めて素人が多いですが、大和説はプロ、あるいはセミプロと申しますか、勉強熱心な方が多いような気がします。


>#ご教示ありがとうございました。

 とんでもございません。不確かな記憶に基づく書きこみで大変失礼をいたしました。
 さらにあちこち目を通してみたんですが、石棺の形状を書いたものが見当たりません。
 で、ハードディスクに仕舞っていた「大論争」の過去ログを辿っていたら下記の投稿がありました。投稿者のお名前は伏せさせていただきます。
> 99/01/20 02:17:46
> お説での卑弥呼の墓である宇佐の「亀山」は、「人骨・副葬品」「墳丘の形体」「墳丘部分から出土した土器・木片」のいずれについても正式な調査がされておらず、墳墓であるということそのものが未確認といえます。また石棺が目撃されたということが本当ならば、それは古墳時代中期以降の石棺である可能性もあるわけで、卑弥呼の時代とは大きく食い違います。

 どうやら僕の記憶の基はこれかもしれません。
 それにしても、記憶のしかたがじつにいい加減でございました。
 「新しいらしい」ではなく、石棺の形状がわかりませんので、今のところ「不明」と謹んで訂正いたします。

 
 宇佐は邪馬台国論争だけではなく、後の時代でも興味ありますネ。


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Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月30日(土)00時17分52秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月29日(金)19時20分50秒 ]


>> どうも,やっぱり物部氏ですかね。外来説と土着説とあるらしい。

 土着説の中では谷川健一説の、九州から銅鐸を携えて行ったのが
物部氏、というのが有名ですね。
 これを普通、外来説とはしないような感じですね。

 私は、物部氏は五世紀以後とする説に従いますが、南河内で銅鐸
と鉄が重なるのが混乱の元ですね。

 物部氏をどう理解するかで、古代史像はまるで異なる様相を呈し
ますね。

>> 「モノ」という語が,どうも不思議な言葉です。
>> 大物主神とも絡むんでしょう。

 「物部」は、百済の部制に由来するとする説があります。
 「部」あっての物部ですから五世紀以後の氏族とされるわけです。
 ですから「物部」の「物」は、もしかすると、百済の言語に関係
するかもしれません。
 
 一方の「大物主」の「物」は何でしょうね?
 
 大物主と物部は直接には絡まないと思います。
 大物主を祀るのは、三輪氏ということになっていますから。
 それに第一、物部氏は饒速日を祀るのではありませんか。

>> 個人的な古代史の趣味は,
>> 実は「サナギ」の解明なもので,
>> その線で銅鐸・鉄鐸の類に関心があります。

 「サナギ」に関しては、吉野裕子氏が、「子蛇」のことである、
と簡単に言ってのけておられます。
 この場合は、鉄鐸を指す「サナギ」ですが・・。
 この解釈は成り立たないとお考えですか?



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Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月30日(土)14時15分55秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 3月29日(金)22時08分27秒 ]

>> >> 弥生時代、畿内はかなり特殊な文化を発展させました。
>> >> 彼らは九州の文明を取り入れるのでさえかなり不自由していたのではないでしょうか?
#これはすごく納得できる見方です。

>> しかし、江戸時代なんか、閉鎖に見えて以外と外の要素が、
>> 見えないように、入っていますから。
#しかし、うしろめたさというか、必ずしも肯定的でない態度で接していたんではありませんか。明治や戦後のように、外国の文化が無条件に良い、という雰囲気がある時代とは違うと思います。


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Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月30日(土)19時47分27秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月30日(土)00時17分52秒 ]


>>  土着説の中では谷川健一説の、九州から銅鐸を携えて行ったのが
>> 物部氏、というのが有名ですね。


元を辿ると,半島からの渡来説では? 
九州での物部氏の拠点は有明海周辺とかの説ですね。

>>  物部氏をどう理解するかで、古代史像はまるで異なる様相を呈し
>> ますね。


銅鐸というと,葦原中国に早くに開拓に来た人たちの,
精神的な象徴みたいな面を感じます。

平地の草っぱらや荒地を開拓する際に,
山の神として谷あい等に埋納したんでしょうか。

神武東遷には,ある意味で,物部対神武という図式もあるそうなので,
河内から大和にかけての政治地図が気になります。

>>  「物部」は、百済の部制に由来するとする説があります。
>>  「部」あっての物部ですから五世紀以後の氏族とされるわけです。
>>  ですから「物部」の「物」は、もしかすると、百済の言語に関係
>> するかもしれません。


金属関連または武器関連の統率者の家系でしょうね。
聖徳太子の件で,古来,神道の本流とも言われています。

ですから,その神道と言われるものからの探求も興味深いです。


 
>>  一方の「大物主」の「物」は何でしょうね?
>>  
>>  大物主と物部は直接には絡まないと思います。
>>  大物主を祀るのは、三輪氏ということになっていますから。
>>  それに第一、物部氏は饒速日を祀るのではありませんか。


物部氏と多氏の問題が絡みますですね。

谷川説だと,物部氏は,日下(くさか)地名に絡むとか,
日神信仰の道統という,例の何ですか。

その大和朝廷に先行する日神信仰の道統に関して,
三輪山の太陽信仰を説く向きがあります。

しかも,鉄とかの金属関連と説く向きもあります。

大物主神は出雲経由で来たが,元を正すと,
物部と同系という線は,どうでしょう?

いずれも,銅鐸っぽい妖しい雰囲気が・・・。

>>  「サナギ」に関しては、吉野裕子氏が、「子蛇」のことである、
>> と簡単に言ってのけておられます。
>>  この場合は、鉄鐸を指す「サナギ」ですが・・。
>>  この解釈は成り立たないとお考えですか?


正確には「サナキ」みたいですね。

えー,研究中です。



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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月7日(木)20時06分01秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 小鳥遊 ] 日付 [ 3月7日(木)18時14分19秒 ]

>> 古事記編纂は711年から、日本書紀編纂は681年からだそうですが、(以下省略)

うーん 要約版か。
日本書紀のほうが新しいとは聞きましたが。
天皇の名前の部分で「ヤマト」が記では 倭 で紀が 日本 。
古事記を参考にして倭から日本の文字にしたとききました。
古事記の要約版が日本書紀ともいえるんじゃないかな。

鷹があらわれたら、猫も身を隠そうっと。



350

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月30日(土)23時05分56秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月30日(土)19時47分27秒 ]

>> 神武東遷には,ある意味で,物部対神武という図式もあるそうなので,
これはどういうことですか。物部って、そんなに古いんですか。

>> >>  「部」あっての物部ですから五世紀以後の氏族とされるわけです。
#というご意見もあるし。



351

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月31日(日)00時17分10秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月30日(土)23時05分56秒 ]

谷川健一著『青銅の神の足跡』(集英社文庫)第400頁によると,

「神武東遷以前に物部氏が河内から大和の一部に展開していたことは
まぎれもないことで,『日本書紀』もそれを認めている。」

とあります。

どうやら,同第397頁によると,ナガスネヒコが用いた武器は,
物部氏が作ったものだそうです。

なにか議論があるようですが,ニギハヤヒ伝承は,
神武東遷に先行しているはずですから。

ところで,

谷川説について,前の投稿で「半島からの渡来説」と,
書き込んでしまいましたが,というわけでもないらしく,
なんだか分からなくなってしまいました。

また調べなおします。

>> >> >>  「部」あっての物部ですから五世紀以後の氏族とされるわけです。
>> #というご意見もあるし。


だとしたら,神武東遷以前,彼らは何者と称していたか,
という関心になりますですね。



352

Re: 銅鐸と壷石

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [3月31日(日)00時34分00秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸と壷石 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 3月30日(土)19時47分27秒 ]


>> 元を辿ると,半島からの渡来説では? 
>> 九州での物部氏の拠点は有明海周辺とかの説ですね。


「江南地方からの渡来説では?」かな。


353

Re: 銅鐸国の歴史

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月31日(日)10時06分18秒]

元の発言 [ Re: 銅鐸国の歴史 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月30日(土)14時15分55秒 ]

>> >> >> 弥生時代、畿内はかなり特殊な文化を発展させました。
>> >> >> 彼らは九州の文明を取り入れるのでさえかなり不自由していたのではないでしょうか?
>> #これはすごく納得できる見方です。

うーむ
さて如何なんでしょう?
北海道方面の様相と交易ほか、からすると其方から大陸文化が入ってきても、
おかしくない様にも見えますが
もっとも、共通に近いと言う事ですが

>> >> しかし、江戸時代なんか、閉鎖に見えて以外と外の要素が、
>> >> 見えないように、入っていますから。
>> #しかし、うしろめたさというか、必ずしも肯定的でない態度で接していたんではありませんか。明治や戦後のように、外国の文化が無条件に良い、という雰囲気がある時代とは違うと思います。

ちと、違うのでは、昔から日本では、好奇心が強いと言うのか、
まず試してみようってなことが有りますからね。
異文化に対してアレルギーが無い。
中国からの文物によるってな話があるんですから。



354

本日23:00定期メンテナンスを行います。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月31日(日)18時18分16秒]

それでは新年度も宜しく。


36

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月7日(木)20時27分47秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月7日(木)12時27分30秒 ]


>> #例えばどんな成果ですか。

なんか怖いな。
記紀ではないけど出雲大社の神殿とかそうでしょう。残されていた設計図では(金輪造営図というそうです)高さ16尺、32尺とか 巨木を3本束ねて柱とする 太さは4.5M >なんてこと書いてあったらしいのですが、本居宣長はこれを「こんな高さのあるわけがない」として、これがずっと定説でしたが最近の発掘結果はみなさんご存知の通り。http://www.inoues.net/yamataikoku/mystery/izumo_nazo.html

記紀には何度も丹波の記事がでて、遺跡がないのにこれはどういうことなのかわからなかったけれども最近では京都北部は3、4世紀の墳丘墓がおおく、鉄剣の多量埋葬の特色をもってます。まさに丹波王国。

もっともきわめつけはやはり荒神谷の銅剣多量埋葬でしょう。そして加茂岩倉。まさに弥生の時代に出雲王国があったわけだ。最近では妻木晩田遺跡。

そんなんでわたしは記紀をおもいきって全部史実として見直しています。神武も欠史八代も神宮皇后も。



37

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月7日(木)20時46分04秒]

元の発言 [ 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月6日(水)00時53分36秒 ]


>>  何が言いたいかと申しますと、郡から女王国までの万二千余里

松本清張さんは、「あの当時の中国では外国の僻地はだいたい一万二千余里としてんだ」というコメントがありまして、それがほんとうならぼくとしてはあんまり日程行程記事にはかかわりたくないかなあと。

それより松浦国、伊都国、奴国と北部九州沿岸の国々を挙げていてなぜ投馬、邪馬台国へといきなり飛んでしまうのかが疑問です。

ぼくとしては、「東にまた国あり海をわたること千余里」
、「倭国の周5千余里」、伊都の国にあった一大率を「諸国おおいに恐れる」、南の狗奴国の攻撃により魏に緊急に使いをだした、などのことが邪馬台国の位置を決めるものだと思ってます。



38

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ EK ] 発言日時 [3月7日(木)21時03分37秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月7日(木)20時27分47秒 ]

>> なんか怖いな。
すみません。「たいした」悪意はありません。適切な表現ではないなーと自分でも思ったのですが。

>> 記紀ではないけど出雲大社の神殿とかそうでしょう。
・・・
>> そんなんでわたしは記紀をおもいきって全部史実として見直しています。神武も欠史八代も神宮皇后も。
#よくわかりました。私も、「この天皇の名前には実体を表す部分がないから、実在しなかったに違いない。」を連発していた偉い先生の本は、途中で捨てました。「記紀は6世紀の創作だ」という説の根拠にはまったく納得していません。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月7日(木)22時33分11秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ EK ] 日付 [ 3月7日(木)21時03分37秒 ]

>> すみません。「たいした」悪意はありません。

助かりました。


>> 「記紀は6世紀の創作だ」という説の根拠にはまったく納得していません。

賛同します。

わたしが記紀をすべて史実としようと考えたのは古田武彦氏の影響です。氏の「邪馬台国はなかった」では陳寿の記述はすべて正しいとして、そんならぼくは記紀はすべて正しいものとみてやれ、と思ったのが原因です。

現代語訳を買って読んだけど、最初の神代の巻はなに書いてあるかさっぱりわかんなくて読み飛ばしてましたが、東遷説を意識するようになると神代は伊都国や奴国あたりの地名が出てきて、「東遷は史実だった!」と思うようになってしまった。
いまでは買ってよかったと思ってます。



4

承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月6日(水)00時53分36秒]

管理人様、お手数かけます。

承前 女王之所都
koujiさん、こんばんは。

> しかし、七千餘里が実際にその航路を旅した人の記録であるとすれば、日程とはかかわりなく算出された数字である可能性もあります。

 七千余里が航海者の実感から得られた里数であることを前提に考えているのですが、もちろん日程は記されていないのですから、何日かかったかは不明ですので、一日30里を平均とした場合233日以上かかる計算になりましょう。

> だから実際に230日以上かけて旅したかどうかとなると、水上交通は条件により速度にばらつきが大きいので、必ずしもそうはいえません。

 とすれば、
> 不彌国から邪馬臺国までが水行三十日・陸行一月と明記してあります。一日の行程を三十里(約13km)として60日×30里=1800里。

 これも必ずしもそうとは言えないですね。
 つまり、万二千余里から万五百余里を差し引いた千五百里は上記の計算で求められたものではない。
 先日も申し上げましたが、偶然の産物であったと申し上げるしかないと思います。
 何が言いたいかと申しますと、郡から女王国までの万二千余里と、投馬国・邪馬台国への日数表記の行程記事はまったく無関係な史料だったと言うことになると思います。

> ところで、230日以上かかることに何か問題があるでしょうか?

 率直に申し上げて、そんなにかかるはずないんとちゃうかな?ということです。
 以下はおおざっぱな計算です。

 魏志倭人伝に、
>景初二(あるいは三年)年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。

 方向は逆ですけれども、郡と狗邪韓国間を約233日=約八ヶ月と、伊都国から狗邪韓国までを約一ヶ月としますと、前年の十月に伊都国を出発したことになります。
 これから冬に向かい北風にさらされる季節です。船で北へ向かうには不向きな気候です。
 むしろ冬が過ぎ、春一番が吹いた後、気候が良くなって南風を背にしての出航ではないかと思うのです。
 ですから、そんなにはかからなかったろうと思います。一日30里以上は進んでいるだろうと思います。現に、対海国、一大国、末盧国間は実質的には一日30里以上進んでいるのですから。


> 渡海航路の実際に渡海した一日の航海距離を一般化することに無理があるのだと思います。

 ここんとこ意味がよくわかりません。

>件の朝鮮通信使は、海岸沿いのルートである肥前名護屋から堺まで、往路では十九日、復路では三十日を要しています。

 沿岸航路もまた一般化できないと言うことでしょうか。

 いずれにしましても、60日x30里=1800里を積算したことによって万二千余里の数字が得られたのではない、また、郡から狗邪韓国間は233日もの日数がかかったのでもないと言えるのではないかと思います。

(郭公)
>>  ここも腑に落ちないのですが、いったい背振山脈を越えてどのようなルートで伊都国へ行ったのでしょうか? 何日かけて?

 ちょっと意地悪な質問をしてしまいましたか。
 先年前原に行きました。じつは僕は行くまでは、津に臨んで捜路した港は、加布里ではなく博多湾側の周船寺ではないかと思っていました。一大国から直接周船寺の方へ入港したのだろうと。
 でも行ってみて感じたのは、前原はどちらかと言えば、東を向いて開けてるのではなく唐津湾を挟んで松浦の方を向いてる土地のような印象を持ちました。(これはあくまでも印象です)

 桜馬場遺跡から、平原のより古いタイプの方格規矩鏡が出ていますが、伊都国と末盧国はもちろん湾内を船で往来することの方が多かったかもしれませんけれども、陸路がないわけもないでしょう。背振山脈の終焉が唐津湾に迫っていますけれど、地図をみれば、海岸沿い、峠越えの道も数本前原と繋がっています。わざわざ背振山脈を巻いて奴国を通ることはないでしょう。

> 一旦佐賀平野に出て奴國経由で伊都國入りしたのかもれませんね。それなら本当に5:1ぐらいにはなってしまいます。

 伊都国までの旅程の原史料を書いた人は立ち寄った国々(対海国、一大国、末盧国)の実見と考えてよい観察記事を残しています。もし、背振山脈を巻いて奴国を通ったのならば、奴国の観察記事も書いているでしょうし、なにより、奴国から東北百里で伊都国に至るという記事になるでしょう。
 奴国、不弥国の記事は起点が伊都国です。
 ですから、伊都国までの行程記事と、奴国・不弥国の記事の原史料は別人によるものだと思います。やはり里感覚も違う。

>「聴き取り」であれば、日数は所用日数の筈なのではないでしょうか?

 はい。所用日数だと思います。

> 陸行に移るまでは長く水行を続けているわけですから、上陸地点は邪馬臺國の主邑への入口というべき港のはずです。従って、実際に一ヶ月歩く必要があるとは考えられないのではないでしょうか。

 いや必ずしもそうとは言えないと思いますよ。邪馬台国が海浜であったか内陸にあったか、あるいは伊都国から陸行できたか、不明ですから。
 
 僕は、投馬国・邪馬台国への日数表記については、koujiさんもご存知のように、かつてはOrOr説者でした。でも、AndAnd説とは水掛け論になりそうですし、無理にこだわっても仕方がありませんので避けてきましたが、この日数表記が梯儁や張政が実際に通った行程ではなく、倭人からの聞き取りという観点に立てば、陳寿がAndAndで順進的に理解していたとしても、実際はどうかわからないのが本当のところではないだろうか、と思います。
1.投馬国へ水行二十日、And、邪馬台国へは水行十日、And、陸行一月
2.投馬国へ水行二十日、And邪馬台国へは水行十日、Or、陸行一月
3.投馬国へ水行二十日、Or、邪馬台国へは水行十日、And、陸行一月
4.投馬国へ水行二十日、Or、邪馬台国へは水行十日、Or、陸行一月
聴取を受けた倭人自身がどの意味で言ったのかは不明としか言いようがない。そんな気がしています。


40

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月7日(木)23時18分37秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月7日(木)20時46分04秒 ]

こんばんは。
>> それより松浦国、伊都国、奴国と北部九州沿岸の国々を挙げていてなぜ投馬、邪馬台国へといきなり飛んでしまうのかが疑問です。

梯儁や張政が邪馬台国へ行った行程記事ではなく、伊都国で倭人に聞いた情報だからだと思います。

>> ぼくとしては、「東にまた国あり海をわたること千余里」
>> 、「倭国の周5千余里」、伊都の国にあった一大率を「諸国おおいに恐れる」、南の狗奴国の攻撃により魏に緊急に使いをだした、などのことが邪馬台国の位置を決めるものだと思ってます。


東に海を渡ること千余里、この海は響灘か周防灘でしょう。
南の狗奴国は菊池川以南の熊本平野でしょう。

さて、邪馬台国ではなく女王国だと思いますが、その女王国はずばりどのあたりだと思いますか?


41

Re: 小林惠子説

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月7日(木)23時20分34秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月7日(木)05時47分55秒 ]

 くみさん、こんばんは。

>> 聖徳太子が天皇にならなかった理由を上手く説明するには「聖徳太子」は作られた、とするしかないのでしょうか。
>> 今回、小林恵子さんを検索して、小林さんが「聖徳太子は東突厥国の皇子か将軍」であると言っていることを知ってショックを受けています。小林さんはファンもたくさんいるようで、でもなんだかよくわかりません。
>> しかし、当時の列島が日本史で習ったよりはるかに開けた国で、韓国や中国はもとよりインドや中東とも交流があったことは大切な事実だと思います。

 小林説では、聖徳太子は突厥出身、天武は高句麗出身、天智は百済出身、逆に
継体は新羅に行って智証王になった、となりますが、あまりにもダイナミックに
過ぎますね。小林氏はロマンチストなのでしょう。
 個々の説には異論があるのですが、歴史の捉え方としては大いに学ぶべき点が
あると思っています。その意味で私も小林ファンの一人です。
 私は特に飛鳥時代に関心を持っているのですが、小林説のおかげで飛鳥を、大
陸に向かって開かれた、多彩で、活気のある世界としてイメージできるようにな
りました。というより大和を中心にして歴史を考えることがなくなりました。

 くみさんは聖徳太子ファンのようですね。
 『聖徳太子の誕生』以来、賛否両論が『東アジアの古代文化』誌上に掲載され
続けています。これまでの掲載論文をまとめて『聖徳太子の実像と幻像』が出版
されました。
 古代史学最大の論争が進行中です。これからの展開が楽しみですね。


42

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月7日(木)23時28分04秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月6日(水)21時29分18秒 ]

 くみさん、こんばんは。梶山さん、横レス失礼します。

>> たぶん、百済、高句麗から倭国に亡命した人は多いのでしょうね。
>> だけど、亡命した人より勝者である新羅の影響が一番強かったと考える方が自然でしょうか。
>> そう考えると、新羅に善徳女王(632-47)、真徳女王(647-54)がたち、倭に推古天皇(592-628)、皇極・斉明天皇(642-45・655-61)がいたことも、なにか関係があるような気がしてなりません。
>> なんか、とてももやもやした気分です。

 なんか、途方もない話題を提供されますね。

 皇極の時代、新羅には善徳女王がおり、金春秋という王子と金ユシンという貴族
がいた。二人とも蹴鞠が好きだった。
 毘曇という大臣が謀反を起こしたが、金春秋らが討伐した。(毘は異体字です)
 しかし、金春秋は即位せず、真徳女王を擁立した。
 しかし、真徳女王の死後、金春秋が即位し、武烈王になった。

 中大兄と鎌足、皇極と斉明の話に似ていますね。
(大化三年に金春秋の来倭記事があります。高向黒麻呂と中臣連押熊と一緒に来て
います。「春秋美姿顔善談笑」と描写されています。反新羅の日本書紀にしては大
層好意的な記述ですね)

 斉明天皇は不思議な天皇ですね。
 書紀に書かれた事績が異常です。(狂心の渠等がそうですね)
 松本清張氏は斉明をゾロアスター教徒かとされていました。
 その死に方も異常です。その葬儀を鬼が笠を被って見ていたというのも奇怪です。
 妖帝的なイメージを負わされていますね。
 
 最近では斉明は飛鳥京を造った女帝だとされているようです。おかしいですね。
 皇極の時代は実権は蘇我氏にあったはずです。名目的な天皇に近いですね。
 斉明の時代も実権は中大兄らの改新グループにあったはずです。(一応は書紀の
記述を尊重して・・)
 それぞれの斉明のイメージがかけ離れ過ぎていますね。

 斉明に権力があったのかどうか? そもそも乙巳の変の真相は?

 「大化改新虚構論争」がありますね。
「「大化改新」をかかる画期として肯定する立場と、全体として史実性を否定する
立場とが、互いに相手を説得し得ないまま自説を固持している」
  (大山誠一「大化改新像の再構築」『日本史論叢』上巻)
 大山氏は大化改新肯定論の立場です。

「現在、学会はこの問題をどう考えるかという旗色を明確にしてからでないと論じ
れないという現実を迎え、混乱のまっただ中にいます。」
  (湊 敏郎  神戸女学院大学 総合文化学科のページより)
 湊氏は大化改新否定論の立場です。

 乙巳の変は大化改新の一幕ですね。乙巳の変のことを大化改新と理解している人
も少なくありません。
 大化改新が虚構とすると、乙巳の変の史実性も疑わしくなります。
 登場人物の蘇我氏や中大兄、皇極・斉明即位の史実性も疑わしくなってきます。
 尤も、万葉集がありますから、突き合わせますと人物そのものの史実性の判断の
基準にはなるでしょうが・・。

 私も、もやもやした気分です。(実は、古代史ファンとしてはわくわくする気分
です。) しかし、あまりにも問題が大き過ぎますね。
 皇極・斉明は即位していなかったのではないか、という疑問を感じるだけで、そ
れでは? となりますと、解らないと応えるしかありません。
 性急にあれこれ想像しますと虚構の世界に踏み込むことになります。
 書紀の編纂過程、創作過程を分析すること、その結果、残った史実の部分にのみ
立脚して歴史を考えることが必要でしょうね。
 しかし、遠い先の話ですね。



43

Re: Title真珠

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [3月7日(木)23時29分04秒]

元の発言 [ Re: Title真珠 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月7日(木)19時02分17秒 ]

すでに御覧になったかとは思いますが、
http://www.pearl.ne.jp/wagu/nihonsyoki.htm

古事記以降ですが参考になるかも。



44

Re: 告示::決定事項について

投稿者[ 斧折三 ] 発言日時 [3月7日(木)23時34分46秒]

元の発言 [ 告示::決定事項について ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 3月7日(木)19時01分10秒 ]

私は新参者ですが、今回の措置は少し残念に思っています。実際、第三者が見ても不愉快な発言がありました。当事者にとってはなおさらでしょう。それは大方の人も感じるところです。

私など年齢のせいか、「おにりんさんはそういう人柄なんだ。世間を狭めて、気の毒だな」と同情しています。そう思えば、あまり腹も立たないのではないでしょうか? 見る人は見ていますよ。今回は執行猶予とか、一ヶ月間の限定的措置くらいで、御容赦頂けないでしょうか? 

私は2月号の末尾でおにりんさんの中国語音韻学の誤りについて厳しい批判をしました。それに対する回答も聞きたいと思っています。

「大論争」のますますの発展のためにも、再考をお願いする次第です。


48

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月8日(金)00時25分59秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月6日(水)18時01分20秒 ]

koujiさん、こんばんは。

> 朝鮮通信使も十月に肥前名護屋を出発しておりますし、そもそも難升米たちが朝鮮半島の沿岸航路をとったとは限りませんが。

 朝鮮通信使の日誌『日本往還日記』をあるサイトで読んでいました。
http://www.mirai.ne.jp/~kat/gisi/index.html
ここからの引用です。
> (十月)初九日、この日陰り晩雨ふる。午に浪古耶〔佐賀県鎮西町名護屋〕に到泊
> 十三日、この日晴。朝、浪古耶を発す。午、一岐島の綿羅〔郷ノ浦町渡良〕、倭に言ふ臥多羅に到泊す。
> 二五日、この日晴暁に船を発す。午、対馬島に到る。

 以下は雨や風待ちで長逗留したあと11月22日の日記です。
>二二日、この日晴。大浦に留り風を待つ。
>○対馬に回りてより後、風に阻まれ留ること二十六日。
>『一行皆帰を思い、悶欝として日を度(は)かる。盖(けだ・蓋?)し渡海には須(すべか)らく東南風を得べくも、冬月はこの風を得難し。故に留滞してここに至る。嘆ずべし。』(『』は郭公)

 朝鮮通信使たちは早く帰りたかったのでしょう。やっと晴れたので船を出したものと思います。ちょっとうるうるしますね。
 難升米たちが、このような天候の条件下で同じ十月に郡に向かって船を出したとは思えないです。
 朝鮮通信使は陸路で釜山まで来たようですね。難升米たちも陸路を辿ったのでしょうか。
 
 他にもレスポンスしないといけませんが、それはまた次の機会にします。


49

Re: 告示::決定事項について

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月8日(金)00時31分33秒]

元の発言 [ Re: 告示::決定事項について ] お名前 [ 斧折三 ] 日付 [ 3月7日(木)23時34分46秒 ]

申し訳ありませんが決定済みです。


5

伊勢神宮について

投稿者[ nonono ] 発言日時 [3月6日(水)05時26分24秒]

伊勢神宮について、少し話が違うかもしれませんが。
伊勢神宮の神殿を20年に一度建て替える行事がありますが、
どうして20年に一度なのでしょうか?
10年に一度や、30年でもいいはずなのですが、どうしてなのかわかりません。
700年ごろから、20年に一度ということらしいのですが、
詳しいことは載っていませんでした。
ご存知の方、教えてください。


51

Re: Title真珠

投稿者[ ] 発言日時 [3月8日(金)00時50分08秒]

元の発言 [ Re: Title真珠 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月7日(木)19時02分17秒 ]

>> 真珠については倭国内で豊富に取れた筈なのに明帝からの贈り物のリストに入っていますね。何故でしょう?

(明帝ではなく少帝斉王芳かも知れませんが)
倭人伝でいう真珠は水銀朱の事であろう、
という説もあります。


52

日本書紀と古事記

投稿者[ ] 発言日時 [3月8日(金)02時01分31秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 小鳥遊 ] 日付 [ 3月7日(木)18時14分19秒 ]

>> 古事記って、完成目前の日本書紀の要約版ということなのでしょうか。
全く違うと思います。

・記述対象としての天皇が違います。
 紀 神武〜持統
 記 神武〜推古
・章立てが違います。
 紀 神功皇后について神功紀として章を立てています。
 記 神功皇后の事蹟は仲哀天皇の章に納められています。
・編集方針が違います。
 紀 一書を多数併記したり、異説については後人の勘校に
   待つ事を明記したりと、史料重視の編集方針が窺えます。
 記 序文に「於是天皇詔之〜略〜故惟撰録帝紀討覈舊辭削僞
   定實〜」とあるとおり、一書や異説の併記はありません。
・書かれている内容が違います。
 一般には、古事記の方が日本書紀よりも古い伝承だとされて
 いますが、日本書紀の一書には古事記よりも古いように思わ
 れる記述もあるようです。内容の違いを数例挙げておきます。
*スサノオに殺された巫女
紀 本文では天照大神が梭で傷ついた。
  一書では稚日女尊が梭で傷つき死んだ。
  第二の一書では誰も傷ついても死んでもいない。
記 天の服織女が梭で陰上を衝き死んだ。
*崇神紀の神婚譚
紀 倭迹迹日百襲姫命が大物主と結婚する。
記 活玉依毘賣が美和山の神の子と結婚する。
*崇神紀の派兵
紀 大彦命を北陸へ、武淳川別を東海へ、
  吉備津彦を西道へ、丹波道主命を丹波へ
記 大毘古命を高志道へ、建沼河別命を東方十二道へ
  日子坐王を丹波へ、記では吉備へは派兵していない。

かように異なるものですので、要約とは言えないと思います。


>> 二つも国史を編纂した意図は何なのでしょう。
諸説あるようですが、不勉強にしてわかりません。


54

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月8日(金)04時26分47秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月7日(木)23時28分04秒 ]

たかとりさん、こんばんは。

韓国史の重要性を感じています。

>> 大化三年に金春秋の来倭記事があります。高向黒麻呂と中臣連押熊と一緒に来ています。

「斉明」小石房子著(作品社)では皇極天皇は百済の武王と吉備姫女王の子で、皇極女王は舒明天皇と結婚する前、高向黒麻呂と結婚していて、その子どもが天武であるとします。天智は天武より4年後に舒明との間に産まれたのだそうです。
もうほんとに、小林恵子さんといい、小石房子さんといい、困ってしまいます。

小石房子さんの小説で気に入らなかったのは蘇我氏を小さく扱っていたことです。私はなぜか蘇我氏が好きで、当時、一番インターナショナルな考えをもっていたのが蘇我氏だったのではないかと思っています。物部氏と同列に考えて欲しくない、ぐらいの勢いです。物部氏の方が大物だという人もいますので、ぜんぜん自信はないのですが。

>> 斉明天皇は不思議な天皇ですね。

はい、ほんとうに。酒船石や亀石、猿石、噴水。でもそれらは斉明天皇ではなく、蘇我氏がパトロンだったのかもしれない。

>> 皇極の時代は実権は蘇我氏にあったはずです。名目的な天皇に近いですね。
>> 斉明の時代も実権は中大兄らの改新グループにあったはずです。(一応は書紀の記述を尊重して・・)

当時、天皇という万世一系をうたう「言葉」はなかったのだから、蘇我氏が畿内倭国の王だったかもしれない。
そう考えると、大化改新の前後、皇極・斉明天皇自身に権力はなかったのですね。

>> 「大化改新虚構論争」がありますね。

知りませんでした。早速ネット検索すると、
『大阪市中央区大手前の前期難波宮跡(7世紀)から、「戊申年(ぼしんねん)」と記した木簡、「評(こおり)」と記した木簡 と絵馬が出土』
『戊申年は648年(大化4年)に該当し、・・・造営時期を巡って議論があった前期難波宮が、大化改新(645年)直後の難波長柄豊碕宮(652年完成)であることがほぼ確定か? 難波宮論争が再燃しそうだ。』

だそうですが、論争があったことも知らなかったのに言わせてもらうと、大化改新があったことは確定ですよね?
何で再燃するのでしょう?

>> 大化改新が虚構とすると、乙巳の変の史実性も疑わしくなります。
>> 登場人物の蘇我氏や中大兄、皇極・斉明即位の史実性も疑わしくなってきます。

日本書紀編纂に近い歴史です。2〜3世代ぐらい前でしょうか。
大化改新の真相は粉飾したとしても、大化改新を虚構というなら、日本書紀の全てが信じられなくなります。

>> 皇極・斉明は即位していなかったのではないか、という疑問を感じるだけで、それでは? となりますと、解らないと応えるしかありません。

ため息が出ます。しかし母系氏族の風が残っていたと考えれば、即位もあったのではないかと思っています。ちょっと飛びますが、継体王朝も母系氏族を軸に考えれば畿内豪族の許容範囲にあったかもしれないです。すいません。わかりません。

>> しかし、遠い先の話ですね。

よかった! 根気がないので、ほっとします。

ここのレスではないですが、

>> くみさんは聖徳太子ファンのようですね。

とんでもないです。聖徳太子にはものすごく胡散臭さを感じています。(きっぱり!)


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Re: 日本書紀と古事記

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月8日(金)04時35分37秒]

元の発言 [ 日本書紀と古事記 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 3月8日(金)02時01分31秒 ]

小鳥遊さん、にゃあさん、由さん、こんにちは。

小鳥遊さん>> 古事記って、完成目前の日本書紀の要約版ということなのでしょうか。
小鳥遊さん>> 二つも国史を編纂した意図は何なのでしょう。

発注者が違うということは考えれないでしょうか? 例えば日本書紀は天武天皇が、古事記は天智の娘の元明天皇が発注したとか。わからないのですが。
低レベルなことでは負けませんので、よろしくお願いします。

由さん、ありがとうございます。私も広辞苑から抜き出してみました。

日本書紀は681年(天武9年)に編纂が始まって720年完成。漢文で30巻。40年かかっています。
古事記は711年(元明4年)に始めて翌712年完成。3巻。
ちなみに風土記は713年に編集が始まっているようです。


57

Re: Title 24国配置問題と採点基準

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [3月8日(金)09時19分48秒]

元の発言 [ Re: Title 24国配置問題と採点基準(四国東部説) ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 3月6日(水)06時46分50秒 ]

むむ、削除されてました。

う〜ん、察するに「その減点は認められない!」
ということだったかも。
でも、こういう変化は相当数あるんだけどなあ。

いずれにしても、おにりんさんにお願いするのは、
「こんなこじつけはどこでも出来る」
という主張を実証してほしいことです。
「どこでも」といったわけですから、
「中国地方で」とか決めてもいいですけど、
まあ日本のどこでもOKとします。

おにりんさんのHPで、そのこじつけ比定案を
地図と表でぜひ示してもらいたいと思います。
そうすれば、こういう方法は無駄であることを
本当に実証できますので。

ちなみに、私の「こじつけ案」は実質1ケ月程度
の調査によるものです。
1年後くらいには、ぜひお願いします。
まあ、気長に待ってます。


58

Re: 管理人の決定に従うべき

投稿者[ かまくら龍 ] 発言日時 [3月8日(金)09時37分53秒]

元の発言 [ 決定事項について ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 3月6日(水)06時46分42秒 ]

 いろいろな意見もあるかもしれないが、ここは管理人の
決定に従ったほうがよいのでは?
 だって、このサイトを閉鎖する権限は、管理人さんにあるのでは?
 閉鎖されてはこまるのは、全員の問題でしょう。


59

Re: 日本書紀と古事記

投稿者[ たかなし ] 発言日時 [3月8日(金)12時16分01秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀と古事記 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月8日(金)04時35分37秒 ]

皆さん、レスありがとうございます。

なみさん>> 発注者が違うということは考えれないでしょうか? 例えば日本書紀は天武天皇が、古事記は天智の娘の元明天皇が発注したとか。わからないのですが。

由さん>>  記 序文に「於是天皇詔之〜略〜故惟撰録帝紀討覈舊辭削僞
由さん>>    定實〜」とあるとおり、一書や異説の併記はありません。

発注者はそれぞれこの天皇で納得です。
私のモヤモヤは、天武天皇以来天皇家として日本書紀の編纂中に、元明天皇が「別に」古事記を発注しなければならないのだろうということです。
???編纂中の日本書紀にある種の不満を感じた元明天皇による、古事記は日本書紀の「削僞定實」とか???

にゃあさん>> 日本書紀のほうが新しいとは聞きましたが。

でも、日本書紀の発注の方が早いのですよね。
私にはわからないことだらけです。皆さん、これからもよろしくお願いします。


6

承前 21か国だいたい比定!

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月6日(水)05時31分33秒]

承前 21か国だいたい比定!

 先月号の末に投稿したものが読めなくなっているようですので、一部修正して再投稿いたします。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
おにりんさんへ

>>城の字は、き(乙)なんですよね。で、支は、どうみても、
>>き(甲)ここが問題。

#どうも失礼しました。確かにそのとおりですね。そうすると、「已百支」は「岩垣(いぱかき)」や「岩洞(いぱくき)」とかに考えたほうがいいかも知れません(これらのきは甲です)。ちょっといい場所が思いつきませんが。「波久岐」国造の國(所在不明)なら周防の近所にあるんですけど。
 それと、讃岐の「さぬ城」説も自動的にボツですね。

>>とすると、「不弥」も、連動して、「うみ」になって、
>>めでたし、ってところなんですけど。

#「不彌」のほうは、そのままで考えても、「穂波」に近いのでいいかなと思ってるんですが。穂波郡には「伏見駅」もあったので、「putsumi」くらいの発音を写したものとか。「不彌国」については、遠賀川流域全体(遠賀郡〜穂波郡)を想定してます。


>>ワナサ関連は、丹後に多いということで、丹後関係ではない
>>かというのですが。例の、海部氏系図関連で、ワナサの名前
>>がたくさん出てくるようです。

#たねを明かすと、マルセの21か国は、山陽道・南海道・畿内方面が範囲と決めておいて、そうなるよう無理やり当てはめたものです。だから丹後方面とかの日本海側は入れてないのです。本当のところ、おにりんさんの仰るとおり、丹後の可能性もあるとは思います。

>>やっぱり、これが非常に厳しいのですが。なんとか、フルトリ
>>のついた漢字の「間違い」というわけにはいかないか、と
>>おもったりもしたんです。でも、それでもなかなかうまく
>>いきません。

#そうでしょ。こういった場合のマルセの漢字探索法を伝授しましょう。って、ほどでもないですが。
「IMEパッドにわざと汚い字で当該字を書いて、出てくる漢字から良さげなものを拾い、逆に今度はその拾った漢字をIMEパッドに書いて当該字が出てきたら、両者は似た漢字であると科学的に断定(ジョーク)。」

>>私も、もうすこし練って考えてみます。

#いろいろ教えてください。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ピクポポデミさんへ


>>ところで躬臣ですが、思いっきり上古音読みで「コ(乙)ギn」「コ(乙)ゲn」のようにも思うのですがいかがですか。
>>「臣」が閉音なのが気に入りませんが、「末」の場合同様中国人の苦労していたと思われるウ段を意味しているなら、
>>「コ(乙)ギヌ」「コ(乙)ゲヌ」かもしれません。

#日本語の地名ってかなにすると3字か4字が多いのに、倭人伝の国名は、中国の地名と同じで漢字2字が多い、これってどう考えても、圧縮がかかってますよね。漢字1字がかな2字であってもいっこうに差し支えないと思います。というか、なるべく、そうとれるところはそうすべきとも思えます。

>>「躬」がng終わりなので、どうも「臣」は「ゼ」ではないような気がするのですが。
>>私は音訳時代を後漢代に当てているので、結構古い音かも知れないと思っているのです。
>>「躬」も上古音バリバリなら、「ク」より「コ(乙)」がふさわしそうですし。

#「こ(乙)」ですね。間違えました。それと、魏晋朝は上古音でいいんじゃないんでしょうか。
この後に、北方系の人たちが来て、大きく発音が変わったんじゃないんですか?詳しく知りませんけれど。


>>上の意見に反しますが、私の現在の比定は「巨勢(コゼ)」です。
>>北の方には「御所(ゴセ)」もありますし、巨勢氏の勢力は6世紀以降としても、
>>ほんとは葛城氏がのしてくる前からの地名と思うのですが。
>>巨勢氏は単に古い地名の地域を本拠地にしていただけで・・・
>>寺澤氏の王権誕生によると奈良盆地南西には、もう一つ国があってもよさそうです。

#葛城に一つ國があってもいいかなと思い、「鬼奴」が「葛城」と読めないかとか、いろいろ考えたのですが、結局わかりませんでした。


>>都がトになるマジックは、伊都の都と同じで、日本語の音韻変化に求めます。
>>それもまた傍証を集めているところですが。

#あんまり耳の良い通訳じゃなかったとか(茶々です)。まあ、でも、母音のずれは誤差の内の思うんですけれど。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
管理人様へ

おにりんさんへの処分に対する再考のお願い<減刑嘆願>

管理人様 いつもお世話になっております。

 いくら何でも、出入り禁止はかわいそすぎると思います。
 おにりんさんは、この掲示板で最も精力的に書き込みを行っている方ですし。



60

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ kouji ] 発言日時 [3月8日(金)12時36分56秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月8日(金)00時25分59秒 ]

 郭公さん、こんにちは!だいぶ頭もすっきりしてきました。

>> > 朝鮮通信使も十月に肥前名護屋を出発しておりますし、そもそも難升米たちが朝鮮半島の沿岸航路をとったとは限りませんが。
>>  朝鮮通信使たちは早く帰りたかったのでしょう。やっと晴れたので船を出したものと思います。ちょっとうるうるしますね。
>>  難升米たちが、このような天候の条件下で同じ十月に郡に向かって船を出したとは思えないです。

景初三年『男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈』
正始四年『生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、[犬付]、短弓矢。』
臺與『男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。』

 景初三年次の朝貢品が以降に比べてかなり貧しいのは、公孫氏滅亡の報に接して急遽派遣したため準備期間がなかったからだとも言われていますよね。難升米たちも早く帶方郡にたどり着きたかったと考える理由は充分あると思います。


>>  朝鮮通信使は陸路で釜山まで来たようですね。難升米たちも陸路を辿ったのでしょうか。

 あるいは半島内での陸路の強行軍を前提に荷物を減らしたのかもしれませんね。生口も特に健脚のもが選ばれたとか。



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Re: 承前 21か国だいたい比定!

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月8日(金)13時18分42秒]

元の発言 [ 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月6日(水)05時31分33秒 ]

>> 承前 21か国だいたい比定!
>> ピクポポデミさんへ

>>
>> >>上の意見に反しますが、私の現在の比定は「巨勢(コゼ)」です。
>> >>北の方には「御所(ゴセ)」もありますし、巨勢氏の勢力は6世紀以降としても、
>> >>ほんとは葛城氏がのしてくる前からの地名と思うのですが。
>> >>巨勢氏は単に古い地名の地域を本拠地にしていただけで・・・
>> >>寺澤氏の王権誕生によると奈良盆地南西には、もう一つ国があってもよさそうです。

>> #葛城に一つ國があってもいいかなと思い、「鬼奴」が「葛城」と読めないかとか、いろいろ考えたのですが、結局わかりませんでした。

なんとか躬臣と葛城のつながりを捜してみましたがむりかなー

躬臣をkioun-dzienのようにとって躬の子音韻尾を後ろの濁音とくっつけてndのような音を表すために用いたと仮定してコ(乙)ヂnの様によみます。
このとき正歯音の常をダ行を表したとします。
最後の閉音のnをコ(乙)と調和するようにノ(乙)ととって

コ(乙)ヂノ(乙)

まあここまでは良いとして(良くないか)この音が男性から女性へ母音交代を起こしたとすると
ひと(一):fitO->ふた(ニ)futaの例にならって全ての母音を一斉に替えます。

i->u
O->a

すると

カヅナ

が出てきてこれに城がくっついて

カヅナキ(乙)

これがなまって

カヅラキ(乙)

無理ですよね。
せっかく考えたんで書いときますが。


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くみさん、お名前間違えてしまいました。

投稿者[ 小鳥遊 ] 発言日時 [3月8日(金)13時42分32秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀と古事記 ] お名前 [ たかなし ] 日付 [ 3月8日(金)12時16分01秒 ]

大変、失礼しました。


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Re: 伊勢神宮について

投稿者[ 斯波叡 ] 発言日時 [3月8日(金)17時02分02秒]

元の発言 [ Re: 伊勢神宮について ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月7日(木)18時57分30秒 ]

三河太郎さん今晩は。直接レスははじめましてです

>> 神宮の博物館「徴古館」にて仕入れたことを少し、情報提供と言うことで。
>> 社殿の柱は全長の1/3を地中に埋めて2/3が地上に出ているそうです。で、柱の寿命ですが70年や80年は十分にもつと言っていました。
>> 戦乱によって15世紀半ばから120数年にわたって遷宮が中断された時期がありますが、耐えていたそうです。
そうなんですか。情報有難うございます。
>> 社殿が建立されている場所が、地形も地質も水捌けの良いところなのでしょう。
他の神社の社殿の立て直しの儀式ってあるんでしょう?出雲大社とか。
>> それと、話はそれますが平成の遷宮で総費用は360億円近くかかったそうですよ。



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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月8日(金)21時59分05秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月8日(金)12時36分56秒 ]

koujiさん、こんばんは。
>>  だいぶ頭もすっきりしてきました。

 だったらいいんですけど…。

>>  景初三年次の朝貢品が以降に比べてかなり貧しいのは、公孫氏滅亡の報に接して急遽派遣したため準備期間がなかったからだとも言われていますよね。難升米たちも早く帶方郡にたどり着きたかったと考える理由は充分あると思います。

>>  あるいは半島内での陸路の強行軍を前提に荷物を減らしたのかもしれませんね。生口も特に健脚のもが選ばれたとか。

 現行の版本の景初二年は、景初三年の誤りと言うことですね。僕もそうだと思います。
 で、景初二年六月に公孫氏が滅びます。
 郡から女王国まで万二千余里。情報が女王の元へ到達するのに要した時間はどのくらいでしょうか?
 一日30里だとしますと400日。13ヶ月半になります。景初三年の七月半ばころでしょうか。

 でも、景初三年の六月にもはや、郡に着いております。
 風の噂は人が歩く速さよりうんと速そうですね。

 また、釜山から陸路だとしますと、韓は方四千里ですから、釜山から郡までは鹿路で5000余里になります。
 海路より2000余里短いのですから、koujiさんがお示しいただいた根拠を適用すれば、約二ヶ月早く到着することになります。

 釜山から陸路なら、koujiさんの主張では、十月に伊都国を出たのではなく十二月ということになりませんか?
 北風ぴゅ―ぴゅ―の時に、ごくろうさまです。
 邪馬台国を出たのが景初二年の十月。公孫氏滅ぶの情報は四ヶ月もかからずに邪馬台国まで到達したことになります。

 やっぱり春一番が吹いて、順風で気候も穏やかなとき伊都国を出航して六月には郡まで船で行けると思うんですけどネ。

 これと関連して、じつはもっと反論したいことがあるのですが、すこし時間をください。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月8日(金)22時59分41秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 郭公 ] 日付 [ 3月7日(木)23時18分37秒 ]

>> こんばんは。
ちわっす。

>> 伊都国で倭人に聞いた情報だからだと思います。

やっぱり、そこに落ち着いちゃいますね。


> 東に海を渡ること千余里、この海は響灘か周防灘でしょょう。
最近、関門海峡は近すぎるなあ、と思えてきまして。あんまアテにしないほうがいいかも。

>> 南の狗奴国は菊池川以南の熊本平野でしょう。

同意見です。菊地市近辺の可能性も、考えています。

>> さて、邪馬台国ではなく女王国だと思いますが、その女王国はずばりどのあたりだと思いますか?

いままでは筑後平野北部一帯、津古古墳群あたりかと思っていましたが、考え変えました。
不彌国の近く。不彌国は「千余戸」と記されてある。その程度のクニを記したということは、女王国へ行くのには必ず不彌国を通らなければならなかったのでは、と思います。不彌国は女王国のそば。
魏志倭人伝では沿岸のクニグニを揚げていて、女王国もそうだったのではと思う。
森浩一氏の「潟港論」のように、古墳時代まではクニの拠点は沿岸部がいい。内陸部は不適格。
日本書紀では卑弥呼=神宮皇后としてあるのはごぞんじでしょう。皇后の北部九州沿岸の伝説は卑弥呼の事績だと思ってます。
不彌国のそばで、神宮皇后と関係の深い場所といえば・・・。
もうおわかりでしょう。あそこも「潟」ですし。



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Re: 古事記私撰説

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月8日(金)23時33分18秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 小鳥遊 ] 日付 [ 3月7日(木)18時14分19秒 ]

 みなさん、こんばんは。

 古事記が和銅五年に書かれたとしますと、なぜ同じ時期に国史を二つも書く
んだという疑問が起こりますね。
 書紀は国家の歴史、古事記は天皇家の歴史、書紀は国家用、古事記は宮廷用
とか、古事記は機密文書であるとか、いろんな説があるようです。

 しかし一方で古事記は後世、奈良時代末期か平安時代初期に書かれた私撰の
書であるという説もあります。私はこの方に魅力を感じますね。
 すでに江戸時代に、上田秋成が古事記は後世の作と言っています。
 以来、諸研究があるのですが、大和岩雄氏は『古事記成立考』で、古事記は
平安時代初期に太安万侶の子孫の多人長が書いたものであるとされました。
 説得力のある推論で、人長撰述の可能性は極めて大きいと思えました。
 大和氏の著作は我々アマチュアにも馴染みやすく、ためになります。

 子供の頃から、稗田阿礼が古事記を暗誦し、それを太安万侶が筆記するイメ
ージに馴染んでいたのですが、言われてみればおかしな光景であります。
 国史を書くなら初めから筆録すればいいのではありませんか。文字のない時
代でもありませんでしょう。

 古事記は日本書紀の前に書かれた、という定説を一度は疑ってみるのも古代
史の楽しみ方の一つではないでしょうか。
 教科書通りの古代史では面白味に欠けますね。

 『先代旧事本紀』がありますね。偽書であるというのが古くからの定説です
が、一方で国造本紀など無視できない部分もあります。
 古事記も同様でしょう。たとえ平安初期のものであるにせよ、古い資料であ
ることには間違いがないのですから、注意しながら使うべきだとは思います。

 尤も、私は飛鳥時代前後が関心の対象ですので古事記はほとんど役に立ちま
せん。序文で天武の詔勅を持ち出しながら、斉明・天智・天武等に関して何も
書かない、というのもおかしな話ですね。


69

Re: 日本書紀と古事記

投稿者[ ] 発言日時 [3月9日(土)00時40分40秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀と古事記 ] お名前 [ たかなし ] 日付 [ 3月8日(金)12時16分01秒 ]

>> 発注者はそれぞれこの天皇で納得です。
>> 私のモヤモヤは、天武天皇以来天皇家として日本書紀の編纂中に、元明天皇が「別に」古事記を発注しなければならないのだろうということです。
え〜っと、私の発言が中途半端だったようで、誤解されてしまいました。

古事記も日本書紀も、発注者は天武天皇です。
以下に、ちょっと長くなりますが、古事記の序文から
岩波文庫の読みくだし文を参考に、引用します。

ここに天皇、詔りたまひしく
「朕、聞きたまへらく『緒家のもたる帝紀及び本辭、既に
正實に違ひ、多く虚僞を加ふ。』今の時に當たり〜〜略〜
〜故これ、帝紀を撰録し、舊辭を討覈して、僞りを削り、
實を定めて、のちのよにつたへむと欲す。」〜〜略〜〜
然れども、運移り世異りて、未だ其の事を行ひたまはざりき。
伏して惟ふに、皇帝陛下〜〜略〜〜。ここに、舊辭の誤り
忤へるを惜しみ、先紀の謬錯を正さむとして、和銅四年九月
十八日を以て、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮の誦む所の
勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨
の隨に、子細に採りひろひぬ。

一行目の天皇は天武です。七行目の皇帝陛下が元明です。
天武が発注したけれど、その死の為に中断していた撰録の
再開を元明が命じた、という事です。


7

Re: 伊勢神宮について

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [3月6日(水)05時39分48秒]

元の発言 [ 伊勢神宮について ] お名前 [ nonono ] 日付 [ 3月6日(水)05時26分24秒 ]

 これについても読めなくなってしまいましたので、先月末に行った投稿を再掲いたします。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
こんばんは

>> 伊勢神宮についてお聞きしたいのですが、
>> 神殿を20年に一度建て替える大祭・神宮式年遷宮がありますが、
>> どうしてこれは20年に一度なのでしょうか? 昔から、700年ごろから20年に一度立て替えられているようですが、どうして20年に一度なのかどなたかご存知の方
>> ぜひとも教えてもらいたいのですが、よろしくお願いします。


#以下のようなページがあり、技術の伝承には20年が限界なのであろうといったことが書かれています。
http://www.infocreate.co.jp/hometown/ise/jingu/jgaug.html


70

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ ] 発言日時 [3月9日(土)01時34分10秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 小鳥遊 ] 日付 [ 3月7日(木)18時14分19秒 ]

>> 二つも国史を編纂した意図は何なのでしょう。
二つの国史という認識は、江戸後期の国学者、
本居宣長の研究以降の事のようです。
それまでは、日本書紀のみが国史として扱われ、
古事記は単なる参考書籍としての扱いだったようです。

日本書紀に対しては、その完成の翌年から
宮廷での講義が始まったようです。
720 養老四年 日本書紀成立
721 養老五年 講書(宮廷での講義)
812 弘仁三年 講書
843 承和十年 講書
878 元慶二年 講書
904 延喜四年 講書
936 承平六年 講書
965 康保二年 講書
それぞれの講書において、覚書(日本書紀私記)が作られ、
どう訓み下すかの講義がおこなわれたそうです。

それに対して、古事記についてはこの様な講書が
おこなわれた形跡はなく、712年(和銅五年)から
実に100年も経った、812年(弘仁三年)の
日本書紀私記で参考文献として書かれているのが
文献的には、最初の登場だそうです。

それ以降も、本居宣長の研究までは、日本書紀講読の
副読本という扱いを出なかったそうです。それどころか
賀茂真淵などは古事記偽書説まで提唱しているそうです。

二つの国史という認識は、正しくないように思います。


71

Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月9日(土)05時59分38秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 3月9日(土)01時34分10秒 ]

こんにちは。ここでまとめて失礼します。

由さん>> それまでは、日本書紀のみが国史として扱われ、
由さん>> 古事記は単なる参考書籍としての扱いだったようです。
由さん>>
由さん>> 日本書紀に対しては、その完成の翌年から
由さん>> 宮廷での講義が始まったようです。

大論争は敷居が高くてなかなか投稿できなかったのですが、書き込むと勉強になります。
由さんの話を読んで、司馬遼太郎が「日本書紀は書かれて間もなく、講義を開いて勉強なければ意味が解らなくなった」ふうなことを書いていたのを思い出しました。
それを読んで自分が明治時代の人の手書きの文章が読めないのと一緒だと思いました。ジッと見ていればわかる部分もあるのですが、綺麗にくずしてあったりすると、お手上げです。文字だけでなく文体も難しいです。日本人は今も昔も識字率が高いと聞くのに、不思議です。

由さん>> それ以降も、本居宣長の研究までは、日本書紀講読の
由さん>> 副読本という扱いを出なかったそうです。それどころか
由さん>> 賀茂真淵などは古事記偽書説まで提唱しているそうです。
由さん>>
由さん>> 二つの国史という認識は、正しくないように思います。

はい。そうですね。ありがとうございます。


たかとりさん>> 書紀は国家の歴史、古事記は天皇家の歴史、書紀は国家用、古事記は宮廷用
たかとりさん>> とか、古事記は機密文書であるとか、いろんな説があるようです。
たかとりさん>>
たかとりさん>> しかし一方で古事記は後世、奈良時代末期か平安時代初期に書かれた私撰の
たかとりさん>> 書であるという説もあります。私はこの方に魅力を感じますね。

たかとりさん>> ・・・序文で天武の詔勅を持ち出しながら、斉明・天智・天武等に関して何も
たかとりさん>> 書かない、というのもおかしな話ですね。

本当はどうだったのか。面白いです。
太安万侶も舎人親王も千数百年の後世の子孫をこんなに悩ますつもりはなかったでしょうに。
小林恵子さんについては、反論があるかと思っていたのですがないので、別の本で再チャレンジしたいと思います。
上野の博物館の法隆寺館にある伎楽面をごらんになったでしょうか? 保護のため公開日が限られているのが残念ですが、あの写実的な面を蘇我氏や斉明天皇は見たのでしょうか。飛鳥時代は湿気の少ない、珍しい時代に感じています。

小鳥遊 さん>> くみさん、お名前間違えてしまいました。
# ぜ〜んぜん気にしないでください。これからもよろしくお願いします。

まとめて書くのもヘンだったでしょうか。そんなふうに書いてしまったので、今回はすいません。


72

Re: 承前 21か国だいたい比定!

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月9日(土)06時59分45秒]

元の発言 [ Re: 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月8日(金)13時18分42秒 ]

>> >> #葛城に一つ國があってもいいかなと思い、「鬼奴」が「葛城」
と読めないかとか、いろいろ考えたのですが、結局わかりませんでした。

葛城は、「くずしろ」という読みもあるようですね。
「くず」だったら「躬臣」にかなり近いような気がするんですが・・・。
(ku-O(n) zu-i(n)あたりの音に対応していると考えています。)

ピクポポデミさんも音韻に関して調べておられるようなので質問ですが、
どのように倭人伝の音訳語と上代の音韻を結び付けていますか?
このあたりの話をしっかりやっておかないと、音が合っているとか
合っていないとかという議論ができないので。

#おにりんさんが議論に参加しないと、やはり活気がないですね。


73

Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月9日(土)07時47分27秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月8日(金)22時59分41秒 ]

 はじめまして。
無い知識を絞って論争に参加していきたいと思います。
宜しくお願いします。

>> >> さて、邪馬台国ではなく女王国だと思いますが、その女王国はずばりどのあたりだと思いますか?

>> いままでは筑後平野北部一帯、津古古墳群あたりかと思っていましたが、考え変えました。
>> 不彌国の近く。不彌国は「千余戸」と記されてある。その程度のクニを記したということは、女王国へ行くのには必ず不彌国を通らなければならなかったのでは、と思います。不彌国は女王国のそば。
#僕は九州説です。名前は湖南やけど(^^;)
#倭人の条にある数字については清張さんと同意見。
信憑性の無い数字の羅列であると考えてます。
魏志を編纂した陳寿さんが蜀の出身であることが
私にとっては大きな意味があるのです。

 司馬仲達から因縁浅からぬ蜀出身の人間がですね。
魏の歴史書を担当するわけです。周りの人間の注目度も
上がるのに比例して編者自身の身の危険も上がるわけです。
 例えば、今僕(にゃあさんでもええけど)がアメリカで超有名な歴史家だったとしますわな。それがあるとき
ブッシュさんに呼ばれてやね。
「アメリカの近代史を編纂してくれんかぁ」
なんていわれたら、周りは
「ああ?日本人がアメリカの歴史を書くぅ?なめとんか」
なんて過激なことは思わんでも
「いったいどんな風に書くんやろか?」て思うでしょ?
そういう状態で太平洋戦争についてアメリカに非のあるような書き方をしてみいや。
「なんやあいつ。しょーもないこと書きおってからに。誰か行ってしばいたらんかい。」
「やっぱり、外国人に書かせたらあかんわ。」
てなことになるんや。
ま、一方でこんな価値観が分岐しとる時代やから
「歴史を一方的に見たらあかん。湖南チャンはえらい。かわいい」と誉めてくれる人もおるかも知れんがこういうのは置いといてや。非難されるんは確実なんです。特に今のアメリカの場合はな(にわか右翼であふれかえとるからな。あの国)。
これが今の世の中やからまだこれぐらいですみますわ。
最悪仕事を干されるくらいで僕は日本へ帰ればいい。
博多弁話す漫画家やら深緑色の日章旗つけた車に乗ったおっさんやらが拍手喝采で迎えてくれるかも知れん。
でも陳寿さんには帰るところが無いんです。しかも千八百年近く前の時代でっせ。正論を言ったかて
「じゃかましいわい。おんどりゃあ!」って刃物のど元に突きつければ誰もが黙るような時代でっせ。そういう状態では歴史家の公平な視点で歴史書なんて書けません。つまるところ、都合の悪い話は省き、都合の良い話は可能な限り誇張して残す・・・陳寿さんにとって
「魏志」の編纂は腫れ物に触るような気持ちで作業したんと違うかな。
 話が脱線してしまったけど、僕が倭人の条にある数字を信用できんというのはこういう理由。金印をあげるにふさわしい国としての数字をつくったんやと思っとる。
 清張さんはこれらの数字のほとんどが中国の吉数やと
指摘しとるのは興味深いね。まぁ、このことは本文の中でもほんの1行くらいしか書いてないので、清張さんの思いつきかも知らんけど。

>> 魏志倭人伝では沿岸のクニグニを揚げていて、女王国もそうだったのではと思う。
>> 森浩一氏の「潟港論」のように、古墳時代まではクニの拠点は沿岸部がいい。内陸部は不適格。
>> 日本書紀では卑弥呼=神宮皇后としてあるのはごぞんじでしょう。皇后の北部九州沿岸の伝説は卑弥呼の事績だと思ってます。
>> 不彌国のそばで、神宮皇后と関係の深い場所といえば・・・。
>> もうおわかりでしょう。あそこも「潟」ですし。

#卑弥呼のいたクニは僕は内陸部と考えてます。
「魏志」にある「倭国大乱」とは沿岸部と内陸部の経済の格差からおきた戦争やと考えております。箇条書きにしますと
1.沿岸部の商業国家は貿易で潤っていた。
2.内陸部の国々は農業が主流で沿岸部の国々と交易をしていた。
3.何らかの理由(旱魃、冷害、疫病など)で内陸部の食料の生産が落ち、内陸部は飢えに苦しめられた。
4.内陸部の住人は食料を求めて沿岸部へ流れ始める。
5.内陸部のクニもこれに便乗して沿岸部への侵入をはじめる。
6.この戦いにより両者は著しく衰退。これに代わって
畿内の勢力が伸び始める。
7.危機感をもった沿岸部の国々は内陸部のクニでカリスマ性を持っていた女性を女王として擁立。
8.この女王の擁立を不服として内陸部のクニが分裂。
これが狗那国


74

終わりにしたいと思います

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月9日(土)10時35分29秒]

元の発言 [ Re: 嘘を書かないように。訂正しなさい。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 3月8日(金)13時54分59秒 ]

そろそろこの問題を整理して終わりにしたいと思います。

管理人はおにりんさんの発言に郭公さんの名誉・人格を傷つけるものがあったという判断を示しました。
これは本掲示板の禁止事項のどれに抵触するかと言う判断を示したものです。
不法行為としての名誉毀損の成立について言及したものではありませんので、名誉毀損という不法行為を受けたひとの専権である告発を「無権代行」したことになりません。

郭公さんは“管理人は勝手に私の名誉・人格が傷つけられたことにした”と言って管理人を名誉毀損で告発することができます。そういう事態にならない信頼関係があると管理人は信じております。

おにりんさんが“管理人が郭公さんを名誉毀損した”と告発した場合は「無権代行」で効果がありません。この場合も専権の侵犯ですからおにりんさんは名誉毀損で告発される可能性があります。

おにりんさんが当サイトの違法性なるものを主張する内容が“親告である法的問題について違法性を第三者が主張する”ことであるならば自己矛盾です。

以上、不許諾の意思表示を違法と主張することの問題とあわせて、どちらも不当であると思われます。


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Re: 小林惠子説

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月9日(土)13時00分23秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月7日(木)23時20分34秒 ]

たかとりさん、くみさん、こんにちわ。

僕は、聖徳太子はどうも胡散臭いと思っている一人なんですが。
たしかに例の「日出ずる処の天子、日没する・・・」の
話は、突厥人とかは別として、朝鮮半島などから
日本や中国を見た感覚でしょうね。

それと、聖徳太子は1度に10人の話を聞けた?とか
昔聞いたような記憶があるのですが、そんな言い伝えも
いろんな国の言葉が話せたというふうに解釈すれば、
飛鳥時代が世界と繋がった開放的な文化時代で、その
主役の聖徳太子は、彼がどこの出身とかは別にして
東アジアを代表する日本の政治家であったのでしょう。

諸葛孔明が王にならなかったように、聖徳太子もまた
政治家であった故に天皇にならなかったのではないで
しょうか。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月9日(土)19時16分51秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月6日(水)21時29分18秒 ]

こんにちは。この辺りはくみさんの面目躍如ですね。

>> >> 古代の歴史書作りはそのころ日本だけでなく、高句麗や百済、新羅なんかも一大ブームだったんじゃないでしょうか?

>> えーと、大化改新で蘇我氏が保管していた「天皇記」と「国記」が燃えています。
#不思議なんですが、このような書物(木簡だったでしょうが)が何故、渡来系言われている蘇我氏が所蔵していたのでしょうか。蘇我氏が居を構えていた甘樫の丘の頂からは板蓋宮、飛鳥寺など明日香の里がすぐ眼下に見下ろせます。時の勢力の上下が推し量れるようです。それで、これらの書物に朝廷にとって後世に残しておけないことが書かれていたら・・・。これらは、朝廷の「焚書」ではなかったでしょうか。
「書紀」編纂時にも「焚書」はあったでしょう。
渡来人の痕跡、重要な影響を消し去りたかったのではないか。そんな思いもしています。

それで、渡来人の処遇はどんなものだったでしょうか。
確かに、当時の最高の文化人であって、厚遇されて有力者となった氏族も多いですね。
明日香の南方の檜隈の里には、一時10万人の渡来人が住んでいたと聞いたことがあります。
更に、太安万侶の墓所のある地域は、渡来人の開拓地と言われ、奈良の東方で山々が延々と続く大変辺鄙な地域です。
本当に厚遇されていたのかなあと疑問になる部分があります。

このような話は黒岩重吾先生の世界なのかなあ。


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女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月9日(土)20時12分15秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月9日(土)07時47分27秒 ]

>>  はじめまして。   いえいえ。

>> 無い知識を絞って論争に参加していきたいと思います。

わたしもですよ。考古学関連の本は20冊程度しか読んでません。

>> 宜しくお願いします。   いえいえ。

>> #僕は九州説です。   わたしもです。

>> #倭人の条にある数字については清張さんと同意見。

今度、読んでみよう。

>> 信憑性の無い数字の羅列であると考えてます。

うーんわたしはなんとか合ってるものと思ってますが。

>> 魏志を編纂した陳寿さんが蜀の出身であることが、

それは初めて知りました。では、陳寿さんは公正明大な歴史家だったんだ。また、当時の中国の歴史書の意義もレベルは高いですね。

>> 2.内陸部の国々は農業が主流で沿岸部の国々と交易を
していた。

わたしが最近思ってることは、平野部には巨大な勢力は発生しなかったのではないか、と思うのですよ。平野部にはたいてい巨大な河川があって、それがクニの境となる。戦国時代もそうですが、この時代も群雄割拠ではなかったのかなと思ってます。

>> 5.内陸部のクニもこれに便乗して沿岸部への侵入をは
じめる。
わたしと逆ですね。私は海上から陸へと進撃したと思ってます。神武伝説みたいに。

畿内勢力とありますが、3世紀前半から中期にかけて北部九州には畿内勢力の進出を現すような遺跡・遺物がなく、また畿内勢力自体が無かったのではと思ってます。

わたしは東遷説です。東遷説も二つあって、
1、早期東遷説・倭国大乱時に北部九州勢力が畿内を支配したという考え。卑弥呼は大和に居り、邪馬台国大和説になる。寺沢薫・柳田康雄がこの立場。
2、後期東遷説・卑弥呼の死後の「倭国また乱」のあと東遷。卑弥呼は北部九州にいて、邪馬台国九州説となる。奥野正男などがこの立場。

わたしは1+2の後期東遷説です。東遷は二度あって、暫時的に畿内を手中に収めた、とかんがえてます。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月9日(土)23時25分37秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月8日(金)04時26分47秒 ]

 くみさん、こんばんは。

>> 「斉明」小石房子著(作品社)では皇極天皇は百済の武王と吉備姫女王の子で、皇極女王は舒明天皇と結婚する前、高向黒麻呂と結婚していて、その子どもが天武であるとします。天智は天武より4年後に舒明との間に産まれたのだそうです。
>> もうほんとに、小林恵子さんといい、小石房子さんといい、困ってしまいます。

 日本書紀に、斉明天皇は初め高向王と結婚し、漢皇子を生んだ、と記されて
います。その後、漢皇子は登場しません。

 大和岩雄氏は、漢皇子を大海人皇子つまり天武としておられます。
 天武を天智の異父兄とすることでは共通していますね。
   (大和氏は実証主義的な手堅い研究者です)
 井沢元彦氏も異父兄説です。しかも井沢氏は天武が天智を暗殺したとします。
   (井沢氏は手堅いとは申せません)
 高向王と高向黒麻呂の関係が問題ですね。

 天武が天智の同母弟であるよりは、異父兄である可能性の方が大きいと思え
ますね。あるいは真相は別にあるのかも知れませんが。

 皇極の夫、舒明天皇に関して、書紀は、舒明は百済宮を造り、百済大寺を造
ったと記しています。後、百済宮で亡くなり、当然、殯をしますが、書紀はわ
ざわざ「これを百済大殯という」と記します。奇妙な書きぶりです。他の天皇
の殯とどう違うんでしょう?
 
 千田稔氏が講演で、
「たまたま百済という土地に宮と寺を造っただけ、というのが普通の考えらし
いが、よほど舒明と百済に親密な関係があったのだろう」と話されていました。
 親密な関係と言いますと、縁組みなども想定できるわけで、斉明天皇は百済
王女である、という説もあながち荒唐無稽とは言えないようです。

 ますます困ってしまいます?


>> 小石房子さんの小説で気に入らなかったのは蘇我氏を小さく扱っていたことです。私はなぜか蘇我氏が好きで、当時、一番インターナショナルな考えをもっていたのが蘇我氏だったのではないかと思っています。物部氏と同列に考えて欲しくない、ぐらいの勢いです。物部氏の方が大物だという人もいますので、ぜんぜん自信はないのですが。

 蘇我氏がお好きとは珍しいですね。私は飛鳥ファンですので、蘇我氏には大
いに関心があります。しかしここでは話題が多岐にわたってしまいますね。
 いずれ、くみさんの蘇我氏論をご披露ください。

 小石氏のは小説でしたか。私は古代を舞台にした小説は読みませんが、小説
家は案外、真相を見ているのかも知れませんね。
 松本清張氏や黒岩重吾氏がいい例ですね。歴史家は論文に小説家の論を引用
しませんが、もしかするとアイデアは拝借しているかも知れませんよ。

>> だそうですが、論争があったことも知らなかったのに言わせてもらうと、大化改新があったことは確定ですよね?

 確定とは申せないようですよ。
 先だってご紹介した森博達『日本書紀の謎を解く』には、
「大化の詔勅は中国人によるα群の基本的な述作が修了してから、後人によっ
て加筆された。そのとき漢籍による潤色も施された」
「大化の詔勅については、ほかにもさまざまな倭習や筆癖がある。大化改新の
虚実とも関わり、興味は尽きない」とあります。

 十七条憲法もそうなのですが、大化詔勅は書紀編纂の最終段階に加筆された、
という事実そのものは動かないでしょう。
 次の問題は、元になる史的事実があり、それを後に潤色しただけなのか、
それとも、まるっきりの加筆、つまり捏造なのか、になりますが、まだ確定は
できないようです。

>> 大化改新の真相は粉飾したとしても、大化改新を虚構というなら、日本書紀の全てが信じられなくなります。

 私は基本的に日本書紀を信用しません。大嘘をついていると思います。
 しかし嘘を信じ込ませるためには、本当のことも言わなければなりませんね。
 日本書紀の半分以上は、史実か、あるいは史実に根を持つ記事だと思います。
 その「ウソとマコト」の腑分けが難問ですね。
 また、新しい時代の記事だから信用できるとは限らないようですよ。
 日本書紀は最後の一行に至るまで疑わしいと思います。


79

Re: Title真珠

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [3月9日(土)23時54分19秒]

元の発言 [ Re: Title真珠 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 3月8日(金)00時50分08秒 ]

>> >> 真珠については倭国内で豊富に取れた筈なのに明帝からの贈り物のリストに入っていますね。何故でしょう?

>> (明帝ではなく少帝斉王芳かも知れませんが)

魏志に忠実に従えば明帝ですよね。
公孫氏滅亡の報を受けて景初3年の遣使は畿内ではほとんど遣使不可能ですから、景初2年、卑弥呼は公孫氏に遣使しようとしたが
6月に帯方郡に到着した時、郡は魏の劉夏に占領されていたと言うストーリーを真面目に考えているんです。

>> 倭人伝でいう真珠は水銀朱の事であろう、
>> という説もあります。

なるほど。
しかし、倭国の産品にも「出真珠」と記載されていますが、これも水銀朱なんですか?

真珠、青玉と続けば両方とも装飾品のような感じですが。


8

Title 24国配置問題と採点基準

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [3月6日(水)06時42分44秒]

24国配置問題の採点方法を提案します。
飽きられつつあるかもしれませんが、
比定にとって重要なことだと思います。

まず比定地に関しては、次の2点を満たすことが条件です。
(1)21国は順番にあり、国名が主要地名にある程度対応する。
(2)狗奴国は第二奴国または邪馬台国の南である。

以上の条件に適合する比定案に対する単純な採点基準を提案します。
なお、音韻の変化は地域差もあるでしょうから、
自説に有利なように自然な形で減点方法を決めてもよいでしょう。

[持点]
4文字国名 8点
3文字国名 6点
2文字国名 4点
1文字国名 2点
類似地名は、比定範囲内から10個程度まで主要地名の中から選ぶ。。
郡名、主要河川名、主要神社名、主要遺跡地域の郷名、大字などがある。
類似地名は、基本的に[減点]で表われる差異で地名が一致するもの。
ただし、-t,-d,-p,-nなどは、その対応子音がなくても類似地名とする。 
なお、音節をはさみ込むのは禁止であり、推定音の範囲内で
最も近いものを選んでよい。
[減点](自説の場合)
a<->O −0.2点
i<->u −0.2点
a<->o −0.4点(平安以降)
wo<->u −0.4点
h->w −0.2点(語中、平安以降)
清濁 −0.2点
母音不一致 −1.0点
不明母音 −0.8点
地名の前後への音節の追加
[1文字地名の場合]
1音の追加 −0.4点
2音の追加 −0.8点
3音の追加 −1.2点
[2文字地名の場合]
1音の追加 −0.3点
2音の追加 −0.45点
3音の追加 −0.6点
[3文字地名の場合]
1音の追加 −0.2点
2音の追加 −0.3点
3音の追加 −0.4点
[4文字地名の場合]
1音の追加 −0.1点
2音の追加 −0.15点
3音の追加 −0.2点

音訳に関する参考
邪馬台国時代の漢字音の推定(長田「邪馬台国の言語」)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/image/onin.gif
日本書紀(α群)の音訳母音(森博達「古代の音韻と日本書紀の成立」)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/8boin.html
上古音−中古音の変遷(藤堂「漢和大字典」)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/chuko.html


80

Re: 小林惠子説

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月10日(日)01時25分34秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月9日(土)13時00分23秒 ]

yaohideさん、こんにちは。

>> 話は、突厥人とかは別として、朝鮮半島などから
>> 日本や中国を見た感覚でしょうね。

そうですよね。しかも翌608年、裴世清とともに帰国した小野妹子は煬帝からの国書を百済で奪われ、お咎めもなかった。だけでなく、帰国してすぐまた隋に出かけている。
ネット検索すると、いろんな情報がボロボロでてきて収拾がつきません。

推古15(607年)7月30日 小野妹子、仏教および儒教の摂取のため隋に出発 
推古16(608年)      小野妹子、裴世清とともに帰国。途中、百済で国書を失う
推古16(608年)9月    小野妹子、帰国する裴世清と共に再び隋へ。僧旻、高向玄理らも同行
推古17(609年)      小野妹子、帰国
http://www.zdnet.co.jp/internet/links/07/03.html

国書を百済で奪われた、などと書かなければいいのに、なぜ書いてあるのでしょう。

>> 僕は、聖徳太子はどうも胡散臭いと思っている一人なんですが。

わたしもです。「聖徳太子 キリスト教」でGoogle検索すると2440件もヒットするし。頭を抱えてしまいます。
キリスト教の一派、景教は唐代、中国に伝わり隆盛したというから、聖徳太子の説話になにか影響を与えていても不思議はないですが。

>> 諸葛孔明が王にならなかったように、聖徳太子もまた
>> 政治家であった故に天皇にならなかったのではないで
>> しょうか。

諸葛孔明と聖徳太子の違いは、孔明が三顧の礼で劉備に仕えた人であり、聖徳太子は用明天皇の皇子です。
諸葛孔明が王になれば乗っ取りですが、太子は王位に一番近い人だったはずです。ほんとにわかりません。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月10日(日)01時27分27秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月9日(土)19時16分51秒 ]

三河さん、こんにちは。

>> こんにちは。この辺りはくみさんの面目躍如ですね。

冗談にもなりません。(;_;)。

>> ・・・蘇我氏が居を構えていた甘樫の丘の頂からは板蓋宮、飛鳥寺など明日香の里がすぐ眼下に見下ろせます。時の勢力の上下が推し量れるようです。

行かないといけないですね。現場に立ってみないと、ダメですね。ありがとうございます。

>> 渡来人の痕跡、重要な影響を消し去りたかったのではないか。そんな思いもしています。

ここなんです。これが最初の疑問でした。なぜ「自分は彼の地から来て、ここで王となった。」と言ってはいけないのだろうかと。
そして、たかとりさんから、教えていただきました。それが畿内王族あるいは豪族のバランス感覚なのか、まだもやもやしているのですが、それまであった「天皇記」と「国記」を燃やして「日本書紀」を40年もかけて編纂したという。燃やした人と編纂した人が同じ系列だったかどうかもわかりませんが。

>> 渡来人の痕跡、重要な影響を消し去りたかったのではないか。そんな思いもしています。

本当に、何でそんな必要があるのでしょうか。豪族はあの人もこの人も渡来系だというのに。
しつこいですが、どうにも不思議です。

>> 明日香の南方の檜隈の里には、一時10万人の渡来人が住んでいたと聞いたことがあります。

年表を見たら、5世紀後半に「諸豪族による渡来移民の争奪」などという記載もありました。
なんだかすごいですね。

>> このような話は黒岩重吾先生の世界なのかなあ。

何冊か読みました。また読みます。


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Re: 日本書紀と古事記

投稿者[ ] 発言日時 [3月10日(日)01時49分38秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀と古事記 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 3月9日(土)00時40分40秒 ]

>> 古事記も日本書紀も、発注者は天武天皇です。
え〜っと、間違いでした。訂正いたします。
古事記の発注者は天武天皇ですが、
日本書紀の発注者は、天武天皇という定説の他に、
元明天皇との説もあるようです。
罪滅ぼしを兼ねて、記紀成立について調べてみました。

不詳 天武??年 天武が帝紀・旧辞の選録を目的として稗田阿礼に誦み習わしはじめる。
681年 天武10年 天武が川島皇子以下12人に帝紀と上古諸事の記定を命じる。
691年 持統5年 持統が大三輪氏以下18氏に墓記を上申させる。
711年 和銅4年 元明が太安万侶に旧辞の選録をを命じる。
712年 和銅5年 古事記 成立。
713年 和銅6年 持統が諸国に風土記撰述を命じる。
714年 和銅7年 持統が紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史選定を命じる。
720年 養老4年 日本書紀 成立。

論点は幾つかあるようですが、
・天武10年の帝紀と上古諸事の記定と稗田阿礼への詔勅との前後関係
・天武10年の帝紀と日本書紀との関係
・天武は国史編纂を意図していたかどうか
といったあたりが中心的な論点のようです。

一般には、天武の稗田阿礼への詔から古事記編纂が始まり、天武10年の川島皇子以下
12人への詔から日本書紀の編纂が始まったとするのが定説だと思いますが、
天武10年の記定事業と稗田阿礼への詔勅は、同じ事の別表記であり、日本書紀とは関係
なし。日本書紀の編纂は和銅7年の持統の詔から始まった、とする説もあるようです。
また、天武はあくまでも帝紀・旧辞の選録を目的としいたのであり、国史編纂は考えて
いなかったが史料の収集選別の過程を通じて国史編纂が構想されるようになった、
とする説もあります。

古事記は、稗田阿礼が誦んだものを太安万侶が選定記録していのる事は、古事記の序から明らかです。

日本書紀は、誰が選定したのかはわかりませんが、
誰が述作したのかは、森博氏の緻密な研究からほぼ判明しています。
以下、中公新書「日本書紀の謎を解く」から引用します。
「持統朝に続守言と薩弘恪が書記α群の撰述を始めた。続守言は巻十四から執筆し、
巻二十一の修了間際に倒れた。薩弘恪は巻二十四〜二十七を述作した。
文武朝になって山田史御方がβ群の述作を始めた。元明朝の和銅七年から紀朝臣清人が
巻三十を撰述した。同時に三宅臣藤麻呂は両群にわたって漢籍による潤色を加え、
さらに若干の記事を加筆した。」

何かの参考になれば幸いです。


83

Re: Title真珠

投稿者[ ] 発言日時 [3月10日(日)01時58分30秒]

元の発言 [ Re: Title真珠 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 3月9日(土)23時54分19秒 ]

>> 魏志に忠実に従えば明帝ですよね。
>> 公孫氏滅亡の報を受けて景初3年の遣使は畿内ではほとんど遣使不可能ですから、景初2年、卑弥呼は公孫氏に遣使しようとしたが
>> 6月に帯方郡に到着した時、郡は魏の劉夏に占領されていたと言うストーリーを真面目に考えているんです。
なるほど、景初二年が正しい、という説ですね。私にはどちらとも判別がつきません。

>> なるほど。
>> しかし、倭国の産品にも「出真珠」と記載されていますが、これも水銀朱なんですか?
どうなんでしょうか?
真珠は水銀朱の事であろうという説を紹介しただけで
私自身は、なんとも決めかねています。

>> 真珠、青玉と続けば両方とも装飾品のような感じですが。
確かにそういう感じもしますね。


84

Re: Title真珠

投稿者[ 豊玉 ] 発言日時 [3月10日(日)02時06分47秒]

元の発言 [ Re: Title真珠 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 3月10日(日)01時58分30秒 ]

スレッド纏め横割りごめんなさい。

雑駁な書き方ですが、大論争の東夷傳部分を参照させて
いただきますと、

a. 出眞珠、青玉。其山有丹、
b. 眞珠、鉛丹各五十斤
c. 白珠五千、孔青大句珠二枚、

となりますので、b.部「眞珠」の単位は「斤」重量で、
c.部「真珠」の単位は「枚?」となり、c.部は重量では
なく個数の単位ではないかと推定されます。

ただし、ここは論議の部分だから、大論争東夷傳では
b.部の眞珠と鉛丹は行区分してあるし。

外交上の賜物なり返礼品は、よく見ると順位がありそうで、
目録上のものは価値が高いものと考えてよい様に思います。
ただし、地誌部に適用するか否かは別問題なのですが、
a.b.cともに「珠」が先にきている所は注目しておくべきかと
考えています。

文章とおりに解釈するなら、b.部「眞珠」は今の真珠と考えるのが
妥当ですし、

b.部の「眞珠」の解釈をa.c.を同一単位と考えて解釈すれば
b.部は重量であるがために「眞珠」は「硫化水銀朱」のこととなる
かも知れないし、(この場合、水銀と鉛の価値順位は正とする)

a.に「珠」と「丹」を区別しているのだから倭国の「丹」とは
別のものである、と考えられるし、

さらに拡大解釈すると、a.部やc.部の「珠」の単位が欠落していて
どうにでもなれと言うことかも知れない。

これではどうにもならないから、「真珠」の別用例が必要になる。

私には残念ながら、「眞珠」という言葉が始めて文献に現われる時期が
わかりません。馬頭鬼さんの発言を待たずにこんなことを書いちゃ
行けないなぁ、とは思うのだけど、「眞珠」なる言葉はいつから
使われたんだろう?

紅海とか地中海の方では今の「パール」に繋がる語源があるはずだが
「眞珠」はどう呼んでも「パール」にならないものね。

私は「硫化水銀朱」説が結構好きなんですが、断定するに至らないです。


85

Re: 女王之所都

投稿者[ 白石湖南 ] 発言日時 [3月10日(日)11時09分26秒]

元の発言 [ 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月9日(土)20時12分15秒 ]

おはようございます。

>> わたしもですよ。考古学関連の本は20冊程度しか読んでません。

#20冊も読んどれば立派やて。僕がまともに読んだんは
岩波文庫の魏志倭人伝
二見書房の「邪馬台国論争99の謎」
中央新書の「倭国」
講談社現代新書の「魏志倭人伝」
青春出版社の「卑弥呼の鏡 謎と真実」
くらいなもんです。あとは本屋で気になったところを
目に通すぐらい。
だから、おにりんさんの投稿は勉強になります。専門的過ぎてわかりにくい時もあるけどな。


>> >> #倭人の条にある数字については清張さんと同意見。
>> 今度、読んでみよう。

#すみません。立ち読みだったんで本の名前とかわからんのです。確か中央出版だったような・・・

>> >> 信憑性の無い数字の羅列であると考えてます。
>> うーんわたしはなんとか合ってるものと思ってますが。

#清張さんのいちばん有名な説ではないでしょうか?
最初この説を目にしたとき、
「小説家らしい大胆な説やなぁ」
と思ったもんです。この説をとるかとらんかは別として
一つの考え方として目を通しとくのをオススメします。

>> それは初めて知りました。では、陳寿さんは公正明大な歴史家だったんだ。また、当時の中国の歴史書の意義もレベルは高いですね。

#僕は「三国志」言うもんは「演義」しか読んだことないけど、蜀志の一節に諸葛孔明について
「軍事的才能はあまりなかったんじゃないだろうか?」
という記述があるんだそうです。
晋王朝に気を使ったとも解釈できますが、僕は実際に孔明さんはこんな感じの人だったんじゃないかと思ってる。蜀という国が貧乏だったという事情もあるだろうけど、この人の戦略は一辺倒で思い切った戦略というものがない。戦略といった点では曹操の方が華がある。
 陳寿さんはこういったドライな目を持ってるとおもうんです。この記述だけから判断するのはおかしいかも知れんけど。前にも書きましたが「魏志」に関しては腫れ物を触るように書いていたけど、他の国に関しては歴史家本来の視点で書いたと思います。


>> >> 2.内陸部の国々は農業が主流で沿岸部の国々と交易を
>> していた。

>> わたしが最近思ってることは、平野部には巨大な勢力は発生しなかったのではないか、と思うのですよ。平野部にはたいてい巨大な河川があって、それがクニの境となる。戦国時代もそうですが、この時代も群雄割拠ではなかったのかなと思ってます。

>> >> 5.内陸部のクニもこれに便乗して沿岸部への侵入をは
>> じめる。
>> わたしと逆ですね。私は海上から陸へと進撃したと思ってます。神武伝説みたいに。

#前回投稿したとき内陸部に「何らかの理由から・・・」という書き方をしました。これだけでは弱いような気がして沿岸部(特に港湾部)の側の要素も考えてみました。
一番重要なのは
「桓帝、霊帝の時代に倭国で大乱がおきた」
という記述。
 それまで金印をもらうくらいまで漢から保護されていた沿岸部の国々が後漢の衰退(黄布の乱など)に比例して勢力が衰えていったのはまずまちがいないでしょう。
 それまでに鉄器の普及が進んだことが乱を拡大させた一因やね。石器から鉄器への変遷については沿岸部と内陸部の経済的格差に大きくかかわってくる重要な問題なんやけど長くなるからまた別の機会に書きます。
 あと、忘れてはいかんのがその頃の東アジア全体が「小氷期」だったということ。中国の黄布の乱も元々は飢饉から端を発したもんやった。日本の農業も打撃を受けたと考えられる。
 港湾国家の王様たちは弱り目に祟り目やったんやろね。以前さらっと読んだ本には、この時期(大乱の時期)の銅鏡の出土も激減しとると書いてありました。
 

>> 畿内勢力とありますが、3世紀前半から中期にかけて北部九州には畿内勢力の進出を現すような遺跡・遺物がなく、また畿内勢力自体が無かったのではと思ってます。

#ごめんなさい。進出ではなくて台頭です。九州勢力の衰退に伴って畿内勢力が肥大した・・・ということを書きたかったんです。

>> わたしは東遷説です。東遷説も二つあって、
>> 1、早期東遷説・倭国大乱時に北部九州勢力が畿内を支配したという考え。卑弥呼は大和に居り、邪馬台国大和説になる。寺沢薫・柳田康雄がこの立場。
>> 2、後期東遷説・卑弥呼の死後の「倭国また乱」のあと東遷。卑弥呼は北部九州にいて、邪馬台国九州説となる。奥野正男などがこの立場。

>> わたしは1+2の後期東遷説です。東遷は二度あって、暫時的に畿内を手中に収めた、とかんがえてます。

#東遷説というのはダイナミックで面白い説ですが
考古学的な証拠が今のところないのが苦しいですね。
僕は「漢の倭の奴国王」の時代以前から移民があったと考えてます。食料の自給率が高まれば人口も増えるわけでして、それらがあぶれて東へ東へと移っていった。
この時点では畿内が目的ではなくて、九州に近い土地だったやろうけど、前にも書いたとおり
自給率増える → 人口増える 
の図式で東へと広がっていって畿内に行き着いたと考えます。
 畿内に行き着く頃には武装集団化していてそういう集団が畿内勢力へと発展していったのでしょう。
 事実、畿内には前方後円墳がたくさんありますが、この原型ともいえるミニサイズの前方後円墳が徳島に多数存在しています。これは徳島にあった勢力が畿内へと移ったことを示しているわけで、邪馬台国以前には「東遷」に近いものがあったと考えることが出来ます。
 ところがや、邪馬台の時代あたりになると土器の流れが逆になるんや。「東から西へ」に。
 結論から先に言うけど、大きな国家組織が軍隊を擁して東に攻め込んだというのは最初に書いたとおり、考古学的な確証は今のところありません。
 可能性があるとするれば「跡の残らない小規模な東遷」です。
「跡の残らない小規模な東遷」・・・畿内説の人たちが聞いたら大笑いしそうな話やけど、不可能ではないと思う。
 九州にあった国と畿内の国が同族で、しかもとても親密だったとしたらどうやろか?その親族が船で瀬戸内海を渡ってって、そこにいた連中と政権を交代すればすんなり行きますわな。
 別のパターンとして小規模の勢力が九州島を脱出して
中国山陰山陽を通ってひそかに連合を組み、畿内勢力を乗っ取った・・・というパターン。
「古事記」の「神武東征」はこれに近いかもな。
 ゲリラ戦で政権を交代という可能性もありますな。キューバのカストロみたいに少人数で畿内に上陸して王宮に侵入して占領。で新政権樹立。
何か「東遷」にふさわしくない話ですが「可能性」の問題から言えばこの辺になるように思えます。
 僕の頭で考えられるんはこんなもんかな。何か言い考えがあったら教えてください。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ 三河 太郎 ] 発言日時 [3月10日(日)11時14分07秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月10日(日)01時27分27秒 ]

くみさんおはようございます。もうすっかり春ですね。

>> >> 渡来人の痕跡、重要な影響を消し去りたかったのではないか。そんな思いもしています。

>> ここなんです。これが最初の疑問でした。なぜ「自分は彼の地から来て、ここで王となった。」と言ってはいけないのだろうかと。
#この時代、7世紀後半の50年の時代背景を
a 律令制によって国家としての基盤をつくり、国家体制
が確立した。日本の国号も称するようになった。
b.文化的には仏教文化が定着して、天平文化の花開い
ていた。
要するに、国家体制も、文化的にも近隣諸国に肩を並べる
ようになった。凌駕する面もあったでしょう。そんな時代
だったと考えています。
それまでは、追いつき追い越せのに全精力を注いでいた。
まっしぐらに走ってきた。当然ながら、当時の最高の文化
人であった、渡来系の人々の知識を重用した。そのために
有力者にもなったし、朝廷との関わりも強くなった。
一方で、国家体制も、文化的にも近隣諸国と遜色ない
国が建設できた時に、フト周りを見回すともう必要としな
い人々がいる。過去の関わりからむしろ、排除したいと考
えた。
蘇我氏の滅亡から「書紀」編纂は一本の線で結ばれている
と思っています。
太安万侶の墓所を見て、この時代、7世紀後半の渡来人の
処遇は本当に厚遇されていたのか本当に疑問に感じます。

今回も、黒岩重吾先生の世界になりました。すみません。




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Re: 小林惠子説

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月10日(日)15時27分36秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ くみ ] 日付 [ 3月10日(日)01時25分34秒 ]

くみさん、こんにちは。

聖徳太子が百済人であれば、結構なぞが解ける。
隋との交流の理由もわかるし、もちろん仏教も。
小野妹子の国書を奪われたことでも、出身国の
ことだから、大目にみたとかね。

そんな書かなくてよいような事が書いてあるのは
天武が新羅系だから書かせたとか。


>> 諸葛孔明と聖徳太子の違いは、孔明が三顧の礼で劉備に仕えた人であり、聖徳太子は用明天皇の皇子です。
>> 諸葛孔明が王になれば乗っ取りですが、太子は王位に一番近い人だったはずです。ほんとにわかりません。

太子が百済人であった。
(用明の養子でもいいけど)人質として日本に来ていた
から王にはなれなかったと考えることはできます。
権力の主体は蘇我氏であったと思われるので、
太子の後ろ盾でもあったであろう馬子の意向で
王になることまでは許されなかったかもしれません。



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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [3月10日(日)15時44分10秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 3月7日(木)12時07分15秒 ]

こんにちわ。

>>  まあ、大阪湾ですら寄港地がないルートは危険なのですから、密に海岸に沿って進むことには意味があるのだといいたいわけです。

実は、この密に海岸に沿ってというところが気になるのです。
海岸線を見ながら進むのはわかりますが、別に海岸線から
30mとかいう距離ではないでしょう。
あまりに海岸線に近ければ、岩などで座礁したり、返す
波などの影響も受けやすいでしょう。
大阪湾の話は渦潮がらみだと思いますが。

前に論議されていたような、まるでフラクタルごときの
航海はされなかったと思います。
点で結んだような航路をとったと考えたほうがいいのでは
ないかな?


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Re: 承前 21か国だいたい比定!

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [3月10日(日)16時01分21秒]

元の発言 [ Re: 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ やまし ] 日付 [ 3月9日(土)06時59分45秒 ]

>> 葛城は、「くずしろ」という読みもあるようですね。
>> 「くず」だったら「躬臣」にかなり近いような気がするんですが・・・。

この読みは何時まで遡れるのでしょうか。
「かづらき」の方は紀まで遡れるので・・・

>> (ku-O(n) zu-i(n)あたりの音に対応していると考えています。)

このよみは長田さんの本にあった読みですか?
話が飛びますが、漢代の胡語の音訳に限定した現象で、r/nの交代が起きます。
Arshakの音訳が安息にあるという類のものですね。
臣の子音韻尾をnでなくrをとったものかとも疑ってみたんですが強引過ぎるかも知れません。
ただこれらの音訳の解釈は、その時代の漢字の正確な音韻もさることながら音訳される側についてもある程度資料がなければ成立しません。
正確な音を決めた後、一気に雰囲気で読み下して、似た単語や地名を見つけるのが本当なのでしょう。
ただ倭人伝の時代の日本語について余りにも分からないことが多すぎて難しいのだと思います。
誤字の可能性も高いし。
胡語の音訳など見ていると、後ろの方が落ちているケースが多いし。
後ろに何か音を補うのはそんなに変じゃないかもしれません。
藤堂辞典の読みでいくと「躬」はng終わりになっています。
すると連合仮名として読むならば、後ろの文字はg始まりが妥当と思います。
「臣」の古い音はg始まりに推定されていますが、ghのような子音が漢代まで残っていたか疑問もあります。
日本語にあてるのも変ですし。
またやっぱり閉音字は少しは誤字を疑ってみるべきです。
森氏の解析で、倭人伝には開音字が圧倒的ですから、ランダムに誤字が発生すると、閉音字になって現われる可能性が高い。
「躬」とのつながりの問題と、閉音字であることなどから、「臥」の誤字の可能性もあるかと思います。
コガ(kOgua)ですか。
久我神社、久我国造り・・・
琵琶湖周辺には伊賀、甲賀、多賀、滋賀なんか賀が多いですが、これが土地を意味しているならコガとコナは繋がるかも。
すると許野もかんでくるかな。
やっぱり山城かなー。

>> ピクポポデミさんも音韻に関して調べておられるようなので質問ですが、
>> どのように倭人伝の音訳語と上代の音韻を結び付けていますか?
>> このあたりの話をしっかりやっておかないと、音が合っているとか
>> 合っていないとかという議論ができないので。

ちょっと意味がわかりませんが。
長田さんのやっている、s方言の話でしょうか。
だとするとこれがとっても納得いかないのです。
まず「升」や「声」の子音の推定が、藤堂とかではs系になりません。
これは推定方法によるのでしょう。
また長田さんの推定でts系に入る音は誤字とされている。
これで倭人伝の音が、上代の日本語に繋がらないとするのは強引過ぎるように思います。
これなら私の、倭人伝中には上代日本語に繋がるグループと、3世紀の北部九州方言が共存しているという方が、まだ分がありそうに思います。
また長田氏が「邪馬台国の言語」を出版したのは1979年で、内容の主な部分は1970年代前半に発想されているようです。
1978年に稲荷山鉄剣の金石文が発見され、それをもとに上代日本語にサ行が二つあったという説が出されました。
#村山七郎著 『日本語の起源と語源』 三一書房 1988
また森氏のα群の分析からも同じ音のなかにtsもsも出てきますから、長田氏の倭人伝の言語は上代日本語につながらないという説は無理と思います。

>> #おにりんさんが議論に参加しないと、やはり活気がないですね。

#倭人伝の母音を分析してみると、どうもイ段が多い。
http://www.dai3gen.net/boin.htm
#私が分類してみると、官名/人名は特にそれが顕著で、国名はそんなことはない。
#官名/人名の母音分布は、日本書紀の名詞の終わり音節の分布に近い。
#国名はほとんどがア/イ/ウの三母音になりそうな気がする。
#これは国名だけの問題か。
#和名抄の群名で母音の分布をみてみるか。
#現在の沖縄方言は三母音だが、「おもろそうし」の研究から中世以降三母音に移行したことがわかっている。
#しかしこれは日本語が基本的には三母音で成立しうることを示している。
#後漢代の北部九州はもしかしたら三母音か。
#すると21ヶ国リストは、三母音のフィルターがかかっているか。
#複数の母音が合流して表現されているなら、本州方言の音をどう復元するか。
#沖縄方言を参照してみる?


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決定事項について

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [3月6日(水)06時46分42秒]

元の発言 [ 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 3月6日(水)05時31分33秒 ]

>>  いくら何でも、出入り禁止はかわいそすぎると思います。

決定以降24時間程度様子をみさせていただきましたが、反省の言葉が聞けませんでした。
確定といたします。

彼の活躍の場は他のどこにでもあります。
マルセさんにとっても対話の場が失われたわけではありません。
身近ばところでは
http://www.ha-kodai.com/index2.htm
などがあります。


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Re: 日本書紀と古事記

投稿者[ 小鳥遊 ] 発言日時 [3月10日(日)18時54分27秒]

元の発言 [ Re: 日本書紀と古事記 ] お名前 [ 由 ] 日付 [ 3月10日(日)01時49分38秒 ]


>> 何かの参考になれば幸いです。

由さん、ありがとうございます。
帝紀は日本書紀のこと、旧辞は古事記のことと単純に考えてはいけないようですね。
「日本書紀の謎を解く」読んで見ます。


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Re: 承前 21か国だいたい比定!

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月10日(日)19時41分20秒]

元の発言 [ Re: 承前 21か国だいたい比定! ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 3月10日(日)16時01分21秒 ]

>> この読みは何時まで遡れるのでしょうか。
>> 「かづらき」の方は紀まで遡れるので・・・

すみません。この読み方だったら音としては近いかなというだけです。
この地名が対応してるとか言う話ではないので・・・。

>> >> (ku-O(n) zu-i(n)あたりの音に対応していると考えています。)

>> このよみは長田さんの本にあった読みですか?

そうですね。それに近い読み方です。
ただ、長田氏は漢字音を倭音ふうに読んでいるようです。
つまり、介音と主母音によって日本語の音を当てているようです。
すると「対」が「tuOi」であっても「と(乙)」としてしまう。
でも、中国語の原音を知っている者からすれば、
オ段乙にそんな漢字は持ってこないと思うのですけど。

>> 話が飛びますが、漢代の胡語の音訳に限定した現象で、r/nの交代が起きます。
>> Arshakの音訳が安息にあるという類のものですね。
>> 臣の子音韻尾をnでなくrをとったものかとも疑ってみたんですが強引過ぎるかも知れません。
>> ただこれらの音訳の解釈は、その時代の漢字の正確な音韻もさることながら音訳される側
についてもある程度資料がなければ成立しません。

「躬臣」のなかの「ng」「n」については、鼻濁音+αの可能性はどうでしょうか。
どういった鼻濁音だったかは定かではないものの、「ng」に関しても
次の「臣」と合わせるとそれほど問題はないと思うのです。
(自説の比定地にあたる高知は、破裂音前の鼻濁音で有名な所です。)

>> 誤字の可能性も高いし。

これはいつも出てくる話なのですが、疑問に思っています。
三国志(例えば紹熙本)の他の部分において、明らかに転記ミスだという箇所
が多数確認されているということなのでしょうか?
史料の確かさは史料ごとに異なるもので、ある写本に間違いが多いといって、
他の史料の不確実性など決して言えないと思うのですが。

>> >> ピクポポデミさんも音韻に関して調べておられるようなので質問ですが、
>> >> どのように倭人伝の音訳語と上代の音韻を結び付けていますか?
>> >> このあたりの話をしっかりやっておかないと、音が合っているとか
>> >> 合っていないとかという議論ができないので。

>> ちょっと意味がわかりませんが。

まず、漢字音の音価について、藤堂氏の上古音−中古音の広い範囲内
で調べるということなのか、それとも途中の音価からそれを修正していくのか、
ということです。私は、方法に問題があっても長田氏の音価のほうが、
藤堂氏の上古音または中古音より近いだろうと考えています。
ですから、これを基礎にして音訳語や押韻を用いて修正していくほうが
効率的だと思うのです。
そして、この後が問題なのですが、弥生時代に8母音というものがあったか
どうかということです。もしあったなら、日本書紀α群のような対応を
考えればいいかもしれない。しかし、音訳語を調べていると、
そんなことはいえそうにないと思ってしまいます。

>> 長田さんのやっている、s方言の話でしょうか。
>> だとするとこれがとっても納得いかないのです。
>> まず「升」や「声」の子音の推定が、藤堂とかではs系になりません。
>> これは推定方法によるのでしょう。
>> また長田さんの推定でts系に入る音は誤字とされている。
>> これで倭人伝の音が、上代の日本語に繋がらないとするのは強引過ぎるように思います。

もちろん、これに関しては私もずいぶん強引だと思っています。
倭人語は上代日本語にかなり近いと思っています。
#四国だと畿内と九州どっちの方言に近かったのかなあ。

>> #倭人伝の母音を分析してみると、どうもイ段が多い。
>> http://www.dai3gen.net/boin.htm
>> #私が分類してみると、官名/人名は特にそれが顕著で、国名はそんなことはない。
>> #官名/人名の母音分布は、日本書紀の名詞の終わり音節の分布に近い。
>> #国名はほとんどがア/イ/ウの三母音になりそうな気がする。
>> #これは国名だけの問題か。
>> #和名抄の群名で母音の分布をみてみるか。
>> #現在の沖縄方言は三母音だが、「おもろそうし」の研究から中世以降三母音に
移行したことがわかっている。
>> #しかしこれは日本語が基本的には三母音で成立しうることを示している。
>> #後漢代の北部九州はもしかしたら三母音か。
>> #すると21ヶ国リストは、三母音のフィルターがかかっているか。
>> #複数の母音が合流して表現されているなら、本州方言の音をどう復元するか。
>> #沖縄方言を参照してみる?

上の考察は面白いですね。
方言の研究は様々なことを教えてくれそうです。

倭人伝の音訳語には、大量のア段とイ段があって、
なぜかウ段とオ段乙は少ないように見えます。
私は、iOあるいはOiあたりがエ段、uaあたりがオ段甲
になったと推測しています。
なお、「狗」はオ段甲の可能性が高いと思っています。
音訳と「彦」に対応すると考えられるので。

この後の音韻変化の推測としては、ア→オ乙、イ→ウの交替により、
上代語におけるバランスに近づいていく。
さらに、Oeからエ段乙、uiからイ段乙が表われるが(渡来人の影響?)、
結局5母音に収束していく。まあ、もちろん想像ですが。

う〜ん、本当に倭人は不安定な8母音を話せたのだろうか・・・。


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Re: 承前 土佐説(邪馬四さんへ)

投稿者[ やまし ] 発言日時 [3月10日(日)19時46分36秒]

元の発言 [ 承前 土佐説(邪馬四さんへ) ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 3月6日(水)21時53分08秒 ]

>> 返信が遅れてすみません。自分の考えを文章にするのは
にがてなので気長におつき合い下さい。

そうですね。気長にやりましょう。
古代史のロマンなんですから。

>> 邪馬四さんもご存じかと思いますが、高知県には前方後円墳が全く見られません。
>> 高知県内では200カ所程の古墳が確認されていますが、そのほとんどが横穴式石室墳であり、古墳時代後期のものと位置づけられています。
>> しかし、邪馬台国土佐説が成立するためには、卑弥呼の墓の存在が不可欠です。

>> したがって、私としては
>>  @ 魏志倭人伝の卑弥呼の墓は、これらの横穴式石室墳の中にある。
>>  A 横穴式石室墳は土佐においては2世紀以前よりつくられていた。
>> という前提にたっています。

なるほど、現在の古墳の編年は、あまり信用していないということですね。
でも、古墳時代後期を弥生時代まで持って行くのは、かなり大変そうです。

私は卑弥呼の墓はいわゆる「古墳」ではなかった可能性もあると思うのです。
「卑彌呼以(すで)に死し大いに冢を作る。徑百餘歩、[ジュン]葬するの者奴婢百餘人なり。」
という文章からだけでは「古墳」だと判断できないと思うのです。
そういう意味で、古墳の前形態のようなものがあり得ると思っています。

>> >> >> 魏志倭人伝の上記の里程について、「土佐耶馬台国論」では、
>> >> >> 唐津付近に上陸後東南へ向かい、日田が伊都国、
>> >> 次に東へ向かい九重町付近が奴国、
>> >> 大分付近が不弥国で、日本海側から豊後水道へ抜けるルートです。
>> >> >> 不弥国からは放射式で考えて、南至投馬国は南九州へ、
>> >> 南至邪馬台国は南四国への水行となります。

>> >> 福岡経由と佐賀経由がありますが、
>> >> なぜ、陸行で前原、福岡、久留米あたりが記述されなかったのでしょうか?
>> >> あと、伊都、奴、不彌の地名の対応はどうでしょうか?

>> ご指摘の、前原、福岡、久留米あたりは前方後円墳が多く見られる地域かと思われます。
>> したがって、倭国とは敵対関係にあった国々であり、
そのために記述されていないものと思われます。
>> また、福岡経由か佐賀経由かの件に関しても、どちらも経由せず背振山地の南を通って、
敵対関係にある地域を避けて、日田のあたりまで陸行したのではないでしょうか。

うーん、かなり大変な陸行ですね。
一度は山を下りざるを得ないようですが。

>> ついでながら、魏志倭人伝では、末盧國から東南への陸行ですが、後代の資料である、
隋書などでは「一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。」
などの記述がみられ、福岡から瀬戸内へ出るルートをとっています。
>> これは、宋書の倭の五王の記述にみられるように、倭国(私の説では四国の国家)が、
東西、海北の周辺諸国を支配下に置いたことにより、瀬戸内ルートの安全が確保できる
状況になったためであると考えます。
>> といっても、「東して秦王国」とは 秦王国=秦=幡多 であり、
豊後水道を高知県西部へ南下し、土佐へ向かったと思われます。

ふむふむ、面白い考え方ですね。
秦王国=秦=幡多は、ありえそうだと思うのですが
有力な説ではないのでしょうか?
また、いろいろお話をお聞かせください。


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Re: 女王之所都

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [3月10日(日)20時08分20秒]

元の発言 [ Re: 女王之所都 ] お名前 [ 白石湖南 ] 日付 [ 3月10日(日)11時09分26秒 ]

>> #僕は「三国志」言うもんは「演義」しか読んだことないけど、

いえいえわたしなんか横山光輝のマンガだけです。

>>  それまで金印をもらうくらいまで漢から保護されていた沿岸部の国々が後漢の衰退(黄布の乱など)に比例して勢力が衰えていったのはまずまちがいないでしょう。

それが、北部九州の弥生後期の住居遺跡はほとんど継続して古墳時代前期まで続きます。また鉄器の出土も相変わらず多く、遺跡からは勢力が衰えた、他の支配を受けた、とはいえないんですよ。

>> この時期(大乱の時期)の銅鏡の出土も激減しとると書いてありました。
>
というより、中国本土が混迷しているため、鋳造業が打撃を受けているためです。代わりに北部九州では国産の大型鏡が作られます。平原のとかはほとんど倭鏡。津古生掛の鏡も倭鏡。

> #東遷説というのはダイナミックで面白い説ですが
>> 考古学的な証拠が今のところないのが苦しいですね。

うーん、巨大古墳の埋葬の風習は北部九州沿岸の影響を受けすぎているのですが。『鏡を頭部に置く(個人の宝器として)、鏡の多数埋葬、鏡、剣、勾玉ー三種の神器をセットで副葬する、棺内への大量の水銀朱の使用』などです。古墳自体の影響は東部瀬戸内の影響ですね。

>> 食料の自給率が高まれば人口も増えるわけでして、それらがあぶれて東へ東へと移っていった。

奈良東南部に巨大古墳ができる頃は、畿内の人口が増大するそうです。それ以前はそうでもないらしい。残された人骨データからは畿内の人々は北部九州の渡来人系の影響が多量にある、のこと。実際北部九州でこの時代みられたベッド状遺構の住居跡がこのあと河内でも見られるようになります。
倭人伝で「父母兄弟は居所を別にする」と記事があってなんかわかんなかったんですが、野方遺跡行ってあっ、これだったんだ!と思いました。4っつのベッドがあったんですね。


>>  ところがや、邪馬台の時代あたりになると土器の流れが逆になるんや。「東から西へ」に。

はい。でもそれが畿内勢力の進出を表すとはぼくは考えておりません。土器は「文化」や「人の移動」を表すもので、それ以上はいえないでしょう。土器の移動を政権の進出とみなしているのは邪馬台国大和説の人たちだけの特殊な理論です。他の時代ではとてもそんなことはいえない。
わたしは北部九州へ畿内(河内)からの混乱による亡民を受け入れた、と見ています。

>>  九州にあった国と畿内の国が同族で、しかもとても親密だったとしたらどうやろか?

わたしも最近それを考えるようになりました。
長髄彦は神武と対戦する直前に神武に対して自分が天神の子であることを証明するため歩靫を示します。そして神武も自分の歩靫を長髄彦に示します。
ひょっとして長髄彦は倭国大乱時の北部九州系の東遷の子孫で(この人たちの古墳が巻向古墳群)、んで神武は「倭国また乱」のときの東遷した人でこの対決を記紀は表しているのかなあ、と思ったりします。そのため前回の権力者より偉大な力を見せ付けるため古墳をより巨大にしたのかなあと。
大阪城も大阪の陣のあとは徳川幕府によってより巨大に建てられますし。



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Re: 奈良時代の世界

投稿者[ たかとり ] 発言日時 [3月10日(日)21時39分36秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月9日(土)13時00分23秒 ]

 yaohideさん、こんばんは。

>> 僕は、聖徳太子はどうも胡散臭いと思っている一人なんですが。

 胡散臭いですね。ですからいろんな説が出るのでしょう。
 しかし、それらはいわば煙ではありませんか。真相は一つのはずですよ。
 問題は火元ですね。
 大山誠一『聖徳太子の誕生』は、それら諸説とは本質的に異なり、
火元にバケツで水をぶちまけたような論です。ほとんど鎮火寸前だと思いますよ。
 是非、ご一読をお奨めします。

 と申しても、yaohideさんにとっては時代が新し過ぎて食指が動かないかも知れませんね。舞台は奈良時代です。藤原不比等、舎人親王、聖武天皇、元明天皇、長屋王、光明皇后、
僧道慈とかが関わってきます。人間臭い世界です。
 三角縁神獣鏡とか箸墓、布留式の世界とはまるで異なります。

 私も昔は邪馬臺国ファンでしたが、今は飛鳥時代や日本書紀に関心が集中し、掲示板の
邪馬臺国論争をたまにROMすることがあっても、とてもついて行けなくなっています。
 それにしても邪馬臺国論争、長いいくさですねぇ。百年戦争です。
 いったい、矢弾が無尽蔵にあるのでしょうか? 疲れませんか?
 気分転換に、聖徳太子論争を覗いてみては如何でしょう。


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Re: 小林惠子説

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月10日(日)21時46分32秒]

元の発言 [ Re: 小林惠子説 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 3月10日(日)15時27分36秒 ]

yaohideさん、こんにちは。

>> 聖徳太子が百済人であれば、結構なぞが解ける。

まだ私はそこまで到達してないのですが、そろそろ踏み出すべきでしょうか。

>> (用明の養子でもいいけど)人質として日本に来ていた
>> から王にはなれなかったと考えることはできます。

ほんとに謎はなくなります。まいってしまいます。
日本書紀がその辺りのことを嘘で固めたとします。するとみんな騙されてしまうのでしょうか?
半島との深い結びつきを忘れてしまうのでしょうか?
今はちょっとアップアップ状態です。


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Re: 承前 女王之所都

投稿者[ 郭公 ] 発言日時 [3月10日(日)21時47分59秒]

元の発言 [ Re: 承前 女王之所都 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 3月8日(金)22時59分41秒 ]

こんばんは。
>日本書紀では卑弥呼=神宮皇后としてあるのはごぞんじでしょう。皇后の北部九州沿岸の伝説は卑弥呼の事績だと思ってます。

 =と言うのではなくそうなのかも知れないと書紀編纂者は思ったくらいのところではないでしょうか。あるいはそう匂わせているとか。だいいち時代が違いますので僕はちょっと疑問符です。
 むしろ、卑弥呼は天照大神ではないだろうかと。伊勢神宮の八咫鏡がなんであるのかが鍵だと思います。

 神功皇后ですが、書紀には、「皇太后を追尊びて気長足姫尊と曰す」とあり、気長足姫尊は謚なんですよね。いわゆる実在時の本名がわかりません。
 実在説、非実在説いろいろありますが、僕はどちらかと言うと後者です。
 四世紀半ばに息長氏が活躍した形跡が見当たらない。もっと後代になってからです。
 だから、息長氏が天皇家と密接な関係を持ち始めて挿入された後代の創作ではないかと思っています。
 ただ、モデルはいたのかも知れないです。

>不彌国のそばで、神宮皇后と関係の深い場所といえば・・・。
>もうおわかりでしょう。あそこも「潟」ですし。

 不弥国津屋崎説ですね?
 昨年だったと思いますが、pumiは朝鮮語で「潟」の意味があると、この大論争でも書かれた方がいました。
 邪馬台国は宗像ですか?

 沖ノ島の祭祀、宗像三女神など津屋崎から鐘崎にかけて海洋氏族との関わりで興味はあります。一度見て回りたいです。


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Re: Title真珠

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [3月10日(日)21時49分07秒]

元の発言 [ Re: Title真珠 ] お名前 [ 豊玉 ] 日付 [ 3月10日(日)02時06分47秒 ]

遅くなり失礼しました。
牛頭さん、豊玉さん、由さん今日は。
そして、どうもありがとうございました。
花粉症などで寝込んでたのと、その他、調べていたので遅くなりました。
結局、たいした成果は、無かったのですが、

さて、中国では、真珠の呼び方は幾つか有ったようですね。
白珠これも真珠と見ても酔い様なのです。
ただ、白この字に問題がありまして透明の意味もあるらしいですね。

日本でも、しらたまと、呼ぶのが元のようですし。
また前記のHPを見ていただくと書いてあった事なんですが、
珠子、この名前は、真珠を意味するようですし。
5世紀あたり、仏典が翻訳されている辺りでは、
中国でも、真珠が、現在の意味で通じるようです。
とすれば、日本でも仏典で書かれる真珠として、通じるのは、
ポピュラーと言う意味ですが、浄土信仰がでた平安時代以降でしょうか?
資料が見つからず、推定に過ぎませんが。

>> a. 出眞珠、青玉。其山有丹、

これは、間違い無く産物としてですね。

>> b. 眞珠、鉛丹各五十斤

これ、気付いたんですが、薬品としての真珠や鉛、丹の意味じゃないんですかね?
仙薬としての調合された真珠や丹薬との意味には、取れませんか?

>> c. 白珠五千、孔青大句珠二枚、

これは、装身具としての真珠と読むべきか?

>> となりますので、b.部「眞珠」の単位は「斤」重量で、
>> c.部「真珠」の単位は「枚?」となり、c.部は重量では
>> なく個数の単位ではないかと推定されます。

>> ただし、ここは論議の部分だから、大論争東夷傳では
>> b.部の眞珠と鉛丹は行区分してあるし。

>> 外交上の賜物なり返礼品は、よく見ると順位がありそうで、
>> 目録上のものは価値が高いものと考えてよい様に思います。
>> ただし、地誌部に適用するか否かは別問題なのですが、
>> a.b.cともに「珠」が先にきている所は注目しておくべきかと
>> 考えています。

>> 文章とおりに解釈するなら、b.部「眞珠」は今の真珠と考えるのが
>> 妥当ですし、

>> b.部の「眞珠」の解釈をa.c.を同一単位と考えて解釈すれば
>> b.部は重量であるがために「眞珠」は「硫化水銀朱」のこととなる
>> かも知れないし、(この場合、水銀と鉛の価値順位は正とする)

>> a.に「珠」と「丹」を区別しているのだから倭国の「丹」とは
>> 別のものである、と考えられるし、

>> さらに拡大解釈すると、a.部やc.部の「珠」の単位が欠落していて
>> どうにでもなれと言うことかも知れない。

>> これではどうにもならないから、「真珠」の別用例が必要になる。

>> 私には残念ながら、「眞珠」という言葉が始めて文献に現われる時期が
>> わかりません。馬頭鬼さんの発言を待たずにこんなことを書いちゃ
>> 行けないなぁ、とは思うのだけど、「眞珠」なる言葉はいつから
>> 使われたんだろう?

仏典に有るのだから、其れ以前から使われていた事だけは確かだと思います。
少なくとも、阿弥陀経の翻訳以前でしょう。

>> 紅海とか地中海の方では今の「パール」に繋がる語源があるはずだが
>> 「眞珠」はどう呼んでも「パール」にならないものね。

>> 私は「硫化水銀朱」説が結構好きなんですが、断定するに至らないです。

先のHPでは、パールではなく、マルガリータが真珠の意味だと有りました。
花のマーガレットもここから来ていると。

如何しても、真珠を調べると養殖の先はなかなか見つからないんですね。
江戸時代も追えませんでした。
もう一度、順番を追ってさかのぼってみたいです。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月10日(日)21時53分35秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 3月10日(日)11時14分07秒 ]

三河さん、こんにちは。

>> 一方で、国家体制も、文化的にも近隣諸国と遜色ない
>> 国が建設できた時に、フト周りを見回すともう必要としな
>> い人々がいる。過去の関わりからむしろ、排除したいと考
>> えた。

とてもわかりやすい説明をありがとうございます。
渡来人に目を奪われていましたが、九州のことも忘れてはいけないですね。
もちろん、九州の王たちも半島や大陸と無関係ではないでしょうが。
日向で神武が生まれて畿内に移って大和朝廷になります。
出雲のことも大きく扱っていますが、記録の上では大和朝廷の本貫は九州です。

でも今回の一連の話で、大和朝廷と半島の王族との強い繋がりがみえます。
頭がパニックしてます。

黒岩重吾先生のこのあたりを扱った本のタイトルを教えていただけると嬉しいです。


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Re: 7世紀のことですが

投稿者[ くみ ] 発言日時 [3月10日(日)22時03分28秒]

元の発言 [ Re: 7世紀のことですが ] お名前 [ たかとり ] 日付 [ 3月9日(土)23時25分37秒 ]

たかとりさん、こんにちは。
最近、飛鳥にどっぷり浸って溺れそうです。

>> 高向王と高向黒麻呂の関係が問題ですね。

小石房子さんは黒麻呂は百済からの渡来人であり、遣隋使として小野妹子と同行するおり、百済で武王と合い、10年後、王女の宝皇女(皇極天皇)と娶せたのではないかと言います。

【『日本書紀』は高向玄理を用明天皇(聖徳太子の父)の孫とし、高向王と書いているが、用明天皇の孫に高向王はいない。史書を見渡して、もっとも有力と見なされる人物が、倭国初の留学生、高向玄理である。
しかし玄理は王族ではない。
ならばなぜ王族と書いたかといえば、二度も王位を占めた大王の夫が人臣では王位の権威に関わるからである。】

だそうです。反論など出来ませんが、なるほどと積極的に肯定する気分でもありません。

>> ますます困ってしまいます?

はい、もう。
百済や新羅の史書が残っていれば照らし合わせることが出来るのに、残念です。
百済の武寧王の誌石のようなものがごそっと出てくるといいのですが。

大化改新の真相にしても、森博達『日本書紀の謎を解く』を読んで、悩んでみようと思います。
そしたら悩みを聞いてください。